第3話 ワインの中で揺れる心と運命の輪

 ホテルでのパーティーは盛大で、レオンのピアノ演奏もアンナたちの歌も無事に終わった。パーティーが終わると、レオン、ナオミ、アンナの3人は主催者から接待を受け、美味しい料理とワインを堪能した。レオンはあっと言う間に赤ワインのボトルを飲み干した。少し酔も回ったのか、レオンは次第に饒舌になっていった。楽しい話題と温かな人柄が周りの人たちを惹き付けた。彼の話は尽きることはなかった。柔らかい低音で静かに話す声。そして、一瞬後には繊細に変化するその表情に魅入られた。彼は結婚をしているのだろうか。恋人は?

                 

 アンナは結婚してもう10年ほどになる。子どもはいない。最近では子どものことは諦めてしまった。音楽の仕事をする上では、子どもがいないほうが都合はいいのであろうが、やはり子どもは欲しかった。しかし夫とはもう数年この話題に及んだことはない。

 夫のフランクは、従業員を数百人抱えるレストランのオーナーである。夫の経営するそのレストランは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで展開されている。結婚した当初は、まだまだ小さな規模だった。夫はやり手の若手実業家である。それだけに、自分勝手で独裁的なところがある。感情を表さないタイプでなかなか理解をするのが難しい。それでも結婚した当初は、夫は優しくて二人でよく旅行にも出かけた。少し強引ではあったが、それはかえって自分をリードしてくれる、頼もしい男性に映った。アンナは、フランクに恋をして結婚したのではない。自分を守ってくれる頼もしい人、そんなところに惹かれて結婚した。それに、フランクはアンナに積極的なアプローチをした。結婚してくれるまで、僕は決して諦めないと、手紙やプレゼントを頻繁に寄越した。アンナはそれが嬉しかった。それに、命をかけて愛し合うことなど夢の話だと思っていた。

 結婚してしばらくすると、夫は瞬く間に事業を拡大して成功していった。そして、仕事が忙しくなるにつれ、いつしか夫婦の間に溝が生じた。夜はいつも一人ぼっちだった。アンナはただ待つだけの日々を空しく感じるようになった。だから、夫に反対されていた歌の仕事に復帰した。夫はそのことをいまだに快く思っていない。人前で歌うなど、嫉妬深く支配的な夫にしてみれば決して許されることではない。音楽を愛する気持ちを理解してくれないことで、アンナは夫から少しずつ心が離れていった。

 離婚の話は夫婦の間で何度か出ていた。アンナは、さほど仕事をしていたわけでもなく、ただでさえ、歌い手のギャラなど安いもので、一人暮らしになれば生活もままならないことは分かっていた。しかし、それでも一人になって夫から開放されたかった。最初は頼もしく感じた強引なところも、今ではアンナにとって疎ましいものに変わってしまった。

 夫は、何故か頑なに離婚を拒んだ。その理由もよく分からないまま、生活は続いていた。結婚当初は、この上なく私を愛してくれたのに、今は愛人がいるに違いない。夫婦生活もここしばらくはなかった。それなのに、なぜ夫は離婚を承諾しないのか。それは、単なる世間体のようなものなのかもしれない。理由を聞いても、俺は絶対に離婚はしないという答えが返ってくるばかりだった。


 アンナは時々、抗えない欲求で男性に抱かれたいと思うことがある。体がそう要求するのか、それとも寂しさからくるものなのか分からない。若い時のような甘い恋をしたい訳ではなかった。恋をしてもいずれはその恋も醒めて当たり前の日常に戻ってしまうものだ。心のどこかでは、本当に愛し合う人に巡り逢いたいと想っていたのかもしれない。でも、それは、淡い夢のようなものなのだと自分に言い聞かせていた。

それが、レオンに出会って、ときめきを感じた。何もかもが初めての感覚だった。多分、彼のピアノを聴いた瞬間からそう思ったに違いない。



 ホテルのレストランは庭に抜けるガラスの扉があり、ライトアップされた庭を照らしている。レオンはワインをたっぷり注いだグラスを片手に、庭に出て行った。アンナも自分のグラスを持つと、レオンの後について庭に出た。 

外は少し冷えるが、酔って火照った顔に冷気があたると気持ちが良かった。レオンは備え付けてある椅子にゆったりと腰をかけて、ワインを飲んでいた。

「ここに座ってもいいですか?」

「ああ、どうぞ。」

「少し酔ったわ。でも、このワイン美味しい。」

「ああ、これは美味しい。いつもは安いワインしか飲めないからなぁ。」

「私はいつも赤ワインを飲みたいと思うの。どんなお料理を食べていても赤 ワインが飲みたくなるわ。」

「僕も赤のほうが好きかな。」

「お酒が強のね。あっという間にボトルが開いてた。」

「お酒が好きなんだな。だから、いくら飲んでも大丈夫。」

レオンはワインの酔いが心地よさそうに、顔をほころばせて笑った。

「レオン、結婚は?」

アンナは唐突にそんな質問をしてしまった自分を悔いた。失礼だったかし  ら・・・?

