第637話 赤い薔薇の花束を君に.8

悲しい。


そんな感情だけが残されている。








遥か彼方まで広がる白い空間に立っていた。

あの木箱がぽつんと置いてある。


ノノハラがそれに近付いた。

蓋はなく、赤白の椿の花と、赤い実で満たされた箱の中にコノンがあの時の衣装で横たわっていた。


目元には涙の跡がうっすらと残っている。


「コノン」


ノノハラが呼び掛けた。


すると、コノンはゆっくりと目を開いた。


此処はコノンの深層心理の底。

コノンとノノハラの心は剥き出しで、嘘はつけない処。


本来、此処はコノンの心の奥底にある、芯となっている風景や物などで溢れている筈なのだが。そんなものは何もなく、ひたすらに白い砂が広がっている。


唯一あるのが、生け贄に捧げられた時の箱のみ。


ザララと、遠くで砂が空から落ちてきて山を作っている。


こちらを見る事なく、見えもしない遠い天をぼんやりと見詰めていたコノンが口を開いた。


「どうして裏切ったの」


「誤解よ、コノン。裏切っていないわ」


「嘘よ。私を置いて皆いなくなったじゃない」


どうしてと泣いていたコノンが思い浮かび、胸が苦しい。


「それは、ごめんなさい。出来るのなら早く戻りたかったけど、それが叶わなかった」


フリーダンの付き人となった今、独断で勝手なことができない立場だった。作戦の事もあったし、それでも一日たりとてコノンを思わない日はなかった。


でも、コノンにしてみれば置いていかれたという事実だけしかない。


「……私はいつもこんな。心から良かったって思えた事なんか一度もない。良いことがあっても、次の瞬間には裏切られる…」


コノンの目から涙が溢れてくる。


「どんなに辛くても、耐えていればいつか、ほんの少しでも幸せになれると信じていた…。どんなに殴られても、蹴られても、誰も私を好きになんかなってくれなくて、一人になっても……、……神様に捧げられたって…、いつか…きっと………」


嗚咽が混ざる。

握られた手から血が滴り、瞳から溢れ出た涙が耳と髪を濡らした。


ヒュッとコノンが息を吸い込む。


「私なんかっ、うまれてこなければ──」


最後まで言い切る前に、ノノハラはコノンを抱き締めた。強く強く。体が勝手に動いていた。今の言葉は、コノンの母親がコノンに向かって毎日のように吐き掛けていた呪いの言葉だ。


それをコノンが言い掛けた。

誰でもない、自分に向かって。


生まれてこなければ良かったと。


「良い筈があるか」


ノノハラの服が涙を吸い込んで濡れる。そんなの構わないと、コノンを強く抱き締めた。

目元が熱い。


「コノンが生まれてこなければ良かったって?そんなの全然良くない!! 私はコノンに救われていた。コノンがいなければ、私は未だに…」


皆、大嫌いだった。

男だけではなく、女でありながら剣を持ち、媚びることなく生きようとしていた私を嘲笑い、人生を全否定した女達も嫌いだった。


女らしく生きられず、男ではなく女の体で生まれてきてしまった自分自身さえ。


ちぐはぐなこの心と体に苦しみ、それでも気高く生きたいともがいてもがいて、棘の道を切り開いた。

簡単な道ではなく、周りは全て私を蹴落としたい敵しかいない。味方なんていない。だから、私は私を守るために必死で、他人なんてどうなろうが自分には関係ないと思っていた。


そんな中。


「私は、ノノハラさんの生き方、すごく素敵だと思います」


コノンは、コノンだけは私の生き方を肯定してくれた。


嫌みでも何でもなく、純粋にそう言ってくれたのだ。


嬉しかった。

初めてこの子には誠意をもって尽くそうと考えた。


「コノンがいなければ、私はいつまでも最低な人間だった。ひねくれてて、人を見下して、自分の事しか考えないちっぽけな人間だった。そんな私をコノンだけは認めてくれた。…だから、そんなこと言わないで…っ」


ボロボロと熱いものが頬を伝って落ちていく。


「生まれてきてくれて、ありがとう…」


そう伝えた瞬間、コノンの腕がノノハラの背中に回された。


ふふ、と、胸元でコノンが小さく笑う。


「そんな事言ってくれたの、ノノハラさんが初めてだ。




    ありがとう」




 

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