三 ましらの神

 不入山いらずやまは標高一三三六メートルの山である。しかしその山系は深く、深山幽谷と言われる原始の森で成っている。きめられたハイキングコースを外れれば簡単に遭難する。

 地図を持つ陽仁を先頭に翡翠、陽向、晶良と続く。歩きなれない山道に陽向はばて気味だ。けれどマネージャとしての才覚を認めてもらうために懸命に歩を進めている。


 約二時間。ようやく幽谷コースにたどり着いた。翡翠が前後に人がいないことを確かめ、不意に太い木の幹の後ろへ回った。道を外れた途端さらに山道が険しくなる。足元の悪い中を翡翠が見えない道をたどるように迷いなく進んでいく。ある程度進むと巨石に行き当たった。


「ここでちょっと休みましょう」


 翡翠の言葉を合図に陽向は地面にへたり込んだ。


「もうギブか? まだあるんだぞ」


 水筒をあおりながら、陽仁がにやにやする。アニキの面目躍如といったところか。軽装の晶良と翡翠は汗だくになりながらも、まだ体力はありそうだ。


「ま、まさか、晶良ちゃんに負けるなんて……」

 陽向は悔しそうに両手を地面に着いた。


「いや、僕は、あの、朱鸛しゅこうが体に融合してるから」

 晶良が苦笑した。


「ずるい……」

「あら、陽向ちゃん、わたしは自前の体力よ」


 翡翠にまで言われて、陽向はしょげかえった。


「まぁ、あれだ、おまえ、なにか運動すればいいんじゃね?」

「運動?」

「ジョギングとか、腹筋できるか?」

「ふ、腹筋……」


 陽向の脳裏に、体力テストで腹筋二回でギブアップした記憶がよみがえる。例外を除いてこの一員の中で最下位の体力は自分のようだ、と陽向は愕然とした。強がりを言わず現実を考えるべきだったが、どうしても晶良について行かねばならない、と固く決心していた陽向はこれしきのことで音をあげるのは早いと気付いた。


「さて、時間短縮。いまから、韋駄天いだてんを召喚するわよ」


 翡翠が両手の指を複雑に組、手印と呼ばれるものを作り、呪文を発した。何度か唱えると、三人に向き直った。晶良の時のように神気が具象化することはなかったが、その場にいる者全員が自分の体が軽くなったと感じているようだった。


「さ、行くわよ。足元に気をつけてね。それと、陽向ちゃんは決して私から目を離さないでね」

「はいっ!」


 真っ先に翡翠が飛び出した。野生の鹿のように木の根や岩が阻む山道を跳ねるように駆け上がっていった。




 韋駄天の術がかかった両足は何十倍もの距離を数歩で消化する。その時に見える景色はほとんど色でしかなく、形はほぼ見えない。物理的な何かを確実に無視してるはずなのだが、樹木にぶつかるようなこともなく、四人は不入山の奥深くへと分け入った。


 そのうち陽向の目に何かが見え始める。先頭を水色の何かがひらりひらりと移動していく。よくよく眼を凝らせば、いつぞや目にした水干姿の少年だった。まるで猿のように木々をよけ、茂みを飛び越えて先を走る。

 翡翠の式神のひとりセンであった。


「ご主人様!」

 センが叫んだ。


「もうそろそろよ」


 翡翠の声がした。とたん、周囲の形がよみがえる。色も次第に明確になり、濃淡も鮮やかに見えてきた。気付けば、足取りも重たく感じ、陽向は足元の木の根に躓きかけた。


「おっと」


 いつの間にか隣に立っていた陽仁が、すかさず陽向の体を支える。


「あ、ありがと……」

 そういって陽向は顔を上げた。


 深い緑の葉が茂る、天と地に大きな枝を傘のように張り、ねじれた幹が複雑に絡まり合った、恐ろしく樹齢を経た樹木が目の前にそびえていた。周りに木々はない。風もないのに古木の枝葉はさやさやと葉擦(はず)れ、太い幹から地面の根にかけてギシギシと揺れる。それ以上に、異様なものが古木を侵していた。

