第49話 ビッチぶった処女

 一種のドメスティック・バイオレンス?


「ん、ぬがっ」


 妻の攻撃が夫の肉体を破壊していく。


 腹を殴られれば意識が飛び、腕で受ければ骨まで砕け、脚は関節を確実に狙って動きを奪ってくる。反撃の隙などどこにもない。ひたすらに翻弄される。これほどまでに強いのか元ヒーロー。


 まともに昨日ぶつかっていたら終わってた。


「お、ご……」


 オレはグラウンドにぶっ倒れた。


 あらゆる攻撃が百パーの効果でこちらの行動を奪っていた。治癒もまったく追いつかない。クリティカルなのだ。痛いところを、さらに抉る追撃、全身に広がる痛み、どこもかしこも。


「どうした!? まだはじまったばかりだぞ? ふふ、ふふふふふふ。先生の愛を受け止めてくれ! 正生! そんなもんじゃないだろ!?」


 頭を掴まれ、持ち上げられた。


「……」


 口の中が血の味。


 これが愛の味でしょうか。


「学園ではもちろん教師と生徒だが、二人きりのときは、伊佐美と呼んでくれないか?」


 そんな可愛いことを言ってた人と同一人物とは到底思えない目の前の女、妻になるらしい。結婚生活に深刻な懸念を抱かずにはいられない。


「集中力が足りないぞ!」


 パッと、掴んでいた手を離す。


「っ!」


 そしてまた腹に拳が突き刺さろうとしていた。腕も脚も動かない。半端に回復して気絶できないことがこれほど苦痛とは思わなかった。


 シャリシャリ。


「熱っ」


 だが、その前に割って入った炎の鎖に手首が絡め取られて直前で止まる。オレはグラウンドに膝をついて崩れた。これは、昨日の。


「五十鈴、どういうつもりだ?」


 球磨が鎖ごと鬼を引っ張った。


「くっ!」


 元矢野白羽にして、橙の鬼を食った白い鬼はずるずると引きずられていく。まったく相手にならないようだ。パワーでは対抗できていない。


「もういいでしょう。先生」


 巫女装束の五十鈴がオレと球磨の間に立つ。


「……」


 どうして、助けに。


「わたしに勝った相手が、翌日にズタ袋じゃ、わたしがカッコつかないです。それに、愛情表現が稚拙すぎて見ていられません」


「なんだと?」


 五十鈴の向こう側に行って、表情は見えなかったが、球磨の気配がさらに尖るのが感じ取れた。たぶん内容は正しいが、挑発は止めた方が。


「男を殴って愛されるとでも?」


 だが、その一言で場の空気が変わった。


「なにを勝ち誇ってる。ふふ」


 なぜだかわからないが、攻撃的だった球磨の側の気配が穏やかになったのだ。姿は見えないが、オレはその急激な変化に寒気を覚えた。


 勝利を確信したかのような。


 獲物を捕らえた瞬間の喜びのような。


「なにを笑って」


 五十鈴にもそれは感じ取れたようだ。


 半歩後退って、体重が後ろにかかっている。本能的に逃げたくなっているのだ。逃げた方が良いのではないかと思ってしまう。


「先生が知らないとでも思っているのか?」


 球磨は大きな声を出した。


 状況を見守っているクラスメイトたちに聞こえるように喋っているのは明らかだった。この空気は身に覚えがある。オレが苦手な空気だ。いじめっ子がオープンにいじめをはじめるときの。


「ちょ、待って……」


 立ち上がろうとするが、力が入らない。


「なんのことですか?」


 五十鈴が言う。


「なんのこと? ふふ、なんのことってなあ?」


「もったいぶらずに」


「それは、ふふ、良いのか? 五十鈴あさまが愛されるどころか、男と付き合ったこともないビッチぶった処女! だってことを暴露しても?」


 グラウンド上にどよめきが広がった。


「……」


 五十鈴は言葉を失っている。


 ビッチぶった処女。


「性格、悪」


 思わずオレは口にする。


 だが、昨日の高柳さんには完全に口で負けていたのに対して、五十鈴には対抗できる理由もよくわかった。本物と偽物の差だ。恋人がいる女に対してそこまで引け目をもってたのかと思うと、それはそれで哀しい事実だが。


