第26話 首をもたげた疑心

 ねこさんが入院したことは、家に帰る道中でハットリくんに報告をした。彼はそうなるだろうと予想はしていたらしく「仕方ない」と言った。


「こればっかりはもう、あいつの生きる力に賭けるしかない。あいつが生きたいと思う力が強ければ、きっと戻って来るさ。それを信じるしかない」


 たぶん、彼は彼なりに、意気消沈したぼくを励まそうとしていてくれたのだと思う。でも、ぼくは一生懸命話してくれる彼に、返す言葉を見つけられずにいた。なにを聞いても、どう答えていいのかわからなかった。信じるしかないと言われても、わかっているとしか答えられなかった。悔しくて、ただ悔しくて、恥ずかしながら、ぼくは運転しながら泣いてしまっていた。


「無力でさ。なんにもできなくてさ。悔しいよ」


 ぼくにはなにもできなかった。肺炎で苦しむねこさんを撫でてやることしかできない、傍にいてやることしかできない。治してやりたくても、知識も技術もない。できることは医者につれていき、治療を受けさせることだけだ。預けてしまえば、それこそ、戻ってこられる元気が出るまで、ひたすら待ち続けることしかできないのだ。


 無力感に打ちひしがれていた。こんなになにもできない自分を呪うことしかできなかった。


「まぁ、元気出せ。とにかく信じようぜ」


 ぼくは「うん」とだけ答え、そこで通話を終えた。


 家に帰っても、なにもやる気にならなかった。食欲もわいてこない。ひなさんはそんなぼくの気持ちを察してか、ずっと傍にいてくれた。


 テレビも観ず、ごはんも食べず、二時間くらいした頃だろうか? ハットリくんから再び電話が掛かってきた。けれど、彼の様子は先ほど電話したときとは打って変わっていた。ずいぶん、声に力もなく、「なにしてる?」というような会話から始まった。


「さっき、おまえと話していて、やっぱり気持ちが落ち着かなくてな」


 彼にとっても知らない子ではない。むしろ、第二の保護者である。遊びに来れば、ねこ可愛がりという言葉がぴったりと当てはまるほどには、うちのねこさんを溺愛して、抱っこしたり、くすぐったりしていたハットリくんは「いろいろ調べてみた」と続けた。


「ネットでさ、どんなふうに治療するのかとか、助かるのかとか、とにかく調べてみたんだ」


 そう言われ、ぼくは急いでパソコンの前に座った。そう、このときのぼくは、実際にねこさんがどんな治療を受けることになるのかも知らなかった。ハットリくんが言うように『ねこ、肺炎、治療』というキーワードで検索すると、どういった治療をするのか、簡単に調べることができた。


 酸素室に入り、呼吸をしやすくする。ネブライザーという装置を使って、薬を含ませた空気を吸わせる――そんな内容だった。ちなみに酸素室とネブライザーを使うと、かなりな高額治療になる……ようなことが記載されており、レンタルならば一か月で一万五千円。入院するより格安に治療できるようなことも書かれていた。


「酸素室かぁ……レンタルもできるってすごいなぁ」

「最悪さ、酸素室レンタルして、家で看てやるってこともできそうだよな」

「でも、日中いるわけじゃないし、点滴治療ができないよ」

「まぁ、通院となると、やっぱり大変になるよな。でも治療費、どうするんだ?」

「それはもう、いくらになってもかまわない。あの子が助かるなら、二十万出すよ」


 彼が入院して、ぼくは心の底からそう思った。命には代えられない。お金なんて問題ではないのだ。だって、そうだろう?お金なら働けばいい。ぼく自身が健康なら、いくらだってお金は稼ぐことができる。でも、あの子の命を救うのは今、このときしかないのだ。


「なぁ、もう一つさ、思ったんだけど。一回目に注射打ってもらったときは元気になったのに、二度目に具合悪くなっているだろう? それにさ、おまえ、言っていただろ? びっくりするぐらい注射の量が増えたって。これ、副作用じゃないのか?」


 風邪から悪化した肺炎ではなくて――その一言に、ぼくは息を飲んだ。そんなことがあるのだろうかと思えて仕方なかった。けれど、脳裏には、ぼくが見たあの、太い注射が蘇った。


「先生に限って、そんな医療ミスみたいなこと、するわけないだろう?」

「わからんぞ。先生だって、もうそれなりに年だろう? 人間はミスをする生き物だ。俺は会ったことがないから、おまえみたいに心底は信じられん。でも、どう考えてもおかしすぎる。注射を打つ前は元気だったんなら、なおさらだ」

「やめてくれ。先生を疑いたくない」


 悔しさから来た言葉だと、このときだってわかっていた。それでも、ぼくらは言い合いになった。それくらい、ねこさんのことが心配で、心配でたまらなかった。ぼくら二人ともにである。


「とにかく、俺は医療ミスだと思う」

「ぼくは先生を信じる」

「セカンドオピニオンできる医者を探す」

「勝手にしてくれ。ぼくは先生に任せたんだから!」


 自分たちの子供が危機的状況になったとしたら、きっとこうなるものなのだろう。結局、最後の最後まで、ぼくらの意見がかち合うことはなく、入院一日目の夜は更けていく。


 緊急の電話が掛かってこないかという不安と、医療ミスなのだろうかという疑心に駆られたぼくはその日、ほとんど眠れないまま、朝を迎えることになったのである。


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