【実験】スローモーションの極北

逢坂千紘

1 ‖ ゾーンに入れ!

 最終ピリオドの第四クォーターも残すところあと三十五秒。三連覇のかかった《ダウト・ブレイカーズチーム名:疑惑の違反者ども》が五点ビハインドのなか攻撃をしかける。相手チームは全員が自陣バツクコートにもどって鉄壁をつくっている。一般的なレベルを遥かに超えた体力だと会場のだれもが認めていた。


「外から二本、決めるしかない……」


 ブレイカーズのエース、橋本トオルが大局を見切ったようにつぶやいた。スリーポイントエリアダウンタウンから二本のシュートを決めることができれば六点も入る。うまくいけば勝利できる。ブレイカーズもトオルに賭けていた。一心同体。


 しかし一本目のシュートが決まっても、そのあとのディフェンスでボールを相手から奪取インタセプトできなければ、二本目のチャンスは夏の夜の夢のごとし。勝つためには、シュートが決まったあと、相手ゴールの下でボールを奪う戦術オールコート・ディフェンスが必要があった。トオルは、アイコンタクトでプレイヤー全員と通じ合った。――こっからの三十秒が正念場だ。


 トオルは、ボールを運んできたセンターからパスを受け、ディフェンスを揺さぶる。ゴールに向かってがむしゃらに貫通攻撃ペネトレイトすると見せかけ、逆にバックしてシュートを放つ。ボールは綺麗な放物線を描き、ゴールネットを揺らした。残り、二点と二十五秒。


「オールコート!」


 会場が一気に盛り上がる。相手チームはなかなかボールを出せない。ブレイカーズは死んでも運ばせない、という気持ちで身体をぶつけた。相手が八秒でボールを運べなかったら、強制的に攻守交代八秒バイオレイションとなる。トオルはそれを狙っていた。


 相手は六秒あたりでオフェンスを諦めた。ブレイカーズの懸命のディフェンスが実り、八秒バイオレーションを誘った。残り十七秒・・・


 ブレイカーズのスローイン。時計が動く。パスは回るが、相手のディフェンスも堅い。先のオールコート・ディフェンスでもともと底をつきていた体力をさらに消耗し、ブレイカーズの動きはひどくにぶっていた。しかしやらねばならない。


 トオルにパスが回る。パスを出した味方がトオルのほうに移動し、トオルにくっついていたディフェンスの進路をわざと占有スクリーンする。一瞬だけトオルは自由になった。


(これなら決められる……!)


 そう思ったトオルは、いつも以上に力み、体勢フオームを崩した。シュートはゴールに弾かれ、ゴールの下にいるプレイヤーたちが、ボールの行方を予測し、よりよい場所ポジシヨンを奪い合う。いっせいにジャンプし、先に触ったのは味方のプレイヤーだった。近くの味方がパスを受け、ふたたびトオルに届けるため、パスを継ごうとしている。


