第9話 アーニャと、ビル・エヴァンスのレコード

              


 アーニャはいつものように、夕方買い物をして自宅へ戻った。


 実習で、耳の不自由な患者さんにシャンプーをしに病室へ行くと、

とても強い拒否反応をされて、耳が聞こえないことを知らなかったアーニャは、

訳がわからずにいた。

ご主人が病室に入ってくると、強く手を振るように手話で話しを初めた。

「どうしても怖いようです。すみません。やってもいただくように言ったのですが・・・。」


 言葉のないご夫婦の愛情の深さは、どれほどのものだろう。

音楽や言葉のニュアンスがなくても、愛情があればそれは伝わるものなのだろう。


 アーニャは自分がひどく子どもに思えて、気分が重たくなった。




 アーニャは、学校から家に帰ること以外特に用事もありはしない。

 友人が誘ってくれることもあったが、あまり皆でわいわい騒ぐのは好きではなかった。部屋に篭って読書をしたり、好きなレコードをぼんやり聴いているのが好き。


 いつかレオンが貸してくれたレコードのことを思い出した。そういえば、これを返さなくちゃいけなかったわ。


 そのレコードのジャケットには、ビル・エバァンスと書いてある。レコードの針を置いた途端、じりじりというノイズが聞こえて、その後ピアノの音が部屋の様子を一変させるように流れ出した。切ないような音楽だと思った。でも、その音は繊細な音にも関わらずエネルギーに溢れていた。部屋に置いてあった萎れかけたバラの花さへ、少しだけ息を吹き返したように思った。


 アーニャは、久しぶりに彼のマンションを訪れた。今日は花もアップルパイも持ってはいなかった。使い古したバッグの中にはレコードが入っていた。これを返してしまったら、もう彼に会う口実が無くなってしまうかもしれないな。


 いつものように、坂道にさしかかった。微かにピアノの音が聴こえる。私の歩調は自然に速くなった。早く彼に会いたくてたまらなかった。あの曲はなんていうのだっけ。激しくも狂おしい曲。確かシューマンのクライスレリアーナ。シューマンがクララへの想いを綴った名曲。彼の家に近づくにつれて、その激しさが強く伝わってきた。少しピアノの弾き方が変わったのかしら?


 足音を立てないように静かに階段を昇った。

 部屋に着いたが、ドアの前に立って、曲が終わるのを待っていた。その時は、曲を中断させることに躊躇いがあった。ドラマチックな演奏が終わった。

 

 すると、小さな拍手の音が聞こえた。

え?誰か居るの? 少しだけ耳をドアに近づけた。

「素晴らしかったわ。」

「そうか。ありがとう。」


 二つの優しい声が聞こえた。アーニャの体は一瞬ビクンと痙攣したようになった。しばらく動くことが出来ずにその場に佇んでいた。一瞬、バッグの中のレコードをそっと触った。そして、音も立てずにそっと階段を降りた。

アーニャの足は、坂道を歩き出しても、いつまでも階段を下っているように不安定だった。

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