第36話 たまたまです

 ねこさんが鳴き声を上げた翌日の休診日を経て、ぼくは再び獣医さんを訪れた。一日まるまる会えない時間があるのは不安感が募って仕方なかった。これが『もう、大丈夫。心配ないよ』と言われた後であれば、会わなくても平気になるものだが、実際に言われていることは『死ぬ確率の高さ』である。ゆえに、その日の夜と休診の日は、とにかく電話が掛かってくるんじゃないかと、着信に怯えまくっていた。メールの音すら敏感になり、スマホを確認してはホッとする。


「たぶん、アイツ、元気になるよ。夢で、すげー元気になっているあいつを見たからさ」


 獣医さんに会いに行く朝にハットリくんに言われた言葉である。


「夢だろう、それ?」


 しかしである。スピリチュアルハットリのすごさをぼくは知っている。彼の叔母が、彼の夢に出てきたときの話を聞いていたからだ。遠くにいる親戚のおばさんが目をかばっていた夢を見た彼は、その話を母親にしたそうだ。


「おばさん、なんか、目の病気とか、ケガとかやってないか?」


 と。それを心配した彼の母が急いで当人に連絡を入れると、少し前に白内障の手術をしたばかりだという。


「普段、夢に出てこない人が出てくるとさ。大抵、なんかあるんだよなぁ」


 夢の啓示らしい。そういう経験が他にもある彼は、わりと自信を持って、ねこさんは元気になるよと言ったのだ。


「だといいな」


 ぼくは半信半疑だった。彼のスピリチュアル能力は非常に高いし、凡人のぼくには想像もつかないような世界の話である。そして、そんな半信半疑のぼくを待ち受けていたのは、彼の言ったような奇跡の姿だったのだ。


「にゃー!」


 スタッフさんに青いカゴに入れられやってきたねこさんの鳴き声は力強かった。さらに驚いたのは、その青かごから飛び出てくる白いものだった。しかも、かなりの高速で、柵の間から頻繁に飛び出てくる。


「にゃー! にゃー!」


 ねこさんの手だった。この間、会いに来たときとは比べ物にならないほどの高速で繰り出されるねこパンチ! そして、そのお顔と言えば……


「……うそ……」


 美しい――それはもう、うっとりするくらいにきれいな顔になっていたのである。ガビガビにくっついていた目ヤニも、鼻水の塊もない。濁りのない真っ白なお顔にピンクのお鼻。まんまるの目は顔の半分ほどを占めているのではないかと思わせるほどに大きかった。


「にゃー!」


 だせ、だせ、だせ、だせ、ここからだせ!


 なにこれ? 奇跡?


 神々しいくらいに元気いっぱいのねこさんが、カゴの中でじたばたしている。カゴの蓋を開けて、彼を触ろうと手を伸ばした瞬間。


 がぶり! がぶがぶ!


 仰向けになって、小さな両手でぼくの手をロックし、噛みまくるのである。


 いやーん、かわいい!


 とろけるかわいさだった。


「にゃー!」


 出たくて仕方なくて、カゴをガリガリするし、柵からねこパンチラッシュをするし、カゴの中を飛ぶ。身体の細さは相変わらずで、触ればあばらの感触がひどかったけれど、その体のどこにこんな力強さが出たのか、不思議でならなかった。ぼくが見たこともない彼がそこにいる。


 ねこだ! ねこがいるぞ!


 苦しそうには見えず、本当に元気になったんだと、心から思えるほどに見違えた姿だった。とにかく、だせ、だせとうるさい彼をあやしながら、ぼくは先生に話を聞くことにした。待ち時間さえも楽しかった。飽きなかった。三十分以上待った頃に呼ばれ、診察室に入る。


 けれど、先生はとても慎重だった。


「たまたま、替えた抗生物質が効いたんだね。まだ、大丈夫とは言えない」


 こんなに元気になっても、なお、回復してきていますという言葉は貰えなかった。とにかく、まだ早急に答えは出せないということで、ねこさんの入院は続行となった。次の日は半日で診察が終わってしまうから、また会えなくなるが、それでも、希望は繋がったんだと思った。たくさんの願いが届いたおかげだ。泣きたくなる気持ちを抑えて、獣医さんを後にした。


 帰りにハットリくんに現状を報告すると、こんな言葉が返ってきた。


「先生は大丈夫とは言わないよ。医者は必ず保険を掛ける。自分が悪く言われないための保険だよ。でも、きっとあれなら大丈夫だ。次は明後日会いに行くんだろう? もう、安心して、ゆっくり寝たらいいさ」


 元気だったねこさん。その姿は、その後、家に帰ってからも、何度も、何度も動画で繰り返し見た。見てはにやにやし、見ては感動し、やっと少しだけ、息がつける……ほんの少し、肩の力を抜けると思えた。


 SNSのフォロワーさんに報告し、たくさんの『よかったね』の言葉も貰い、ぼくは心から、この奇跡に感謝した。


 かもしれない。それでも確かに起きた奇跡によって、ぼくたちの歯車は再び回り始める。希望という光を一緒に巻き込みながら、ゆっくりと動き始めたのである。


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