 トオルは、先とおなじ場所から、先とおなじ呼吸でシュートを打とうと思った。味方が最後に取ってくれたワンチャンス。力むのではなくて、やさしく、集中力を高める。スリーポイント、それはずっと身体が知っている距離。なんでもわかる親友みたいなもの。あたまで考えるものではない。相手ディフェンスは疲れ切っており、高くはジャンプできない。だから手をかけて妨害フアールしてくるかもしれない。トオルはそれを見越してすぐにシュートを打とうと思った。パスをもらう瞬間から、理想的なフォームを意識する。何度も繰り返してきた〈あの〉体勢に入ろうと思っていた。会場の照明が飛び交う汗を強調する。あらゆる物理的な振動は心地よく、母のおなかで羊水に浮かんでいたころのじぶんを思い出させる。俺は子宮のなかでバスケをする――そんな遠い遠い感覚も、この瞬間だけはリアルで、みんなとバスケをしながら、ひとりでバスケをしているようにも感じられた。フィールド内の、だれがなにを考えているか手に取るようにわかる。全員の神経がトオルに向かって一致する。時間表示を見なくとも、あと何秒なのか、これから何秒かかるのか完全に狂うことなくわかる。時間把握のセンスが極まってゆく。一時間の試合時間を、秒単位で理解できる。一瞬一瞬の筋肉の動き、その変化、疲労による遅れ、緊張による不自由、興奮による加速、それぞれの選手がそれぞれの宇宙をもちながらおなじ一時間を運動し、ぶつかりあう。トオルは、ゾーンに入っていた。遅い、遅い、遅い。すべてが遅延しているような、ある意味で美しい時間に襲われる。どんなところに放っても、すべてあの小さな籠に収斂しゆうれんしてゆくのだと確信する。それは運命的なことで、トオル自身にも変えようがなかった。味方からパスを受け取り、歓声がわきおこる。観ているものたちは、声をあげずにはいられない。不思議な宇宙を目の前で目撃するのである。十人の宇宙がぶつかりあうフィールドで、たったひとつ、際立って異様な宇宙があることに気づく。すべてを飲み込み、すべてを失望させ、根本から諦めさせる強大なエネルギー。ゾーンは、「行け!」というベンチの声援さえ無価値にする違法的な能力。ゾーンにモラルは無い。それゆえゾーンを所有するものも、自身のチカラを詫びることができない。だれも責任をとることのできない免責の奥深さ。彼が集中しているからゾーンなのではない。集中力というものが、彼をはらんでいるのである。トオルは味方から送られたボールを鷲掴み、予備動作なしでジャンプした。だれもがそれを見上げ、だれもがそれに見蕩みとれるしかない。彼の神秘的な運動が、一神教的なイデオロギーとして場を支配する。そこに稲妻でも走っているのではないかと思われた。閃光でさえも彼に追いつけない。トオルは光を導く存在だった。腕の筋肉、足の筋肉、どんな美術作品よりも美しいそのフォームを支えるためのすべての筋肉がドクドクと緊張した。トオルの動きに間に合うため、筋肉は過剰神経的に急いだ。腕の角度、手首の角度、すべてが美しい。相手チームのプレイヤーでさえも、このシュートが入ったら負けてしまうという事実を些細なことのように感じ直し、ただただ永遠にトオルの運動を見ていたいと願った。トオルのゾーンは、あらゆる事実をくだらなくさせた。スポーツのおもしろさとつまらなさを転回させた。大会の運営費や選手の年俸、海外スター選手の獲得、誘致の計画と実行、会場の撤収時間、照明交換のタイミング、PR活動の効果や影響のリサーチ、裏で行われている黒い取引、あらゆることが低レベルに感じられるほど、その一瞬には強烈な革命的意味があった。トオルは最高到達点に到達し、正確無比のタイミングで右手を天にのばす。突き上げられたボールはトオルの指先に触れ、放物線を描く。この放物線を物理式で表現しても理解できるひとはほとんどいないが、目の前で見たものは放物線のなんたるかを全理解できた。あまりに印象的な放物線は、あまりに教育的な意味をも含んでいた。究極の情報量が宙を舞う。悪魔が笑っても、赤子が泣いても、このシュートはゴールに入る――ひとびとは運命というものをまざまざと報道される。存在は情報であり、情報もまた存在である。彼のシュートは、逆らうことの許されない命令に近かった。たかがゲームの三点という得点に、人間の耐えられないほどの意味合いが重ねられた。ゾーンの帯びる熱性の輝きは、ひとびとに超人的な熱をふるう。だれかの退屈な人生が新鮮なものに生まれ変わるほど、あるいはだれかの不幸な人生を代わりに生きてやれるほど包括的に、ゾーンは人間というものをくるみ尽くした。トオルは小さく微笑んだ。逆回転しながら高くあがったボールの宛先を先取りし、未来を熟知した顔つきで、「フロム・ダウンタウン」とつぶやいた。


 ボールはゴールに吸い込まれ、同時にブレイカーズの勝利を告げるブザーが鳴った。束になった歓声があらゆる興奮を表象し、すべての尊いプレーをたたえた。奇跡的な逆転劇でブレイカーズは三連覇を果たし、表彰台のうえでトオルは雄叫びをあげた。

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