式神感得編

no.1

 アルコールの臭い。糊付けされアイロンをかけた純白のシーツ、洗い立ての無地の掛け布団。白い壁、白いリノリウムの床。窓を覆う生成りのカーテン。橙色の日差しがカーテンの隙間から長い光の柱を作り、白い床と掛け布団の上にかかっている。


 掛け布団の上には子供の小さな手が添えられ、熱に浮かされ火照った肌をりんごのように真っ赤に染めている。

 晶良あきらは小等部の一学年に上がったばかりだった。非常に体の弱い子供だった。たび重なる高熱を心配した伯母の珊瑚が、分家の佐伯が経営する千葉の病院へ晶良を療養に送り出したのだ。入院中、晶良は頑固に大人の目を盗んで横臥での観想を続けていた。観想とは心を集中し念を具象化する力であり、思念を肉体より離してひとが感知できない大きな力の一部になることを指す。これを行うと、精神力をかなり消耗することになる。当然、なかなか熱が下がらず、一週間もここに閉じ込められているというわけだ。


「退屈……」


 晶良はつぶやいた。従兄弟や姉たちは学業と修行のために見舞いに来ない。ましてや父親の陸史は手紙の一つもよこさない。周りにいるのは分家である佐伯の人間だけで、話し相手にもなってくれなかった。

 サイドテーブルに置かれた本も読み飽きてしまい放っておかれている。熱を出したときにいつもつけているテレビの電源も今は切っていた。


 晶良は世話係の人間がいなくなるのを見計らうと観想を行うために目をつぶった。観想の修業をし始めた時、目をつぶるだけでは意識を集中できなかった。いろいろなものが現れるためにそちらに気を取られ、よく師匠の陸史に叱られた。今はそのようなこともなく、難なく晶良の意識体は肉体を抜け出した。本当ならばここから意識を無限に広げ、神意と同化することを目指すのだが、今はそこまでするとまた高熱が出てしまう。観想のコツを忘れない程度で良かった。


 晶良の思念が病室内に浮かぶ。寒気とだるさを全く感じなかった。そのまま窓をすり抜け、外へ飛び出した。肉体という錘がない分、全身が軽く説明しがたい開放感がある。秋空は晴れ渡り、うろこ雲が視界いっぱいに広がっている。足元の樹木は赤く染まり、眼下の山々へと紅葉の原が続いている。


 晶良は意識体となって外界を散歩するのが好きだった。いつもならば見上げるように大きな木々や山々が、おもちゃのように小さく感じられる。鳥ととも空を滑空する面白さは格別だった。どんどん高みに登っていくと、さらに地上の全景が明らかになっていく。佐伯の病院の建つ丘からは玉前たまさき神社が望める。一族と同名の町を晶良は上空から眺めた。玉前神社を中央に三時の方向に九十九里浜も見える。この辺りは千葉のパワースポットとしても有名なのだ。


 意識体になるとはっきりとそのパワーの源である龍脈の発する力を感じる。神気は玉前神社とは反対の方向、病院の背後にそびえる小高い山から発せられている。晶良は感覚をさらに研ぎ澄まし、神気をより強く感じる方向へと飛翔した。





 山の上空は研ぎ澄まされた神気に満ちていた。意識体の晶良にはそれらが金色こんじきのオーロラに感じられる。けれど、その色彩の中に一点どす黒い濁った気を見つけた。それは金色の光の中で泥の飛沫のように目立った。清浄な空気の中でけがれた気が存在できることが不思議だった。考えられるのは神霊が荒魂あらみたまになりかけている、または穢れを帯びてしまった神霊が浄化されている最中か。


 晶良は一度も神霊というものを実際に目にしたことがなかった。好奇心に勝てず、錐もみしながら滑空していった。周囲を飛び交う鳥たちも一緒に下降していく。山のこずえが目の前に迫った時、鳥たちは散開していき、晶良だけが樹木の隙間から漏れだす穢れの源へ向かった。樹木の間に立つと、それまでの開放的な空間は一挙に閉鎖されたものに変わった。押し迫るような樹木の枝が屋根となり、開けた空を覆い隠している。辺りは土と木々の気配と匂いに満ち、空気にはしっとりと水気が含まれている。意識体に体重はないが、土を踏みしだく感触が今にも足元から伝わってきそうだ。晶良は穢れを帯びた神気をたどり、徐々に山の奥へと分け入った。


