大華国頼事帖・その壱
不眠症はつらいよ(前)
「何でわざわざこんな
狼は目に不満の色をなみなみと
「うん。それはだね……
老狼と呼ばれた狼は、
「……怜乱。いくら俺が甘いものばかり食うのが気に入らないからって、それはないだろう」
「ま、流石にそれは冗談だけどね」
不機嫌な低い声を喉の奥から漏らす狼に、少年は両手を振ってみせた。そしてまた、しばし考え込む様子で黙り込む。
「老狼。
そして、えらく神妙な様子で口を開いた。始めて見る連れの深刻そうな表情につられて、狼も真面目な顔になる。もそもそと座り直して背筋を伸ばした。
「うむ。それ位の事は知っているつもりだが」
「判ってるんならいいけどさ。でも、本当にちゃんと判ってる? 僕らの生活を考えてごらんよ」
うむと頷いた狼は、あらためて自分たちが町に滞在している時の事を思い起こしてみた。
『
少年は昼間っから酒をかっくらい、狼は甘いものばかり食べている。
『
狼はおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。
「まるっきり慈善事業だな」
言葉を受けて、怜乱は軽く溜息をつく。
ちなみに、狼はすっかり忘れているようだが、宿代や食費も全部怜乱持ちである。さすがに小遣いまでは渡していないが。
「良く判ってるじゃない。画師と言えども僕だって旅人だよ。路銀から慈善事業を引いて、後に残るものといえば」
「ほお」
狼の額に一筋の冷や汗が流れた……というのは比喩表現だが、怜乱の眼にはそんな顔をした狼の姿が映った。
少年の話がよっぽど予想外だったのだろう。思いのほか深刻な顔を浮かべた狼は、腕組みをしてむむむと考え込んだ。
しばらくの間、
「……こういうのはどうだろう。俺が銀の鉱脈を発見するから、それを売っ飛ばして金を
首を傾げて提案する狼の言葉を受けて、少年はちょっと眉を動かした。少し心が動かされた表情で、ひとりふむふむと頷く。
「それもいいな、考えとくよ。でも、鉱山の個人所有は違法だからね。
これくらいで?
狼は怜乱の本意を悟った。
「ええい、やっぱり嫌がらせではないか!」
怒ったように尻尾を振り回す狼を見て、怜乱は真面目な表情を崩した。相棒が引っかかったのが心底嬉しい、といった風に喉の奥で笑い声を立てる。
「当たり前じゃない」
「お前な! 結構心配したんだぞ、俺は」
怒った老狼が怜乱に掴み掛かろうとしたその時、遠慮がちに扉を叩く音が来訪者の存在を告げた。
「あのぅ……すいません……」
「あ、誰か来たみたい」
怜乱は老狼の手の先からするりと逃げると、笑みをぬぐい去って扉を開きに行った。
* * *
ちょっとばかり建て付けの悪い扉を開くと、眼の前に赤い猫の顔があった。
げっそりやつれた顔をした、見るからに不健康そうな雰囲気の猫の妖だ。相棒の狼のように二足歩行をしているのは良いが、あまりにもみすぼらしすぎて比べる気にもならない。
毛並みには
これが人間だったなら、不精髭でも生やして目の下に隈でもこしらえている事だろう。
怜乱の眉がぴくりと動く。
猫は泣きそうな声で言った。
「あのぅ……寝られないんですぅ……」
耳にしたもの全てがげんなりした気分になりそうな、情に厚い相手なら勝手に同情して涙の一つでも流してくれるような、そんな情けない声だ。
無言の怜乱はくるりと回れ右をして、
少年の態度に危機感を感じたのか、猫はあたふたと両手を振り回した。
「あああ、
「ちょっと待てだと、怜乱さんよ」
徐に筆を走らせようとした怜乱の頭を、ひょいと狼の手が掴む。
「老狼」
面倒くさい、と怜乱は口を尖らせた。
そんな少年を押しのけ、老狼はその猫を部屋に招き入れる。
「うわ、何だか異様……」
狼に捻られた首をしきりに気にしていた怜乱だったが、おどおどと入ってきた猫の全身を視界に納めるとそんな感想を漏らした。
「僕でもそんな服装思いつかないよ」
「お前の服はいたってまともだと思うが」
妙に感慨深げに言う少年に、狼はすげなく首を振った。
「いやさ、服装と言うよりその感覚が」
「一緒だ」
滅多に他人に対しての感想を口にすることのない怜乱が評したように、猫の着物は一線を脱していた。まるで道化師のような、無駄に飾りの多い着物だ。あっちこっちで鈴の形をした飾りがちゃらちゃらと揺れている。しかも、明るいだけが取り柄のような服を着ているのに、着ている本人は暗い。
その対比は悪質な冗談のようだった。兎にも角にも取り合わせが悪い。
「……あ、あのぅ……画師様……」
困ったように立ち尽くしていた猫は、怜乱が構ってくれないことに痺れを切らしたのか、上目遣いに顔色を窺いながら声を上げた。
「何?」
老狼となにやら言い合いをしていた怜乱は、じろりとそんな相手を睨む。
「……ひぃっ!」
気の小さい人間なら心臓が一瞬止まりかねない冷たい視線を浴びて、猫は尻尾の毛を逆立てて飛び
「何? 僕さ、話に横やり入れられるのが一番嫌いなんだけど」
「いや……でも……」
猫は助けを求めるように狼を見やったが、ちょいとばかりたちの悪いにやにや笑いが返ってくるだけだった。
しばらくおろおろと目の前の二人に視線を彷徨わせていた猫だったが、どうしようもなくなったのか唐突に身の上話を始めた。
「あの~、私、
「妖になる理由なんてないじゃない」
腕を組んで黙っていた怜乱が薄目を開け、再び烏円を見やる。
その視線にびくっと背中を震わせ、烏円は前にもまして小さくなった。耳を寝かせて、濡れ鼠のように小刻みに震えながら続ける。
「ひゃ、ひあぁ、睨まないで下さい~。画師様目が怖いですよぅ。そこから先が問題なんですよう。私、そうやって何の不自由もなく暮してたんです。そうしたら、何だかだんだん寝られなくなってきて」
「ふうん。で、今度は人間に鞍替えしようと思ったの?」
面白くもなさそうな顔で言って、怜乱は尊大な態度で椅子に腰掛けた。足の先でこつこつと床を叩きながら、また不機嫌そうに腕を組んで目を閉じる。
しばらく少年が何を言ったのか判らずにぽかんとしていた烏円だったが、はっと気づいて失礼なと言わんばかりに毛を逆立てた。
「な、何てことを言うんですか怜乱さん!」
「だって一番定番なんだもの。じゃあこっち?」
何やら怪しげな手つきをする少年に、猫はさらにぶんぶんと首を振った。
「ち、違いますっ!」
「それなら
憤慨する烏円を冷静に眺め回して、少年は淡々と感想を述べた。烏円がうっと怯む。
「……ゃ、まぁ、喧嘩はそんなに強くなかったんですけどぉ~」
「毒物を摂取したとか、そういう可能性も捨てきれないけどね……まぁ、元気そうだからその線は心配ないか。動物だし、妙なものは本能的に避けるだろう。じゃ、本当に寝不足?」
「うむ怜乱、そう言うのを近頃のはやり言葉で不眠症と言うらしいぞ」
いつの間にかちゃっかり寝台に転がっていた狼が、銀色のひげをしごきながらそう言った。
「老狼には一番縁遠そうな言葉だよね」
皮肉げに言った怜乱だったが、老狼は何故か誇らしげに肩をそびやかせた。
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