第167話 自らの目

 腰から力が抜けて畳にへたり込む。


「ふゃっァ、ぅむ!」


 とっさに自分の手で口を押さえられたのはマリナの経験の賜物だった。主にカクリとその相手となった男たちとの関係を見てきたこと。


(これ、は?)


 空のリュックサックを見つめる。


(入ってた。私に見えないなにか、そう)


 マリナは冷静に考えようとする。


 見るだけで落とす。


 万人と身体を重ねると出来るようになると、カクリが冗談めかして説明する能力外の力、それを受けた相手が見せる反応に近い状態に自分はある。受けた直後にはどんな理性的人物でも、ベッドを共にしてしまう。


(あの、視線)


 マリナが見る側として共有してきたもの。


「ヅムっ」


 だが、そのイメージはむしろ逆効果だった。口を押さえても、声が漏れるほどに全身が敏感になっている。着ている服と肌が触れるだけで気持ちがいい。身体が熱い。息が出来ない。


「っは、ああっ、あ、ァンアアっ」


 呼吸をしようとして、声が思い切り漏れた。


「あ、なんでぇ、ンっ、ンンンッ」


 口を閉じて、鼻に感覚が集中すると、さらにそれは激しくなる。匂いだった。男の、そう、ついさっきこの場所で陰茎を出していた男の。


「んんっ、ふっ、はぁ、アっ」


 この場から離れなければ。


 マリナの頭の中で、正生の身体が急に性的な力を持ちはじめる。ありえない。男の裸なんて見慣れたものだ。カクリの目を通じて数え切れないほど、能力を使って数え切れないほど、男に限らず、裸の人間なんて数え切れないほど、見てきている。今更なにを動揺する必要があるのか。


(私の目で見たのは?)


 即座に思い出せない。


 確実にあるはずだった。処女を捨てたとき、相手の男の身体は見た。だが、実際に行為に及んだときは、相手の目を共有して、自分が女として魅力的かどうかを冷静に見ていた。興奮させられるかどうか、どこに注目されているか。


 自分は興奮などしていなかった。


「これから全先正生……」


 カクリの言葉がリフレインする。


「……セックスしてきて貰えるかしら」


(セックス、する?)


 正生の身体、十六歳の身体、二つしか年の違わない男の身体、付き人仲間のトレーニングを積んで仕上がった身体とは違う、まだ隙の多い筋肉とそれ故の発展性を秘めた、そして、七人もの女を妻にする男の身体と、その勃起。


「やっ、ン」


 マリナは布団に顔を埋めていた。


(あ、れ?)


 部屋から、男の匂いから逃れようとしていたはずなのに、さっきまで正生が眠っていた布団に倒れ込んで、その汗の染み込んだ布地に溺れようとしている。胸一杯に残り香を吸い込んで、全身を歓喜に震わせている。


「ふゃぁん、ふゃァンッ、フャァアッ」


 我慢など出来なかった。


 マリナは鳴きながら達して、脱力する。


(服が、邪魔)


 思考力は失われていた。


 布団の中で、スーツからシャツから、下着まで脱ぎ、一糸纏わぬ姿になって枕とキスする。男の匂いをただ頭の中に刻み込もうとする。股間から滴ったものでシーツが濡れていく。


「や、たりない。たりないよっ」


 ひとしきり自分と男の匂いを混ぜて、マリナは切なくなる。正生の姿を見たい。そう思ったことで、無意識にあさまの視界を共有してしまう。わかっていた。


(二人は、いま)


 大きな桧の浴槽、あさまは手を突いていた。


 視界が揺れている。


 あさまの長い黒髪が湯船に浸かって浮かんでいた。洗い場と湯船の間を、前後に視線が移動する。ねばついた液体、涎が、洗い場に落ちた。あさまはいくつか並ぶ鏡のひとつで自分の姿をみようとする。湯気で曇った中のひとつ、さきほど、自分の身体を見るために使っていたのと同じものに、その姿は映る。


(してる)


 上気したあさま自身の顔と、その背後、持ち上がった尻の向こうにある、腹筋の浮いた、男の腹、その表情は曇っていく鏡に映らない。ただ、あさまの腕が崩れ、浴槽に上半身を預けるほどに、激しく背後から突かれている。幸せそうなあさまの顔、洗い場の床を撫でるように力なく垂れた指先が、ぎゅっと握られると、視界は背後を振り向く。