 それまで所狭しと藪が左右にひしめいたはずなのに、いきなりぽっかりと空間が開けた。実際に存在する空間ではなさそうだ。木漏れ日の色から、周囲を照らす陽光の強さが、それまでいた山の中とはまるで違っていた。

 晶良が入り込んだ空間は西日が差し、樹木の枝がさえぎる屋根はなかった。木々の梢から垣間見える空は血のように真っ赤だった。晶良が病院で憶えている日の光はまだ橙色だった。朱色に変わるほど長い時間意識体でいた記憶はなかった。

 不思議な思いで晶良は空を眺めていた。


「誰じゃ」


 ふいに女の声がした。晶良は声のしたほうを見た。晶良ほどの大きさの岩があり、その上に白い狐がいる。しかし、女は見当たらない。きょろきょろと視線をさまよわせて女を探した。


「誰じゃと聞いておる」


 またも女の声がし、その声は狐が発していた。晶良は眼を見開いて狐を見つめた。見ると狐の白い毛皮は赤く穢れていた。痛みに臥しているのか、それともそういう色の毛皮なのか。遠目からは分からない。もっとよく見てみようと近づいた。


「わらし、近寄るでないぞ」


 狐が低い声音で言った。警戒した様子で険しい目を晶良に向けている。晶良は首をかしげた。


「けがをしてるの?」


 晶良はさらに近づいて言った。

「そこで何してるの?」


 あと数歩のところまで狐に近づいて、やっと悟った。白い毛皮を汚しているのは穢れだった。強い神気を発しているのは狐自身だったのだ。しかし、なぜこの獣が穢れを帯びているのかが分からなかった。赤い穢れは毛皮の上で小蟲こむしのようにぞろりと蠢き、ますます白い毛皮に広がっていく。その赤い穢れからはおどろおどろしい怒りや憎しみが小蝿のように湧いて出て目に見えない雲霞となって辺りに散らばっている。


 晶良あきらは少し怖くなったが、目の前にいる白い狐があまりにも美しいのが気になって、勇気を出してさらに近づいた。

 とたんに、今まで体を丸め尾を体に巻いていた狐が牙をむき出し威嚇した。晶良の目前で、牙の並ぶあぎとが真っ赤な火炎を吐きながら、狐が地を轟かせるような怒号を吐いた。


「いね! いなねば、食らうぞ!」


 晶良は怒りの大音響に首をすくめたが、足を止めずにそのまま狐の前にひざまずいた。それまで激しく威嚇していた狐が、動じない少年に驚いたのか、威嚇するあぎとを閉じた。晶良には狐の威嚇がそれほど怖くなかった。なぜかしら、以前怪我をした狸を裏山で手当てしたことを思い出した。幼い知恵を働かせ、この狐は怪我をして怖い思いをしているのかもしれないと考えた。どうすれば怪我をいやせるのかわからなかったが、彼は狐の赤く穢れた胸元にそっと手を添え、「よくなれ」と念じた。


 どのくらいの時間が過ぎたか――。晶良は自分の意識体が揺らめき、消えかかっているのに気付いた。恐ろしく疲れていた。それまではっきりと感触のあった周囲の感覚が著しく損なわれ、夢現ゆめうつつの状態に近くなっていた。狐の胸元を見ると赤かった穢れはきれいになくなり、美しい白い毛並みは元に戻っていた。晶良はほっと溜息をつくとそのまま意識を失い、自分の肉体に戻ってしまった。





 気が付くと、晶良は病院のベッドの中にいた。力を使ってしまったのだと気がついた。熱特有の浮遊感が全身を支配している。また入院が長引くと少し後悔した。これでどのくらい修行や学業に従兄弟たちと差が付いていくのだろうと考え、気がめいった。


 病室のカーテンから差し込む日差しは観想を始めた時と変わりなかった。火照った頬に病室の空気が冷たく感じられ、晶良は布団を鼻のあたりまで引き上げた。目をつぶると、先ほど観想中に出会った白い狐の姿が浮かび上がる。


「きれいだったな」

 晶良は微笑み、今度は眠るために意識を閉じた。

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