第5話 アーニャ、レオンのアパートでのこと

                 


 坂道を登りきった一角に、小さな灰色のマンションが時の流れから置いていかれたような風情で建っている。彼の住む部屋。くすんだ壁にはアイビーの蔦が絡みつき、曇った空の続きのよう。靴のヒールがいつも坂を登る途中で、石畳の間に挟まっていらいらする。そして、いつも坂道の途中で一度は足を止めてその灰色の壁を見上げた。

 あともう少し。アーニャは少し上がった息を整えた。もう少しで彼に会えるわ。

彼はいつものように、ピアノの前に座って鍵盤を叩いているだろう。

私はショパンが好き。彼の弾くショパンが。私を横に置いて、彼は何時間でもピアノを引き続ける。ショパンの哀愁を込めた旋律が、坂道の途中の私の耳にも届いた。

この灰色のマンションは、一枚の絵のようだった。立体感がなく、平面だけの絵のように見えるのはなぜだろう。ここを訪れるたびにそう思った。

片手にコスモスの花を一杯に抱えていたが、やっぱりアップルパイを買ってくれば良かったと思い、唇を噛んだ。どうせ、このコスモスだって、数日もすれば枯れてしまうのに。

 

 秋から初冬にかけてのこの時期、落ち葉がからからと風に運ばれる。私は今のこの時期が好き。春は蠢く物の多さに落ち着かないし、夏のうだる様な暑さは考えただけでも憂鬱。雪に覆われた冬は少しばかり退屈。

 秋の美しさの中では生まれ変われるような気がする。紅葉は殆ど最後の力を使い果たして赤茶色に姿を変え、地に落ちる。やがて、丸裸にされた幹は、幹の奥深くで新たな命を育てている。今はまだ、静かな時だわ。

 

 坂を登りきったら、新たな試練が待っている。彼の部屋は三階にある。その他の二部屋は空き部屋のようだ。外階段を登って彼の部屋まで行く。一つ。また一つ靴音をたてて。彼にはこの靴音が聞こえるのかしら。もし聞こえているのだったら、どうしてすぐにドアを開けてくれないのだろう。私しか訪れる人はいないのに。

ドアをコンコンと叩く。しばらくして、彼はドアを開けた。少し錆付いたドア。ぎぃーと軋む音は、どんどん酷くなる。

「こんにちは。練習していたのね。」

「ああ。」

「もう少しで終わるから。」

もう少しで終わったことなんか一度もない。いつでも、私がそこにいることなんか忘れてしまうのだわ。でも、私はそれでも良かった。彼の弾くピアノを聴いていることで十分満足できたのだ。

 

 今日、彼はスケルツォの2番を弾いている。リストが、ヒステリックな女家庭教師の叫び声と評した作品だ。でも、私はこの曲が好きだった。出だしは、扇情的で物語の最初から引き込まれるよう。次に左手はアルペジオに変わり、主旋律は甘い。途中からあらゆるメロディーが登場し、これでもかと言わんばかりにダイナミックスへと導かれる。私もこんな曲が弾けたらいいのにな。そうしたら、彼にもう少し近づけるような気がするから。


 陽が落ちてきた。部屋の中はいつしか灰色の煙が漂っているようだった。アーニャは部屋の明かりを付けた。彼は、まだピアノを弾いている。アーニャは椅子を彼の隣に置いて、彼の顔を凝視めた。彼はこちらを見もしないで、そのまま鍵盤を叩き続けている。

 しばらくして、ぴたりとピアノの音が止んだ。彼は私の顔を見ると、いきなり私の頬にキスをした。いつもこうだ。彼はいつだって自分のペースで動く。でも、私もいきなりのキスは嫌じゃない。

「今日の練習はもうおしまい。何か食べに行こうか。」


 私も気が利かない女である。彼が練習している間に、何か料理をすればいいものを、どうしてもそれが出来ない。

 彼がピアノの音を奏でるとき、私にはそれは無常の時なのだ。料理を作るという日常的な行為を行うなど、とんでもない。そんなことをするくらいだったら、私は自分の魂を売り渡す。別に料理を作ることが嫌いな訳ではない。現にこの間だって、彼は私が焼いたケーキを殆どホールの丸ごと食べてくれたではないか。これからは、何かを作ってくればいいのね。

 私は靴を履きながらそう思った。三階からの急な階段は、狭くて一人ずつ降りなければならない。彼はもうとっくに下に着いて、私を待っている。

「早くおいで。」

彼は私を待つもどかしさに、そう言った。

「だってここの階段、怖いんだもの。」

先ほど歩いてきた坂道を今度は二人で下って行く。


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