no.2

 晶良が右手を動かし、腰に付けたポーチからなにか取り出し、宙に放つ。

 陽仁には、それが黄色い紙に、ぐねぐねした赤い文字を書いたものに見えた。

 紙は四枚あり、およそ縦十五センチ横八センチほどの大きさだった。不思議なことにその紙は宙に浮いたまま微動だにしない。

 晶良が人差し指と中指を紙に向け、宙になにか紋様のようなものを描いた。その動きは鋭く、一体なにを描いたのかまったくわからなかった。


「はっ!」


 晶良の口から鋭い呼気音が発せられる。その瞬間、宙に浮いていた紙が、矢に射られたように物凄い勢いで部屋の四隅に散っていった。そして、糊付けされたかのように壁の四面に張り付く。


 陽仁は呆気に取られてその様子を見ていたが、いきなりこちらに向かってなにかが放り投げられたのを感じ、とっさによけた。

 投げられたものはクローゼット側の壁にぶつかり、けたたましい音を立てて割れた。一升瓶だった。右後ろから社長の唾を飲む音が聞こえてくる。

 瓶のかけらや中身が四方に飛び散り、驚いた陽仁は部屋の外へ出ようとした。


「動かないで」

 それまで一度も背後を見ていない晶良が、不意に声を掛けてきた。

「今、この部屋から出たら、屍人(しびと)が飛びかかりますよ」


 それを聞いた陽仁はぞっとして、動かしかけた足を元に戻した。

 その間にもますます悪臭は酷くなる。壁と床に飛び散った酒は酢のような刺激臭を放っている。

 風穴から吹き抜けるような音は、いつの間にかうめき声に変わっていた。


 気がつくと、穴の上部に灰色の女が立っている。いや浮いているのだろうか。うめき声は女が発している。首が異様に長い。

 女は懸命にその首を掻きむしっている。距離があるのにその女の細部まで手に取るようにわかる。


 女の爪は長く鋭い。その爪が伸びた首の薄皮をばりばりと引っかいている。どす黒い血が、女の首から滴っているのがわかる。

 とうとう爪は女の首の皮を貫通し、肉と筋を引きむしった。

 びちゃびちゃと血飛沫が辺り一面に飛び散る。


 社長が「うっ」と軽くうめいた。目前の異様な光景に陽仁も吐き気を催した。

 晶良だけが眼前の凄惨な情景から目をそらさず、ぶつぶつと呪文を唱え続けている。彼の表情はまったくわからないが、陽仁には彼が決して怖気づいていないと感じ取れた。


 女は悲鳴を上げながら、ガラスを引っ掻くような耳障りな笑い声を、多重音声のように漏らしている。その声の合間に別のうめき声も聞こえ始めた。

 陽仁が不安げに左横の穴を眺めると、ちょうどその縁に青白い指がかかるところだった。

 異常に長いささくれた爪が、ギチギチと穴の縁をつかんでいる。

 濡れた雑巾を叩きつけるような音がし、次々と穴の縁に手が現れた。


 ベタッ


 その手は一様に青白く、ところどころどす黒く変色している。

 一体なにが這い上がってきているのか、陽仁には想像もつかない。

 ずぶぬれの掌をガラスにたたきつけるような音が増え始める。


 ベタベタッ ベタッ


 無数の手が穴をよじ登ってくる。

 穴から現れる手の中には、露出した指の骨をほかの手に突き刺しているものまであった。もはや手とは言いがたい骨に筋だけを残したものも、手の群れの中にある。

 あの手は腐っているのだ。

 陽仁は悟った。


 生きている人間の手ではない。すると、あの穴は尋常でない場所に繋がっているのか。

 穴の縁が手で埋め尽くされると、今度は頭が現れた。べったりと頭部に張り付いた髪はところどころ抜け落ちている。剥がれた薄い頭皮をぶら下げている頭も見えた。


 臭気がいっそう強くなってきた。硫黄とヘドロが混じった強烈な悪臭。

 穴から這い出てきたものたちは、一様に正常な姿を保っていなかった。皮膚が崩れ落ち、肉が溶け、腐肉を垂らしている。皮膚が青黒く膨れているものもいれば、赤くふやけ皮膚のところどころが破れて、体液が流れ出ているものまでいる。

