価値を示せ
迷宮からの帰り道。ちょうど神殿の前を通りかかったときのことだった。その声に、なんとなく足を止めたのは。
「
そんな声が神殿の白い階段の上から降りてきたのは。思わずざわめく人波越しにそちらを振り向くと、いつぞや神殿を案内してくれた修道女が咲也子たちに向かって咲也子たちのほうに向かって必死の形相で階段を駆け下りているところだった。まさか関係ないと咲也子とティオヴァルトはまた足を踏み出そうとしたとき、修道女は叫んだ。
「お待ちください、主とその従者の方よ!」
これは明らかに。
神殿付きの修道女が『主』と呼ぶのはキメラである。そして、なんとも奇遇なことに、咲也子はキメラである。
マジかよと思いつつ、足元をちょこちょこと歩いていた咲也子が足を止めたのでティオヴァルトも足を止める。2人が振り向くと、それを見た修道女が目を輝かせる。マジだった。
どこで咲也子の、この幼い主人の情報が漏れたんだ……と内心頭を抱えかけたティオヴァルトだったが。あのとき、‘暴食‘の加護持ちを圧倒した時に、妙にきらきらした目で咲也子を見ていたからそのときだろうかと思い当たる。対して、呼ばれている当人である咲也子は興味深げにしげしげと修道女を見ていた。
大きく息を切らして、ようやく自分たちに追いついた修道女を観察していた。はあはあと膝に手をおき肩を上下させる修道女を、フードの奥で青く光る‘怠惰‘の事実透視に目を光らせながら。肩で大きく息をする修道女をちらりと見て人々は自分の目的地へと足を進めた。まるで何事もなかったかのように。
とてとてと歩き出して咲也子は修道女の前に行くと、こてんと首を傾げた。
「どうした、のー?」
その言葉を聞いた途端、耐えきれなくなったように修道女の目から涙があふれ出した。
「申し訳ありません、主よ」
ぐすっと洟をすすりながら、修道女は頭を下げた。
ところ変わって止まり木の正面。両脇を賑やかなテントに挟まれた場所にある、レンガ造りでレトロな雰囲気を醸し出す喫茶店。年代を感じさせる古いカウンターや木でできた丸テーブル、コーヒーの香りが香ばしい店内。アーシュを、ひんを狙っているものをおびき寄せるために使った喫茶店の中。観葉植物にひっそりと隠された席に、3人は座っていた。
頼んだ紅茶が届き、店員が去ったのと同時に頭を下げた修道女に、咲也子はそのフードを被ったままの小さな頭を横に振った。
「いいの、よー。……どうした、の?」
「いえ、主とこうして会話ができるなど夢のようで」
胸の前で両手を組み合わせ、1度は上げた頭を感動によりもう1度俯けさせた修道女に、ティオヴァルトはため息をついた。らちが明かない。咲也子も同じことを思ったのか、ティオヴァルトに向かってこっくりと頷くと。修道女に向かって尋ねた。
「おれにご用な、の?」
「は……い。主よ、シャーロット様は、彼女は信仰に恥じるようなことなどなに1つしていないのです! とても敬虔な方なのです! それをあのような形で辱めるなど」
「うるせえ」
「も、申し訳ありません……」
だんだんと喋るごとに大きくなっていく声に、ティオヴァルトが釘を刺せば、びくんと怯えたように身体を震わせた後、しおしおと小さくなる修道女。大きな声に集まりかけていた店内の視線はティオヴァルトが一睨みすればほうほうに散っていった。元々盗み聞きするような輩がいる店ではないのだ。ちらりとそれを横目で眺めて、またもや目に涙をためてしまった修道女に、咲也子は首を傾げた。
「シャーロット?」
「神殿付きの、女騎士様でございます。主に捧げる迷宮品を取りに叡智の龍の迷宮に行き、龍に呪いをかけられたのです」
「はずかしめられ、た?」
「龍の呪いは数分で消えます。でも消えなかったのです。荷物持ちとして私も行ったのですが、見ましたもの。龍の呪いを受けたシャーロット様の後ろから、ロッカルー様が呪いをかけるのを! でも、誰も信じてはくれませんでした。そのせいで、シャーロット様は騎士の称号を取り上げられ追い出されるどころか……」
修道女の顔が泣きそうに歪められ、彼女の太腿の上で握られた拳がきゅっと鳴った。
「どころ、か?」
「帰りの馬車の中で主に対し不敬な言葉を吐いたと言われ、不敬罪として犯罪奴隷に……! 断じて、断じてシャーロット様は不敬な言葉などおっしゃられてはいませんでした。私、一緒の馬車に乗っていましたもの!」
ロッカルーというのは神殿付きの騎士でありながら、呪いや黒魔術が得意でシャーロットをことあるごとに目の敵にしていたらしい。シャーロットという女騎士はそれを無視していたらしいから、たまりにたまった感情が爆発してしまったのではないかと咲也子は思った。
シャーロット様は迷宮に行く前にもお祈りをなさっていたのです。ぼろぼろ泣きながらも咲也子から目を離さないその修道女に、咲也子は何を思ったか、するりとフードを取った。
現われた左目の下に縫い跡、右の頬には肉を抉った跡のある幼い少女の顔を前に修道女の喉がひゅっと鳴った。ティオヴァルトの目が鋭く修道女を貫いたが、それには気づかず。ぱくぱくと空気を噛むように口を動かしたあと、それでも咲也子を強く見つめる視線に。咲也子は静かに目を閉じた。
「それ、が」
そして、その無表情のまま。開いた瞳は。
青く輝いていた。
途端、重くのしかかるように清廉とも言える聖なる威圧が修道女の前に降り注ぎ、無意識のうちに胸の前で手を組んだ修道女は俯いて目を閉じた。
時間が止まってしまったかのように、かすかに聞こえていた人の声が遠くなる。辺りに漂っていたコーヒーの香りなんて微塵も感じない。ここだけ切り取られた空間になってしまったように、他とは一線を画するように。その静謐とした空気は修道女に、目の前の存在が神話上の。自らが信仰する神であることを教えていた。
そっとその小さな神様は身を乗り出し、修道女の組んだ手にワンピースの袖越しに触れて。
青い目を静かに細めた。
「君の望みならば」
胸の奥底に心というものがあるのならば、それを温かい手で優しく抱きしめられるように。その言葉は修道女の胸を余すことなく信仰で満たした。
そうして。
ぱちりと長いまつ毛を揺らしてまぶたを閉ざした幼い神は。喫茶店の片隅で、取り残された時間の隙間に。自らの
何度も何度も頭を下げながら、感動にむせび泣く修道女をなんとか泣き止ませて喫茶店を出る。
「お金ならたくさんあるの、よー」
会計時、そういった咲也子を見る修道女の顔はしばらく忘れられそうにないなとティオヴァルトは思った。2日くらい。
まさか神話上の存在の口から、「お金はたくさんある」などという俗っぽい言葉が飛び出してくるとは思わなかったのだろう。というか、普通に考えて嫌だ。何か言いたそうな雰囲気を出しつつも、神殿の前。ティオヴァルトと咲也子がその場を去るまで一度も顔を上げなかった修道女には本当に信仰心というものがあるのだろうと2人に思わせた。
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