第56話素人童貞で良かった100のコト

女を抱いたのはひさしぶりだった。

その年、2004年に入ってから初めてのことだったかもしれない。

いずれであってもしばらくぶりに味わう、素晴らしい感覚に変わりはなかった。

自分から遠ざけてきたもののひとつを取り戻すことができた。

そこに貨幣が介在するかしないかは大した問題ではない。


あるいは私はセックスというものを神格化しすぎているのかもしれない。


男も女も生涯、ひとりの相手としかしてはならないなどという

純潔主義を謳うつもりもないのだが。



今はただ、抱きあうことの素晴らしさだけに酔いしれよう。



「彼女は居ないの?」


売女が質問してきた。

行為を終え、私は大の字になって寝転んでいた。



「居ないよ。彼女が居ればこういった店に来ることもない。」


左腕に抱いた女の瞳から発せられる

嘘を見破ろうとする痛々しい視線を感じないこともなかった。


「半年前に離婚したんだ。今でも好きなんだけどね。」


もちろん戸籍上は赤の他人だったが、約1年の間、寝起きを共にしていたのだから

別れ=離婚といっても差し支えはないだろう。



私は脱ぎ捨て床に放り投げたズボンを手繰り寄せ

左のポケットから携帯電話を取り出し、待受け画面にしている

彼女と撮った数少ない写真を見せてやった。


「別れた奥さんとの写真を待受け画面にしてるってなんだか素敵じゃない」


考え方は様々で優子には、気持ち悪いからやめた方がいいと忠告されたこともあった。

あるいは、商売上のリップサービスというやつか?


他愛もない会話をしているうち、枕元に置かれた内線専用の電話がジリジリジリと終了を告げる。

私は身支度を整え、礼を言って部屋を出ようとした。

一刻も早く出たかった。その心中を察するかのように女が呼び止めた。

振り向きざまにキスをされた。とても優しいキスだった。


「また来るよ」

と私は嘘を吐いた。そう言ったときの自分の顔が引きつっていないことを願った。


すると女は、後ろ手に隠し持っていた名刺を渡してきた。

「かりんです。よろしくね」と、とても可愛らしい笑顔とともに言った。

商売的な匂いは完全に消し去られていた。

私はもう一度抱きしめてやりたいという思いを殺した。


名詞の表には店の名前と、手書きで「かりん」と書いてある。

出勤日は、水曜と土曜以外の18時~ラスト

私はいつもの癖で名刺を裏返してみた。


そこには携帯電話の番号と、メールアドレスが書いてある。

かりんは私の仕草を見逃してはくれなかった。


「別れた奥さんのこと、思い出して寂しくなったら逢いにきてね」


「ここまで来れそうもなければ、電話でもメールでもOK」


「名前は?」


私は質問の意味がわからず、答えに困ってしまった。

それを察してか、かりは付け加えた。


「my name is "かりん". What's your name? man」


発音がどことなく本物に近かった。

帰国子女か何かだろうか?


「チャールズ」


「チャールズ…。じゃあ連絡をくれる時は、チャールズって言ってね。」


私は大きく頷き、「それじゃあ、また」と言って部屋のドアを開け

もう一度、かりんの方に向き直った。


かりんは、腰を45度に曲げて「ありがとうございました」と言った。

私は踵を返して、部屋をあとにした。



外は相変わらず、パンの焼ける匂いが漂っていた。

ふと気付いたのだが、部屋の中はパンの匂いがしなかったような気がした。


天を仰ぐと、すこし厚めの曇が月を覆っていた。

天気予報によれば、明日の夜明け頃から雨が降るとのことだった。


私は嗅覚に意識を集中させてみたが、雨の匂いははらんでいなかった。


天気は持ちこたえるだろうか?

明日は、自称雨女と2ヶ月ぶりに逢うことになっているのだが・・・。


天気の心配を払いのけ、金のナンパ街を出口へ向かって颯爽と風を切って歩いた。

呼び込みの淑女の呼び掛けもすべて無視して、

顎をひき背筋を伸ばし、ひたすらワーゲンを停めた場所を目指した。

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