第17話 アンナのアパート

                


 アーニャがアンナの屋敷を訪ねてからしばらくして、アンナはレオンのアパートを訪ねた。レオンがいないことは分かっていたが、レオンのアパートの家賃や家具のことが気がかりだった。それとも、レオンはもう帰るつもりも無いからそのまま放っておくつもりだったのだろうか。


 アンナは数日かけてレオンのアパートの掃除と片づけをした。そして、レオンが家賃をこの先払っているかどうかを大家に確認した。

「いいえ、何も聞いていないんですよ。ただ、しばらくはここには帰らないからって。出来る限りそのままにしておいて欲しい、もし借り手が見つかったら他の人に貸してもいいって言っておいででした。ピアノや家具はそのままで。どうせ、このオンボロアパートには誰も借り手がいないからそのままでいいんですよ。」

アンナはその大家に家賃を半年分前払いし、くれぐれも荷物を勝手に動かさないよう頼んだ。

「それは、もちろん分かっていますよ。半年分も前払いしてもらえたんだから、大丈夫そのままにしておきます。連絡先を教えてもらえるとありがたいのですが・・・。」

アンナは大家に連絡先を教えた。その時、ふとある考えが浮かんだ。

「2階のお部屋は空いているのでしょ?私、そのお部屋をお借りするわ。」

「それはもう、ありがとうございます。」

というわけで、アンナはその2階の部屋の鍵を受け取った。


 部屋に入ると、つんとした臭いが鼻をついた。窓を開け、風を通し、窓もドアも開けたままで、近くに家財道具を買いに出かけた。


 まずは、幾つかの食器、その前に掃除道具ね。それから、テーブルやソファーも揃えましょう。そうだ、ベッドも。時々は寝に来られるかもしれない。それから、ステレオも買って、そうそう、アパートに来るときにいちいち着替えを持ってこなくてもいいように、少し着替えも買いましょう。アパートにいるときに着る、ラフなドレスを。そうだ、カーテンも取り付けないと。


 アンナは、思いつくまま買い物をした。手に持てる分だけ、取り合えず持って帰った。コーヒーをすぐに飲めるように、サーバーとポットとコーヒー豆は忘れなかった。


 アパートに着くともうすでに薄暗くなっていた。まずは引越し祝いに一人でコーヒーを入れて飲んだ。でも、何も無いこのみすぼらしい部屋にいるうち、レオンに逢えない虚しさで涙が溢れてきた。今日はもう帰りましょう。明日、また荷物を整えればいいわ。それに、ここにいれば、レオンが帰って来た時すぐに分かる。ピアノや楽譜もそのままなのだから、きっとレオンはここに帰ってくるに違いない。やはりここを借りて良かったんだわ。アンナは階段を降りながらそう呟いた。


 数日後、アンナは大きな鞄にありったけの洋服や身の回りの物を詰め込んだ。夫にはしばらく実家に帰ると置手紙を残してきた。数日かけてゆっくりアパートの部屋を整えたかった。


 アンナは鞄を引きずるようにして坂道を登った。坂の途中でレオンのアパートを見上げた。もう少しで着くわね。息を切らせてアパートまでたどり着いた。そして急な階段をがたがた大きな音をさせて登っていった。2階の新しく借りた部屋に着くと、まずは窓を開け放ち、風を入れた。夏の終わりの気配が部屋に入り込んでくる。


 今日は、カーテンや家具が届く日だった。アンナは部屋の掃除をして、床にはワックスをかけた。ペンキを塗って剥がれた壁を少しはまともに見えるようにした。これで、カーテンをかければ、少しは部屋らしくもなるだろう。アンナは夢中で部屋を作っていった。


 ふと、レオンの部屋に行きたくなった。アンナは階段を登り、いつものように軋んだドアを開けた。部屋の中は、じっとりと暑い。窓を開け、少しずつ掃除も始めた。


 ピアノの上の譜面を本棚に移した。ショパン。いつもレオンが弾いてくれた。

ノクターンが大好きだった。ショパン晩年の作品は特にレオンのお気に入りだった。この部屋で2人が過ごした時間は、優しく幸せな時間だった。彼の言葉の一つ一つ、そして彼のしぐさや時々物憂げになる表情、そしてアンナを見つめてくれたときの、あの目。溢れんばかりの愛情で私を包み込んでくれた目。でもその目の奥には苦悩と悲しさがあった。