「よかった。さいこう。だいすき」


 正生が口を動かした。


「マジ、だいすき。あいしてる」


 読唇術は能力の効果を上げるので覚えている。


「ほんとうに?」


 マリナは指で自分を慰めながら、言う。


 視界の中で背後から正生が抱きしめているのはあさまだ。わかりきっているのだが、男の匂いの染み込んだ布団の中で、その視界を共有することであたかも自分に言われたように思ってしまう。


「私も、わらしもっ」


(なんで、こんなトロトロになって)


 何度か達して、冷静さを取り戻す頭の一部はそれが錯覚だと理解しているのだが、身体と気持ちはそうではなかった。満たされなさに震え、静かに布団から立ち上がっている。


(なにをしようとしてるの、私?)


 あさまの視界が少し下に下がる。


 白く汚されたおしりの上に乗って、まだ勢いを残している陰茎をじっと見つめて、正生の顔と交互に見ている。口をそれほど動かさない会話が繰り広げられている。湯船に男を押し倒して、今度はあさまの方から抱きしめたようだ。


「やだ。正生」


 マリナはつぶやいていた。


「私も、してくれないとやだ」


(なんでこんなに?)


 理解できなかった。自分の身体が他人のように見える。自分の目で見ているはずなのに、考えたとおりに動かない。発情しきっている。濡れた内腿も構わず、風呂場に向かおうとしている。


「正生」


 裸のまま部屋を取びだしていた。


 だれともすれ違わなかったのは幸運であり、なにも見ずに、はじめて訪れた屋敷の風呂場まで直行できたのはこの奇妙な欲情のせいだ。


「正生!」


「え?」


「マリナさん?」


 風呂の戸を開けて男の名を呼ぶと、湯船の中で抱き合っていた二人の目が怪訝なものを見るものに変わる。それはそうだ。夫婦でイチャついているところに、発情した全裸の女が乱入しているのである。


「なに? え? あ」


「あの、どういうことですか?」


 あさまは正生の目を手で塞いで言う。


「……」


 マリナは答えなかった。


(ほしい)


 裸足の足がタイルを踏む。


 男の姿を自らの目で見て、思考力がふたたび霧散した。自分の目で見て得た刺激は、だれかの視界を共有したものとはまったく違った。あさまの姿は目に入らなかった。興味もない。


(うばいたい)


「正生、私を抱いて」


「あさま? あの……オレ違うよ。なんもしてないよ? マジで。なにがどうなってるのか……」


 男は応えてくれない。


「わかる。なんか萎えてるから、ね」


 あさまが言う。


「私が魅力的じゃないってこと?」


「え? あの? 見えてないですよ? というか、ほとんど接点ないですよね? マリナさんでしたっけ? 魅力のあるなしじゃなくて、そんな無関係な人を襲ったりしませんし、オレ」


「したけど」


 あさまがポツリと言う。


「平常時は!」


「そうだっけ?」


「あのなぁ……?」


(目の前でイチャイチャと)


 マリナは苛立つ。


「私が抱く」


 そして次の瞬間には飛んでいた。


「危なっ」


 正生があさまを湯船に沈めて、マリナの放った拳を受け止めるも、そのまま壁をぶち抜いて、屋敷の中庭に飛び出す。


「ぐぁっ」


「ばさきっ!」


 お湯を吐きながらあさまが叫ぶ。


「波拳・燕翼掌えんよくしょう!」


 マリナはくるりと振り返って、まず邪魔な女の排除に動く。あさまの目が見開かれ即座に外套を展開したが、湯船を割る拳を避けるところまではいかなかった。


「!」


 風呂場が建物ごとまっぷたつになる。


「あさまぁっ!」


 叫びながら正生が戻ってくる。


(眼中有人)


 最初の拳を受け止められたことで、視界を共有する条件は整っていた。マリナは正生の攻撃を避け、その身体を力いっぱい抱きしめる。


「げっぐ」


 男が呻いた。


「ああっ、この匂いっ」


 ボキボキと背骨を折る感触を覚えながら、マリナは正生の生の香りを思い切り吸い込んで、軽く達する。これだ。これが欲しかった。


「あ、がっ、頭、おかし、いっ」


(おかしくしたのは)


「正生!」


 あさまが武装の弓を握っている。


「……」


 マリナは落ち着ける場所を求めて、破った壁から正生を抱えたまま外へ飛び出す。テントだ。テントがある。そこに行けば、二人きりで思う存分にセックスできる。

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