第10話 レオンとの夜



 レオンが誘ってくれた・・・。アンナは暖かさと嬉しさで胸が一杯になった。

演奏が終わって彼は何人かのお客に声をかけられていた。握手をして、またよろしくお願いしますと言っていた。レオンはそのままアンナのところへ来ると、そっとこう言った。

「外で待っていてね。すぐに行くからね。」

アンナは頷いて、席を立った。


 店の外へ出ると、相変わらず明るい満月が街を照らしていた。うっとりするような月夜の晩だった。ゴッホの絵にこんな風景画があるわね。藍色の空にカフェのテラス。黄色の月がぽっかりと浮かんで・・・。

 すっかり夜も更けて、恋人たちが腕を組んでゆったりと歩いている。そんな恋人たちを見て、羨ましくなった。私は、あんなにうっとりとした様子で恋人と腕を組んで歩いたことはなかったわね・・・。


 豪華なドレスを身に着けた二人の婦人が歩いて来る。その二人はアンナの顔を見て、それからアンナの黒いレースの縁取りのあるたっぷりしたフレアーの裾のドレスを上から下まで見てすれ違った。アンナは思わず、顔を伏せた。

私はこれからどうなってしまうのだろう・・・。


「お待たせしました。」

見れば彼がすぐ後ろに立っていた。

「行きましょうか。すぐ近くに僕の好きな店があるから。」

レオンはさっさと歩き出した。私は急いで後を追った。彼の隣に並んで歩くことが、どういう訳か躊躇われた。

「お客さん、喜んでいたわね。良い演奏だったわ。」

「そう。僕も今日は楽しかったよ。」

「こう言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、夢の国に行っていたみたい。音楽の夢の国。」

「そうかな。それは、嬉しいな・・・。」

「私、すごく歌いたくなったわ。レオンのピアノで。」

「時間があいていれば、いつでも参上しますよ。あなたの声は少し頼りなげだけど、僕は嫌いじゃないから。大声を張り上げて歌う歌手はあまり好きじゃない。」

「ほんと?」

「ああ。」

「良かった・・。」

 

 その店は、長いカウンターと何十席のテーブルが備えてあるレストランだった。ランプの灯りが燻った白黄色に光り、天井にもフラスコ画が描かれている。漆喰の壁は黄ばんで、柱は真黒に光っている。ずいぶんと古い建物だった。ジャズが流れ、お客の賑やかな話声が壁に反響していた。ビヤダルのようなお腹をした店の主が大声で奥の厨房に注文を叫んでいる。店の売りはワインが何十種類と揃えてあることのようだ。

 レオンは、メニューをじっくり見てポイヤックの赤ワインをボトルで注文した。

牛肉のカルパッチョとアボガドとマグロのサラダ、それから生牡蠣を注文した。

顔の半分もあるような大きなグラスにワインが注がれ、私たちは乾杯した。ゆっくりとワインを喉に流しこむ。

「美味しいわ。」

彼も頷き、ボトルを手に取ってラベルを眺めている。

「ピアノはいつから弾いていたの?」

彼は顔を上げて答えた。

「僕は幼い頃からピアノを弾いていたよ。クラシックのピアニストになりたくて。今でもその練習は続けているんだ。毎日毎日、友達と遊びに行くこともしないで、練習していた。」

「そう。クラシックを勉強しているのね。」

「ああ。子どもの頃に母が連れて行ってくれた演奏会で、ショパンを始めて聴いたんだ。ものすごく感動して、それから、ショパン弾きになりたいと思ってきた。でも、コンクールではあまり良い結果が出せなくて。音大を出てからも就職もしないで、練習ばかりしていた。またコンクールに出ようと思っているのだが、最近は生活のためもあって、ひょんなことからジャズをやりだしたというわけだ。僕にはそのほうが合っているのかもしれない。楽しいし。」

「私、最初にあなたに弾いて頂いた時、すごく緊張していたわ。」

「ああ、分かってたよ。」

「そう。あなた、少し怖かったから。」

「僕は人見知りだから。僕の方が怖がっているんだよ、きっと。」

「でも、ピアノの音を聴いた瞬間、私ね、自分の歌いだすのも忘れちゃったわ。歌わずにずっと聴いていたいと思った。でも、歌いだしたら、もっともっと歌いたくなったわ。」

「それなら良かった。」

レオンは運ばれてきた料理を頬張り、ワインをどんどん飲んでいった。私もいつもよりワインを飲んだ。いくらでも飲んでしまいそうだった。

「今日は、いつもよりは少し緊張していたかな。」

「どうして?」

「良いとこ見せようと思ったからさ。」

私はその言葉に笑ってしまった。こんなことも言うのね・・・。

「一生懸命に聴いてくれる人がいると、やっぱり力が入る。」

「あら、いつもたくさんのファンが聴いているじゃないの。」

「あぁ、まあそうだけど、今日はあなたがいたから・・。」

 そう言うと、レオンの鳶色の瞳は私をじっと凝視めた。私の体は何者かに支配されているように動かなくなった。そして、そのまま彼の瞳から目を逸らすことが出来なかった。


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