 アンナはその楽譜をそっと撫でた。そして、ぱらぱらとその楽譜を捲った。所々に書き込みがしてある。レオンの丸びを帯びた特徴のある文字が、懐かしかった。アンナはその文字を指で撫でた。そのとき、その楽譜の間から一枚の手書の譜面と封筒が床に落ちた。アンナはそれらを拾い上げた。アンナは思わず息を呑んだ。

 

 譜面には、曲目はまだ書かれていなかったが、その右隣に

「愛しいアンナへ捧げる」とあった。

それは、レオンがアンナの為に作った曲だった。

 アンナは、右手だけで音符を辿ってピアノをたたいた。ポロンポロン・・・。ゆったりしたテンポのバラードの曲だった。

甘美で繊細なメロディー。これはきっと私が歌う為の曲だったのではないかしら。何て美しい曲だろう・・・。この曲をレオンの伴奏で歌いたい。

いつか必ずレオンは帰ってくる。どこかできっと逢えるに違いない。だから、私はこの曲に詩を書こう。レオンが帰って来たら、きっと驚いて喜んでくれるに違いないわ。

そして、手紙には次の様な文章が残されていた。


アンナ

僕はこれから遠くに行かなければならない。しばらく君と会うことは出来なくなるだろう。そのことをなかなか言い出せずに、結局はこうして手紙を書いている。


最初に君に会った時から、本当のことを言えば僕は君に一目惚れをしてしまった。何て美しい人なのだろうと思った。君は僕に譜面を渡しながら、少しおどおどしていたね。その仕草がなんとも言えず可愛らしかった。でも、君が結婚をしていることをすぐに聞かされ、僕は心底失望をした。君のことで頭が一杯でピアノを弾いていても完全に君に心を囚われてしまった。君に会いたくてたまらなかった。


月の綺麗な晩を覚えているかい?君に偶然道で会った時のことを。君は息を呑むほど美しくて、一緒に歩くことすら躊躇われた。でも、君は僕のピアノを聴きにきたいといった。僕は実を言えば、あの時天にも昇るように夢心地だった。君は僕の演奏をとても楽しそうに聴いてくれていたね。

君に夫がいることで、君を愛することに罪悪感をもっていた。でも、君を愛するにつれて、だんだんその罪悪感も薄れてしまった。


君を最初に抱いた時、僕はもうそのまま息絶えてもいいと思ったほど幸せだった。君の全てを感じ、君は僕のありのままを受け入れてくれた。素晴らしいひと時だった。今まで音楽を愛して、その中で素晴らしい体験はたくさんしてきたと思う。でも、君と愛し合った事実は、僕の今までのあらゆる体験の何ものをも越えたものだった。それほどに、君の素晴らしさに心から感動した。


どんな形であっても君の傍にいて、君を感じて愛し合っていたかった。でも、僕は君を愛する資格はない。だから、僕のことはもう忘れてほしい。その理由は君には言うことは出来ない。本当にすまないと思っている。そして、僕のことは決して探したりしないでほしい。でも、これだけは信じて欲しい。僕の生涯でたった一人愛する女性は、アンナ、君だということを。

君に逢えたことは一生・・・・ ーーー


 ここで、文章は途切れていた。レオンは、手紙を書き出したものの、やはり最後まで書ききれなかったのだろう。そのまま手紙は楽譜の中に置かれたのだ。

 アンナは、しばらくはその手紙をただ見つめていた。自分をこの上なく愛してくれたことがとても嬉しかった。でも、黙ってアンナの前から姿を消すこと以外考えなかったレオンに対して、少しばかり憤りも感じた。なぜ、私をもっと信頼してはくれなかったのだろう。夫が手術代を出した経緯は分かってはいるが、アンナに相談してくれたら、違う展開になっていたはず。そして、アンナは更に不安を感じた。このアパートに住んでレオンの帰りを待つつもりだったが、はたしてレオンはここに戻ってくるのだろうか?ピアノや楽譜も捨て置いたまま彼はどこかに姿を隠してしまうのではないのだろうか?


 アンナは、どれほどの時間その場に佇んでいたのか分からなかったが、体を動かすことの出来た時はもうお昼をとっくに回っていた。


 下で物音がして、荷物が届いたことが分かると、アンナは階段を降りて荷物を部屋に運び入れるように指示を出した。

 ベッドにソファーや椅子、チェスト、テーブルなどが部屋に置かれると様子は一変した。カーテンをかけると、部屋の中が柔らかい色彩に変わった。アンナはほっと一息付いた。

 レオンがここに戻らないにせよ、今の私にはこの方法しかないのだわ。アンナはそう呟いた。

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