「愛情表現が稚拙? よく結婚を決めたばかりの先生に言えたな? 酔っぱらってるのか? ふふ、背伸びしてもカッコなんかつかないぞ?」


 球磨は勝ち誇っていた。


 たぶん江戸の仇を長崎で討つ的な感情が交じっている訳ではあるが、効果は覿面のようで、五十鈴がすとんと座り込んでしまう。


「あさま!」


 鬼が鎖を解いてかけよった。


「あさま、しっかりして! 男を殴って愛されるわけがないのは正しいから! だいたい男って女に甘えたい方だから!」


 魔性の女が言うと説得力あるな。


「いい天気、ね」


 五十鈴は空を見上げている。


 残念ながら朝より雲が増えて下り坂だ。


「聞こえた? 先生の、五十鈴、処女って」


「う、うん。本当なのかな?」


「先生なら機関にも近いだろうし、参加者の私生活も把握できる立場なのかも」


「そーだと思った。あの女がカレシすら見せびらかさないとかおかしかったじゃん。スッキリさせてくれて先生に感謝だよ」


「いや、マジかよ。相当モテるぜ五十鈴」


「でも付き合ったって男は聞かなかったな、確かにさ。呪われて喋れないとか言われてっけど」


「それも嘘かー。処女かー。へー」


「え? でもおかしくないか? 一位取ったとき、それで落としたって噂だったぜ?」


 クラスメイトたちにも動揺が走っている。


 評判の悪さではオレと互角だな。


「どうした? 五十鈴? 己の稚拙さを直視できないか? 好きな男もいたことないんだろう? いずもさんから聞いてるぞ?」


「!」


 共通の知人がいるらしい球磨の追い打ちに、五十鈴はうなだれた。


「や、やめてください! あさまはちょっと男性不信なだけなんです! ブラコンを卒業する前に鎖鬼があきら様を寝取ったから!」


 魔性の女鬼がとんでもないことを口走った。


「おい」


 オレは思わず口を挟む。


「鎖鬼、帰って」


 震える声で、五十鈴が言う。


「で、でも、あさま」


「帰って、お願いだから、ね」


 声が泣いてる。


 いたたまれない状況だ。


「……」


 教師としての立場を思い出したのか、球磨も頭を掻いて困った顔になっている。追い打ちは完全にやりすぎであった。ビッチぶった処女で止めとけばよかったのだ。よりにもよって兄寝取られなんて、とんでもない地雷だ。


「五十鈴」


 ようやく回復してオレは立ち上がる。


 こっちもそっちも酷い有様だが、元はと言えばオレを助けようと入ってきてくれたことでもある。それに仮にも妻がしでかした不始末だ。オレがなんとかこの場を収めなければいけないだろう。


 夫としてはじめての仕事かもしれない。


「その、気にするな」


 なにか慰めの言葉を。


「オレもその、結婚ぶって童貞だから」


 自分で言って意味わからん。


 酷い。


「う、おんろうり?」


 こちらを見上げた五十鈴は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。精神的ショックがそこまで大きいのか、なんなのか。本当に? と言ったのだと思うが、言葉にはなってない。


「おんろうり? ろうれえ?」


 そこを確認するの?


「童貞童貞」


 自分で言って落ち込むぐらい童貞である。


「ろうれえ、わらひ、しょろられろ」


 五十鈴は泣きじゃくりながらなにか言う。


「……」


 なに言ってるかわかりません。


「ふらほんひゃ、はいはは。ほんろららら。おひひひはん、はんへえはいはら、ははらへ?」


 もうグッチャグチャだ。


「うん、大丈夫だから、わかってるから」


 オレは気休めを口にする。


 全然、なに言ってるかわかんない。


「っうん」


 五十鈴は涙を拭って、鼻をすすった。


「わたしと結婚してくれるの、ね?」


「……」


 どういうこと?


 だがオレが反応するより先に、周りに集まっていたクラスメイトが拍手をはじめた。妻であるはずの担任教師ですら腕を組んで仕方ないかという表情である。止めろよ。なんでそんな一夫多妻に寛大なんだよ、みんな揃って。


「おめでとう。マッサキ」


 野比が握手をしてくる。


「あーあーあー! 幸せにしなさいよ!」


 深大寺がオレの背中を叩いた。


「……」


 この断れない空気、なに?


「ビッチぶった処女でしたけど、末永くよろしくおねがいします。正生くん」


 巫女の姿のまま、五十鈴は三つ指をついた。


「……はい」


 どうしようもなかった。

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