第8話 秘密のキス

 


 秋も終わり厳しい冬がやってきた。外に出ることが億劫になり、彼のマンションにもなんとなく足が遠のいていた。どうせ私が訪れたところで、何も変わりはしないのだから。ピアノの練習を聴いて、その後ジュリアの店に行くのだ。何も変わりはしない。私は少しずつ苛立ちも覚えたのだと思う。私のことなんか彼の目に入ってはいないのだと。


 小雪が舞い、その雪が二日も続いて外はすっかり銀世界になった。私はしばらくは彼のマンションに行くことを諦めた。あの坂を昇り降りするには少し危険だわ。だから、あのジャズクラブに行くことにした。


 ある夜、彼の出番が終わる頃、店のドアの前で彼を待っていた。窓から覗くと、レオンはピアノを嬉々とした様子で弾いている。店に入って彼の演奏を聴いてみたかったが、アーニャにはその経済的余裕はなかった。この店は高いだろうし。時々開け閉めされるドアから漏れ聞こえる音楽は、楽しげで心が踊るようだった。微かに店の中から拍手の音が聞こえた。演奏はもう終わったかしら。みれば、彼はお客と握手を交わしている。もうすぐ店から出てくるわね。


 その時、華奢な黒い帽子を被った女性が彼に話しかけた。レオンは、その人をじっとみつめて話を聞いている。女性の顔は横顔しか見えなかったがかなりの美人だろう。年はそう若くはなさそうだ。三十半ば頃か。やがてその女性は店のドアに向かって歩いてきた。レオンも彼女の後を追った。そして、賑やかな話し声と共にドアが開いた。透き通るように白い肌で黒い帽子が顔の額縁のように切れ長の大きな目やふわりとした唇を際立たせていた。


 彼女の眼は何かを言いたげな様子で彼をじっと見つめていた。黒いロングコートはたっぷりとしていて、袖の飾りがとても豪華だった。少し神経質そうな表情で周りを見回すと、二人はまた少しの間言葉を交わした。そして次の瞬間、瞬きをする間に見落としてしまいそうなほど短いキスを交わした。でも、その時の二人の横顔はとても美しかった。まるで、中世の物語の中の挿絵のようだった。私は思わず息を呑んだ。女性は足早に店から立ち去り、レオンはといえば、ただじっと彼女の後姿を凝視めていた。

 アーニャは、彼がドアを閉めて店に入ってからしばらくその場に佇んでいたが、結局そのまま家に帰った。あの人は誰なんだろう?恋人なのかしら?心の中でその言葉が繰り返された。


 そんなこともあって、しばらくレオンに会うことは躊躇われた。今となっては会いたいのかどうかも分からなくなっていた。あの時、じっとあの女性を凝視めたような目で私を見てくれたことはないわ。いつだって、他の方を見て私と話をするじゃないの。そもそも私たちは恋人という訳じゃない。私が勝手に彼のマンションを訪ねるようになっただけの話である。それに、彼は一度だって私を抱こうとしたことはない。そんなそぶりも見せたことはないのだ。そのことをあまり深くは考えてみたことはなかったが、考えてみればそれはやはりおかしい。あの人は多分恋人なんだわ。それも、道ならぬ恋なのじゃないかしら。そうでなければ、あんなに人目を避けたような口づけを交わすはずがない。誰かの人妻なんだわ。私よりもだいぶ年上だし、それにとても美しい人だった。私にはとても敵いそうもない色気がある。


 ここ数日水も変えないでいた花瓶の花が萎れかかっている。だから部屋も暗いんだわ。私の心の中はもっと最悪に真っ暗だわ。何もやる気にならずに、勉強の課題も溜まる一方だった。


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