 巨大な蜘蛛の巣に見えた。細くゆらゆらとした糸が色濃い葉や枝にまとわりつき、まんべんなく槐の木を包んでいる。


「カイ……」

 翡翠がつぶやいた。


 陽向も古木の姿を目にした時、背筋に寒いものが走った。


「こ、これは……」


 身を守るために晶良が四人に結界を張り、すかさず両手で手印を結んだ。

 翡翠が青い顔をしてカイに命じる。


「糸を霧散して!」


 センが命ぜられるままに小太刀を振り、糸を払った。しかし、白い糸はびくともしない。

 はらはらと散る白い糸を陽仁が手に取る。糸、と思えたものは何かの獣の毛のようだった。それはまるで鋼のように固く、下手をすると肌を傷つけそうなほど鋭かった。


「晶良、糸じゃないぞ。獣か何かの毛だ」

「獣?」

「なぜ、獣の毛がカイにまとわりついてるの?」


 翡翠が眉をしかめた。その毛は白狐である青嵐の柔毛(にこげ)に比べかなり剛毛である。毛自体も短く親指の長さもない。このくらいの長さで白い体毛を持つ生き物など見当もつかなかった。

 四人の気配を察知したかのように、毛がますます古木を締め付けるようにはびこりだした。ぎぎぎという、木の幹がきしむ音が辺りに響く。このまま放っておけばいずれ古木はへし折れてしまうかもしれない。


「カイ、カイ! 返事をしなさい!」


 翡翠が必死に叫んだ。その声が届いたのか、古木が白緑色に明滅した。古木の中に潜むカイの姿がぼんやりと宙に浮かび上がった。しかし、カイは翡翠の呼びかけが聞こえないのか眠ったままだ。次第に樹木を取り巻く気配があやしくなってくる。やはり、ただの毛ではないのだ。現に翡翠の式神であるセンでは歯がたたない。

 晶良も結界を張りながら、青嵐を呼び出した。


「ここに」

 金色の輝きを放ち、綺羅を纏った白狐の青嵐が現れた。


「木を取り巻く毛を取り除けるか?」

「ふむ。これはやっかいな……。試して進ぜよう」


 青嵐がふわりと宙に浮き、打衣うちきぬから銀色に照り輝く、鉄でできた扇子を取り出した。鉄扇の先は鋭く研ぎ澄まされ、触れた物を容易く小間切れにしてしまいそうだ。

 鉄扇が閃光を放ちながら、古木を囲う白い毛をなぎ払った。しかし、鋭い刃が白い毛に当たるごとに威力を減じていく。反対に鉄扇に触れた部分の毛がますます強固にはびこっていった。


「くっ。主様、口惜しゅうござりまするが、わらわの鉄扇では歯が立ちませぬ」


 ざわざわと古木を締め付ける白い毛がざわめきだす。それとともに古木が苦しげにきしんだ。とたんに空気が変わる。質感を伴う真綿のように感じられる。

 凄まじい閉塞感に、陽仁と陽向は思わず膝をついた。大きくあえぐが、息が続かない。さらに、空気が石のように重くなり、陽仁も陽向も地面に突っ伏してしまった。


 かろうじて起きていられるのは式神に守られた翡翠と晶良だけであった。それでもかなりつらいのか、肩で息をしている。

 晶良はうつぶせに倒れ込んだ二人と、かろうじて立っている姉を見た。晶良ですら、顔が上気し赤くなっている。


 重く、息苦しいはずの空気だが、おどろおどろしいものはなかった。むしろ、空気は異様なほど澄んでいる。この空気に覚えがあった。研ぎ澄まされた清澄な気が辺り一帯を覆い、あまりの清らかさに肺が痛くなる。背筋にびりびりと雷電が走るような怖れを感じさせる空気など、めったに味わうことがない。


 重苦しく変化した空気に包まれた大樹の葉陰がわさわさと揺れる。白い毛の生えた頭が現れた。金色の大きな眼が歓迎せざる来訪者を睨んでいる。大樹の葉陰から現れたのは、大きな枝ぶりとほぼ同じ巨大な白い猿だった。金色に炯々と光を放つ眼から、清澄な空気に反して、とてつもなく禍々しい気を放っている。


「せ、青嵐」

「主さま……。これは……、大猿、年ふりしましらでございます」

「ましら……?」

猩猩しょうじょう狒狒ひひ、いろいろな名前がございますが、猿の年ふりて神になりたもうたものではありますまいか。いまだ神ではないわらわや朱鸛では歯が立たぬわけも、これで得心できまする」

「相手は神なのか……」


 それを聞き、翡翠の顔色が変わる。

「なぜ、神が私のカイに取り憑くの」


 それに対して青嵐が眉をひそめて言った。

「カイは千年生きながらえた妖樹。この不入山の中で一番に力がござりまする。そこに目を付けられたのかも知れませぬ」


 神から式神を取り戻すのは至難の業となった。このまま諦めるしかないのかと、晶良は巨大な槐の古木を見上げた。

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