「結婚はしていないよ。今まで何人かの女性とお付き合いはしたけど、結婚 までは考えたことはなかったな。だから、ずっと一人で暮らしてる。」

「そう。」

「あなたは、結婚はしてるの?」

「ええ。」

「そうか。」

「私の夫は、結婚前は仕事をすることに賛成していたけれど、結婚した途端に仕事のことは猛反対するようになったし。一緒に生活するのは簡単なことではないのね。」

「ご主人はあなたを大切に思っているのだと思うよ。僕は妻が仕事をしていても一向に構わないし、生き生きと仕事をしている女性の方が面白いからいいかな。」

「もちろん主人には感謝しているわ。こうして生活のことを考えずに好きな歌が歌えるのは主人のお陰だから。でも、息苦しく感じる時があるわ。」

レオンはただ頷いていた。アンナは自分の家庭の話をしたことを少し後悔していた。なんでよりによって夫の話をしてるんだろう・・・。

「少し歩こうか」

レオンはこう言って歩き出した。アンナも話が中断されたことにほっとしながら、少し後から歩き出した。

「気持ちの良い宵だな。」

「ほんとに。お月様が綺麗だわ。」

レオンは夜空を見上げて、うんと頷いた。

 ガラス窓越しに、賑やかな話し声が漏れ聞こえてくる。ワインのせいで、誰もが陽気に笑っている。レオンと二人歩く庭は静かで、時々、風が樹々の葉を揺らす音が聞こえてくるだけ。レオンはずっと空を見上げている。その横顔を見ながら、昼間桜並木で感じた、懐かしい想いが蘇ってきた。こうしてレオンと二人でいると別世界にいるみたい・・・。周りの景色は今まで観たどんな景色より愛おしく感じる。木や花や空気や大地の言葉さえ聞こえてくるように思った。溢れてくる何か、は、止まることはないだろうと、そんなことを思った。

「少し酔ったわ。気持ちが良い。またこうして、飲みたいわ。」

「そうだね・・・。またいつか。」

しかしレオンはそれきりぷつりと話をしなくなった。鳶色の瞳は、突然フィ

ルターがかかってしまったように遠くで風になる木の葉を見つめていた。

アンナは遠い目をしたレオンの横顔を見つめていた。


                


旅の仕事から帰ってからは、アンナの運命の流れが変わったように、レオンのピアノで歌う機会が増えた。

アンナは幸せだった。またレオンに会える日のことを考えると自然に張り合いも出て、歌の練習にも身が入った。

ある晩のこと。多くの客が入り、店は熱気に包まれていた。アンナはライブが終わった後も興奮が醒めなかった。レオンの伴奏は、優しく繊細で、それでいて力強い。その調べの中で、アンナは歌う。レオンのピアノの音は、ばらばらな心の糸を紡いでくれる。言葉で語らなくても、その芳醇な音楽の中で私を包み込んでくれる。そして、アンナが最も美しいと思える音楽に触れることが出来るのだ。

「お疲れ様でした。」

レオンは譜面を鞄に詰めて帰り支度をしていた。

「ああ、お疲れ様。」

「今日はたくさんお客さんが入ってよかったわ。」

「そうだね。いいステージだった。」

「レオンのピアノで歌うととても楽しいわ。ありがとう。」

「こちらこそ。」

アンナは少し早口で言った。

「レオン、お腹は空いてない?よかったら、何か食べて帰らない?」

「う〜ん・・・。少しだけなら。」

レオンのあまり気乗りしなさそうな態度は無視することに決めた。

楽屋に飛び込み、アンナは着ていたドレスを急いで脱いで、身支度を調えた。鏡を見て、真紅の口紅をふき取り、薄いピンクの口紅に塗り替えた。

表に出ると、レオンは佇む様な様子でアンナを待っていた。

二人で街を歩きながら、今日のステージの様子やアンナが歌った曲について話をした。いつも仲間と行く店はすぐ近くにあった。

席に着くと、レオンはメニューを丹念に見て、お気に入りのワインを見つけそれを注文した。レオンの手は、赤ワインのボトルをしっかりと握ってアンナのグラスに注ぎ込んだ。これは旨いかなと言いながら。

「お疲れ様でした。」

「お疲れ様。」

二人はグラスを上げて乾杯した。

アンナはワインを喉に流し込みながら、この二人の時間がどれほど続くのかを考えた。ボトルを飲み干すだけの時間は私に与えられているわけだ。その後の時間は、風に運ばれる砂のように、儚く過ぎて行く。だから、アンナはこの瞬間を大事にしたかった。かけがえの無い大切なひと時だった。

レオンはいつものようにワインに酔うと饒舌になった。そして、その言葉には、音楽に対する情熱と夢がたっぷりと感じられた。レオンのきらきらした瞳と熱く語るその言葉は、ますますアンナの心を揺り動かした。




               

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