 とても正視できるものではなかった。


「なんなんだ、あれは!?」


 驚きが思わず陽仁の口を突いて出た。完全に社長は陽仁を盾にして隠れている。陽仁は前に押し出される形で、グロテスクなものを正面から見る羽目になった。


「あれが屍人ですよ。黄泉の国のものたちです」

 穴と対峙している晶良が説明してくれた。


 屍人たちは、女が流した血だまりに這いつくばり、ぴちゃぴちゃと音を立てて舐め始めた。そして、狂ったように奇声を上げ続ける女の足首をつかみ、屍人たちが女の足に次々とまとわりついていく。

 女はよりいっそう悲鳴を上げ始めた。


 一体なにをしているのかと陽仁が目を凝らすと、屍人は女の足に食らいつき、肉を引き千切り貪っている。

 宙に浮いていた体は引き摺り下ろされ、長く伸びた首はそのまま千切れた。

 女はあっという間に屍人の塊の中に埋没していった。


 悲鳴が完全に途切れると、屍人のひとりが彼らのほうを振り向いた。

 その眼球はすでになく、まっ黒い眼窩がぽっかり開いた顔をこちらに向け、かすかに笑ったように感じた。

 それを合図に、他の屍人たちも三人のほうへ這い寄り始めた。


 陽仁の胃の腑が恐怖に縮み上がる。体が勝手に逃げ出しそうだ。社長の様子を窺うと、とっくの昔に目を開けていること自体放棄しているのがわかった。

 しかし、晶良が落ち着き払った様子で、右腕を上げ、右手の人差し指と中指を立てて、呪文を唱えながら宙に何やら文様を描いているのが見えた。「はっ」という呼気とともに屍人を指でなぎ払った。


 白い玉のような光が彼の指に灯り、それが弾丸となって屍人の体に命中していく。

 瞬く間に屍人は跡形もなく消滅した。

 穴から這い出てきた屍人はほとんど消えてしまい、陽仁はやっと終わったかと安堵しかけた。

 だがそれもつかの間、不気味なうなり声が突如部屋に響いた。


 まるで大型の肉食獣の威嚇音のようだ。うなり声は徐々に大きくなっていく。

 声は屍人たちが這い出した同じ穴から聞こえてくる。

 聞くものの背筋を凍らせるような恐ろしい唸り声だ。


 陽仁は緊張した面持ちで穴を凝視した。恐怖のために穴から目をそらすことができなくなっていた。

 陽仁の見つめる前で、穴から新たになにかが現れた。


 毛深い掌が穴の縁から突き出し、そのまま床めがけて叩き下ろされた。

 なにかを叩き割るような音が穴から発せられる。


 ダ、ダンッ――!


 新たな手が穴の縁をつかんでいる。先ほどの屍人の手とは、比べることもできないほど大きい。手の甲には太い毛が生え、爪はまるで肉食獣のそれだった。

 大きな破裂音とともに、もうひとつ手が縁から現れた。


 ダーンッ――!!


 うなる声も次第に大きくなっていく。

 徐々に穴から頭が突き出してくる。明らかにその頭蓋には角

があった。歪なねじれた角。

 頭はぐっと突き出され、穴の大きさを無視した巨大な体が現れた。


 鬼だ。


 人の顔ではない。獣の顔を持つ醜悪な生き物が目の前にいた。

 鋭い乱杭歯の間から粘度の高い唾液を垂れ流し、横に広がった鼻腔から生臭い息を漏らしている。

 その腕と首、胸板は厚い筋肉に覆われ、体中に剛毛がまばらに生えている。皮膚はまるで象かサイのように硬そうだ。


 鬼の体はずるりと穴から引きずり出され、ゆらりと晶良の前に立った。

 鬼の頭頂部は部屋の天井にぶつかり、天板がやや歪んでいる。

 全身を目の当たりにして陽仁は唾を飲み込んだ。


 それは人間の姿を著しくデフォルメしている。太く長い腕。天井にぶつかるほど大きな体躯だが、腕は床に着いている。足は歪み、獣のような形をし、蹄こそないが、馬かなにかの生き物のそれに似ている。


 いきなり部屋に雷鳴に似た咆哮音が轟いた。ゴロゴロという唸り声と、甲高い鼓膜をつんざく鋭い音。聞いたとたんに陽仁は腰が抜けそうになった。

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