第23話 アンナ、レオンと暮らす

 ひと月ほどすると、アンナの病状は一旦は落ち着いていた。

 

 ある日レオンは、アンナに言った。

「今日も顔色がいいね。実は、アンナに一つ提案があるんだ。」

「なあに?」

「先生もご両親も了承してくださったのだが、アンナ、家に帰ろう。僕と一緒に暮らして、介護は先生の指示通り僕が責任を持って管理するから。どうだろう?」

アンナは、瞳を大きく見開いて言った。

「本当に、レオンと一緒に暮らせるのね!私、嬉しいわ!」


 アンナは、そのことで、どれほど自分の命が短くなろうと後悔するものは何も無いと思った。どんなにレオンと暮らせることを夢見て来ただろう。どんなに、その言葉を待っていただろう。アンナは数年ぶりに心から笑った。レオンの腕の中で、心から幸せを感じた。


 アンナはレオンと暮らしだしてしばらく経つと、病状は快方に向かっていった。ベッドから起き上がり、レオンの為に食事の支度をすることさへあった。

アンナは、レオンがピアノを弾きだすと、いつもベッドから起きだしソファに座ってじっとピアノを聴いていた。レオンの弾くピアノは、どんなにアンナの心を慰めただろう。そして、ピアノを弾くその姿をただひたすら見つめていた。


 レオンは、毎日が薄氷を踏む思いだったが、アンナの様子は落ち着いていた。このまま、本当に神様が奇跡を起こしてくれるかもしれない、心から愛し合う自分たちの愛を神様が見捨てるはずはないと、すがる様な思いで祈った。


 アンナは、レオンとの一つ一つの事柄を幸せに感じた。レオンの話す言葉、レオンが珈琲を飲んだり、食事したり、音楽のことを語ったり、或は、たわいない会話で二人で笑ったり、そのどれもが、アンナにとってかけがえの無いものだった。


 初夏の穏やかな日、アンナは久しぶりに外出もした。レオンと腕を組んだり、手をつないで街を歩いた。


 アンナは見るもの全てが新鮮だった。周りの物全てが命を持ったようにきらきらと輝いて見えた。街並や家々に咲く色とりどりの花々、犬を連れて散歩する人々、洒落た帽子を冠った女性や、青く澄んだ空、流れる雲、そして、愛おしいレオンの手。アンナは生きていることを実感した。レオンは楽しそうに、先日のライブや最近作曲した新曲の話をしている。レオンの優しい声。


 アンナは、この幸せは長くは続かないことを知っていた。それでも、自分は誰よりも幸せだと思えた。愛するレオンと、例え短い時でも、誰に遠慮もせず、人目も憚らず、一緒に暮らすことが出来たのだから。私はどんなにレオンを愛しているだろう。レオンもどれほど私を愛してくれているだろう。それだけで、生まれてきた意味があった。レオンと愛し合うことは、他の何も必要ではなかった。例え、命でさえも。


 アンナは、レオンの作曲した曲に、詩を書いていた。レオンが残していった、「アンナに捧ぐ〜」、あの曲だった。

ピアノの前に座ったレオンは、アンナを見ると、一つ咳払いをして姿勢を正した。アンナはその様子が可笑しくてクスリと笑った。

レオンは、こう言った。

「好きな様に歌ってごらん。」

「ええ。」

レオンは前奏を弾きだした。

アンナの声は以前の様には出なかったが、それでも、細い声で歌っていった。

バラード調の美しい曲だった。アンナが夢見たことの一つが叶った。

歌い終わると、アンナはレオンに抱きついてこう言った。

「レオンの曲、きれい!とても素敵な曲だわ。でも私の詩が未熟で、レオンの曲をだめにしてなきゃいいけど。」

「そんなことはないよ。自分の詩なんだから、違うと思ったら少しずつ直していけばいいんだし。でも、よく書けてるよ。だんだん上手になっているよ。」

「そう!良かったわ。もっと良い詩が書ける様に頑張るわね。」




 アンナの両親は、度々アパートを訪れた。母親のカレンは、最初の頃は家に帰ってきなさいと何度もアンナを説得しようとした。そんな時アンナは、静かに母親の申し出を断った。父親はレオンに、少しでも負担のないようにとお金を置いていった。最初、レオンは断ったが、それが今自分たちに出来るただ一つのことだと言って、父親は頑強にレオンを説き伏せた。レオンはそのお金を受け取ることにした。その代わり、度々アンナを訪ねて欲しいと言った。


 カレンも少しずつレオンを受け入れ、アンナの望む通りにすればいいのだと心から思う様になっていった。母親は手料理を持参し、4人で食事をして過ごした。4人はお互いを大切に思う様になっていった。アンナの調子が良い時は、レオンがおどけたことを言って、皆で大きな声で笑った。アンナは、両親に対し、心からの感謝を感じたのだった。


