第32話 切り札投入

 ねこさん入院四日目。ぼくはついに切り札を投入した。そう、ひなさんである。実は入院してから、ひなさん自身も少し不安が強くなっていたのである。家を空けるとき、ねこさんがいたときは『わたしも行く』なんていうアピールをあまりしなかったのに、ねこさんが入院してからは『わたしも連れて行って』と、一人だったときのように、いや、それよりも強いアピールをするようになったのだ。


 ひなさんを連れて、仕事が終わってから獣医さんに向かう。いつものように獣医さんは混みあっていて、座るところすらない状態。ひなさんは自分が診察を受けるのかと、ぶるぶる震えて落ち着かない。


 受付で『面会です』と伝えてから、震えるひなさんを抱っこして待っていた。しばらくすると青いカゴに入って、ねこさんがやってくる。カゴの傍にひなさんを座らせて、ねこさんの様子を見たぼくは、それまでの様子と違うことに、かなり驚かされた。


 あれ?


「みゃあ」


 鳴いているのである。さらに出たいと、カゴの柵の間から手を出したり、ねこパンチしたりするのである。


「鳴いてる……なんで? この間まで、鳴かなかったのに……」


 ぼくはそんな言葉をずっと繰り返していた。すると、一人の女性が近寄ってきて「一緒に見せてもらってもいいかしら?」と声を掛けてきた。


「はい」

「ずいぶん小さいですね。でも、とてもかわいらしいですね」

「肺炎で入院しているんです。ずっと鳴かなかったし、こんな動きもしなかったんです。でも、今日はすごく元気そうで。こんな姿、初めて見るんです。こんなに鳴いているのも初めてなんです。もう、どうしたのか、わからなくて」


 知らない女性なのに、ぼくはやたらと早口でそんなことを語っていた。それくらい興奮していたし、考えもまとまらなかった。状況を正しく理解できなくて、パニックになっていたのかもしれない。


「よかったですね。早く退院できるといいですね」


 ぼくにニッコリと女性は笑いかけてくれた。そんな女性に、ぼくは力強くうなずいた。希望が芽生えてきたのかもしれないと、そう思った。


 傍に座るひなさんはちらっとねこさんの様子は見たものの、気が気じゃない様子で舌を出していた。ねこさんはそんなひなさんをわかっているのか、何度も、何度も見ていた。


 どうして、こういう状況になったのかを知りたくて、その日、ぼくは先生の話を聞くことにした。ずいぶん待った。待っている間も、ねこさんは外に出してほしそうに鳴いたし、手を出したし、カゴの中をうろうろした。


 きっと好転しているに違いない!


 そう思って、期待に胸を膨らませて、先生と対面したのだが、膨らんだ胸は返ってきた言葉に一瞬でへこむことになった。


「今日は元気だけど、土曜の夜は突いても動かなかったよ。正直、もうダメだと思ったよ」


 え? 土曜の夜? 動かなかった?


「あの……すごく痩せたと思うんですけど……」


 ねこさんはガリガリに痩せていた。横になれば、あばらがハッキリわかるくらいに痩せこけていたのだ。顔だってシャープになり、骨と皮だけ。左目は大きく開いてきてはいるが、鼻の周りは変わらず黒い塊がべったりとくっついていて、汚いままだった。


「そりゃ、自力で食べれてないからね。点滴だけなら痩せるよ。無理やり食べさせてはいるけど」


 先生はひどく淡々と答えた。いや、ずいぶん、冷たい言い方に聞こえてならなかった。


「あの……血液検査とか……しないんでしょうか?」

「検査できるだけの血液が採れないでしょ」

「はぁ……」


 このとき、ぼくの中では先生に対する信頼感は半々になっていた。毎日、ハットリくんに先生の見立てが悪かっただの、普通なら、初めに連れて行った段階で血液検査をするのにしなかった先生の落ち度だの、医療ミスだの言われ続けたのが原因でもある。そこで、疑問を口にしたのだが、先生を苛立たせる言葉だったのかもしれない。さらに先生は続けた。


「死ぬか、生きるか賭けるなら、死ぬ方に賭けた方がいいと思う」


 え? 死ぬ確率の方がずっと高いの? こんなに元気になっているのに?


「元気に見えるかもしれないけど、今は、この子に使える最大の量の抗生物質を入れているの。副作用も出るかもしれないけど、そんなことは死ぬよりはいいと思ってね。それくらい、ひどい状態だからね」


 入院する前の彼の体重は三百五十グラム。けれど、現状はきっとそれよりもずっと少なくなってしまっている。自力で食べることもできず、皮下点滴だけでどうにか生きながらえている現実を突きつけられて、それ以上、ぼくはなにも言えなかった。


「とにかく、今はこの子の状態に合う薬を探しているかんじだから。助かるとは本当に言えない」


 元気に動き回っているのに、たくさん鳴いているのに、それでも先生は死ぬ確率が高いと言い続けた。診察室を出るぼくは、今まで以上に落胆していた。希望が見えていたと思ったのに、振り出しに戻ってしまった。いや、もっと悪い。彼の生存率はこれまでにないくらいに最悪なような気がしたからだ。


 戻ってこい――!


 そう願わずにはいられなかった。出たいと、出してほしいと鳴いた彼は、きっとひなさんが来たこともわかったはずだ。ぼくらは一人じゃないから。一人で戦っていないから。そう届いていると信じて、ぼくは獣医さんを後にした。


 次の日は休診日。次に会えるのは二日後。


 それでも――!


 生きることをあきらめさせないために、次の日、ぼくは、とある行動に出る。きっと、それも大きかったと思う。希望をつなげるための強い思い――その力がどれほど大きなものであるかを目の当たりにするのは、まさに、その二日後のことだったのだから。

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