 アーニャはフェルナンドと共に頻繁にアパートを訪れた。いつも決まって、お手製のアップルパイを持ってきた。アンナはそのアーニャの作ったアップルパイが大好きだった。

 

 アーニャとフェルナンドは結婚し、フェルナンドの故郷で挙げた二人の結婚式の様子を二人に話して聞かせた。フェルナンドは、アーニャのウエディングドレス姿がどんなに美しかったか、どれほど素晴らしい挙式だったかを話した。アーニャは本当に幸せそうだった。新居はアンナとレオンの住むアパートの近くを探して、そこで新婚生活を始めたという。いつでも会いにきたいから、という理由で。


 1年ほどすると、アーニャは妊娠した。次第に膨らんでいくお腹を見て、アンナは少しだけ複雑な思いを抱いた。レオンの子どもを産むことは出来ない・・・そのことはアンナの心残りであった。

 

 しかし産まれてきた可愛い赤ん坊を見ると、アンナは幸せを感じて、いつまでもその子を膝に抱いていた。アンナが名付け親になって、マリアと名付けた。

 レオンはマリアの為に、かわいい小曲を作って、アーニャとフェルナンドにプレゼントをした。アンナは詩を書いて読み上げた。アーニャはこんなに一度に涙をながせるものかと思ったほど、後から溢れてくる涙を止めることは出来なかった。フェルナンドといえば、普段無口でほとんど話をしない彼が、こんなに素晴らしいお祝いはない、一生忘れない、マリアが大きくなったら、このことを話すのが楽しみだ、と、矢継ぎ早に感謝の気持ちを言葉にして、ありがとうを繰り返し言った。


 アンナはあまり歌わなくなった。歌おうとしても小さな声で歌うことしか出来なくなっていた。その代わり、アンナは詩を書いた。レオンの作った曲に歌詞を書いていった。

 命が消える前に、アンナはレオンに対する愛を歌にした。それは、自分の生きた証だった。それをレオンに言葉で伝えたかった。

 アンナはもどかしかった。どうしても自分の抱いているレオンへの愛を詩にすることが出来なかった。しかし、少しずつ自分の心を記す様に詩を書いた。


 アンナは、詩を書くことで、今までの人生も振り返り考えることが出来た。レオンを愛する様になって、初めて自分の心の中の躍動感より深い音楽への感動を感じた。

 でも、結婚していた時は、いつも不安だった。道ならぬ恋は、やはり、心を塞がせる。しかし、レオンのアパートに一人で住む決心をして、数年間、淋しくても自分の心情を曲げず、ひたすら待ち続けたその日々は、アンナにとって、大切な日々に思えた。真っ直ぐに自分の心に向き合うことが出来たからだった。


 レオンと暮らしだしてからは、正に、一秒一秒が輝き、もうこれ以上愛することは出来ない、と思うほどなのに、日を追うごとに愛が深まっていった。その体験は、誰でもが味わえるものではないと思った。そして、レオンを愛する気持ちは、全てを凌駕していった。生活、祈り、命までも。アンナは全てをレオンに捧げていた。それは、レオンも同じだった。怖いくらいにお互いが寄り添い、必要としていた。


 アンナはまた、まだ離婚する前、レオンのアパートに毎晩のように二人で過ごした時を思い起こした。 


 あの時の二人は、その状況もそうさせたのかもしれないが、まさしく激情と愛欲の日々だった。レオンとベッドで過ごした時間は目眩く官能の時間だった。レオンは何時間でもアンナを激しく愛した。レオンの指はアンナの体中をまさぐった。繊細にかつ大胆に。後ろから愛される時、レオンは指でピアノを弾く様にアンナの背中を強く掴んだ。その時、アンナは、レオンがピアノを弾く姿を思い起こし、なお一層の興奮を感じた。そして、口づけはアンナの女性のあの部分を更に強く刺激した。アンナはその間、何度絶頂を感じたことだろう。その絶頂の後、またより高みに登る絶頂を感じたのだった。アンナは体の奥深く眠っていた女としての官能を研ぎすましていった。自分でも知らなかった強い欲望を呼び起こされたのだ。激しく結ばれて、アンナは細胞の一つ一つ、体の奥深くにまでレオンを感じた。そして、その瞬間は異次元の世界へと解き放たれた。官能と愛は人を再生させる。二人はその愛欲の中で固く結ばれていったのだ。アンナはレオンに抱かれる度に、自分自身の心とレオンの深い愛を確信していった。


 今の二人は、その時のような時間を過ごすことは出来なくなったが、アンナの体調の良い時、アンナが欲する時、レオンはアンナの中に静かに入ってきた。そして、アンナの体に負担がかからないようにアンナを愛した。アンナはそのレオンの体の動きに、ひと時、病気の苦しさから解放された。それはかえって、アンナに命を吹き込んだ。そして、その時、自分は今生きているのだと狂おしく実感したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます