番外編

屍鬼祓師Encounter

no.1

「お静かに」

 暗い部屋の中に凛とした涼やかな声が響く。


「晶良さん、この部屋にはなにもないように思えるんだが」

 小太りの男が白い息を吐きながら、部屋の真ん中に立つ一宮晶良に訊ねた。


「まぁ見ててください、社長さん」

 晶良の指差す先にはなにもない壁があった。


 ドアから入ってすぐ近くに陽仁は立っている。陽仁の右肩から社長が部屋の中を覗いている気配を感じた。

 社長は、左側の壁沿いに置かれた一升瓶と火のついた線香を立てた線香立て、水のはいったコップや平皿に盛った塩、それと榊を順番に眺めた。しかし、それ以外に気になるようなものはなにも見当たらない。


「変わったことはないように思えるがなぁ、なぁ、諏訪君」


 社長に話しかけられ、諏訪陽仁は左側の壁を見て、

「そうですね……」

 と答えた。


「気が散じてしまいます。お二人とも静かにしてください」


 晶良の斜め後ろで、それまでこそこそと話していた二人の男は黙った。

 照明の落ちた暗い部屋。息が白くなるほど室温は低い。フローリングの部屋は七畳の寝室。ドアを開けると、向かってやや左寄りに出窓がついている。日焼け防止のカーテンは完全に締め切られている。備え付けの出窓両脇にある壁収納以外に家具は一切ない。右手にはクローゼットの扉があり、陽仁は左側へ視線を向けた。


 ここは都心のマンションの一室。部屋数は寝室も含めて四部屋。

 陽仁たちがいる部屋は、間取りでいえば全体の右側に位置する。風呂場やトイレ絵と並べて作られているため、湿気も多いかもしれない。

 ダイニングとキッチンは全体の左側に位置している。二十畳のリビングが南西向きに作られ、玄関やふろ場は北東を向いている。

 壁紙も床も全てが真新しい。最近大々的な改装をおこなったのだろう。


 心もとなげにたたずむ陽仁は、自分より背の低い少年の左側頭部を心配そうに見つめた。

 目前の晶良の華奢な肩は、まるで少女のように薄い。袖の布越しからうかがえる腕には無駄な贅肉はないように思える。筋肉も必要以上についておらず、ほっそりとした四肢がその華奢な体を支えている。


 陽仁よりも随分か弱そうに見える彼が先頭に立ち、一升瓶の直置きされた左手奥の部屋の隅に顔を向けている。まるで背後に控える二人を少年が守っているように陽仁には感じられる。


 陽仁の半そでから出た腕に鳥肌が立つほど室内は寒い。

 べたべたと肌にまとわりつく湿気を含んだ蒸し暑い外気は、マンションの一室にはいった瞬間、冷気に変わった。

 クーラーが効きすぎていると思ったほどだった。それでも家庭用のクーラーでいくら部屋を冷やしても、息が白くなることはない。


 その冷気以外に陽仁が疑問に思うことがあった。

 それは鼻をつく異臭。生ゴミの匂いだ。魚や肉類を炎天下にさらしておいたような悪臭が部屋中に漂っている。

 しかし、ここに来た最初にフロアを案内されたが、ゴミの類は一切見当たらなかったはずだ。


 ほかにもこの部屋に関して気になることがあった。陽仁は息をひそめて耳を澄ませた。

 晶良に注意され会話をやめたため、部屋は静まり返っている。

 今は社長の緊張した息遣いと、晶良の深い呼吸音と衣擦れだけが聞こえてくる。

 それらの音を陽仁は自分の高鳴る鼓動と一緒に聞いていた。

 それ以外に耳にはいってくるのは、不意に始まった建材のきしむ音だ。ほかにも細い木の枝かなにかが折れる音が先ほどから部屋に鳴り響いている。


 ピシッ パシンッ


 音が鳴るたびに晶良の肩がぴくりと緊張するのを見て、やはり何らかの関連があるのだろうかと思い直した。なにかが起ころうとしているのは分かる。しかし、まだ感じ取ることすらできないために、陽仁は冷静でいることができた。


 陽仁は薄暗い部屋の中に立っている晶良を観察した。

 目には見えない張り詰めた空気が晶良から漂ってくる。陽仁よりもひと回り華奢な彼が、実は思っているほど小さくないのではないかと思わせる威圧感を発している。

 簡単に自己紹介を済ませた三人は、寝室にはいる前に晶良から注意を受けていた。


「結界を張りますからそこから出ないように。万が一なにかあっても、お二人の安全は僕の式神が守りますが、保証できないので、必ず守ってくださいね」


 陽仁は、今から晶良が部屋の清掃をするとしか聞かされていなかった。

 しかし、晶良の説明を聞いて確信した。

 心霊的な瑕疵物件のお祓いを晶良はおこなうのだろう。

 一体どんなお祓いをするのか見当もつかないが、お経を唱えるくらいのものだろうと、陽仁は勝手に思い込んでいた。


 だから、いま自分が置かれている状況に対して妙に人ごとのような冷静さを保っていた。

 その陽仁がみている前で、線香の煙が鎌首をもたげるように晶良に向かって行き、その体にぶつかる直前で霧散していく。

 煙が室内をゆるゆると這いずり回るさまは蛇のようでもあり、触手のようでもある。

 まるで生きているように見えて薄気味が悪かった。


「始まりますよ」

 晶良の低い声が聞こえた。


 社長が身構えるように体を固くし、陽仁の右側に体を寄せてくる。

 陽仁は顔をしかめた。社長に対してではない。強烈な臭いに、だ。

 悪臭がきつくなっている。もはや生ゴミが腐った臭いではなく、卵の腐った臭いに似た硫黄臭を思わせる悪臭が部屋中に満ちている。


 冷気は鳥肌が立つのを通り越して、肌に痛いほどだった。空気に含まれる水分が、みな凍りつくかと思えるくらいだ。

 気味が悪くなるほど部屋の暗さが増した。

 日焼け防止のカーテンの隙間から、微かな太陽光が射しているにもかかわらず、まるで透明な遮光の膜が部屋の周囲に張り巡らされているようだった。


 陽仁は晶良の見つめる先に目をやった。

 なにか固いものが倒れる音がした。

 陽仁の左の壁に沿うように置かれていた一升瓶が傾いて倒れたのだ。一升瓶の周りでわだかまった闇がもぞもぞと蠢いている。そこは最初に晶良が指さした場所だった。


 陽仁は良く見てみようと目を凝らした。

 フローリングの床に黒い染みが広がりつつあった。

 しかし、それは液体による染みではない。一升瓶は割れておらず、水がはいったコップも倒れてない。

 次の瞬間、一升瓶がその黒い染みの中に吸い込まれた。そこには染みなどではなく、まさに穴が存在した。一升瓶は音もなく、穴の中に落ちていった。


 それを合図に穴から生臭い風が吹き始めた。

 女が泣き叫ぶような高い悲鳴が、その穴から聞こえてくる。悲鳴だと思っていた音は、穴から吹き付けてくる風の音だった。

 なにが起こっているというのか。なにが始まるというのか。説明を求める目で陽仁は社長を見た。

 社長がハンカチを取り出し、異臭による吐き気を懸命に我慢しているように見えた。丸い顔が真っ青だった。とても話しかけられる状態ではない。


 仕方がなく、陽仁は斜め前に立つ晶良の背中を見つめる。

 この異常事態の中、背を見せる彼だけが毅然としている。顔は全く窺うことはできないが、なにかの呪文を唱えているようだ。

 気のせいだろうか。暗闇の中、彼の体の周りにゆらゆらとした光が見える。これがオーラというものだろうか、と陽仁は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

ビューワー設定

文字サイズ

背景色

フォント

一部のAndroid端末では
フォント設定が反映されません。

応援の気持ちを届けよう

カクヨムに登録すると作者に思いを届けられます。ぜひ応援してください。

アカウントをお持ちの方はログイン

フォロー機能を活用しよう

カクヨムに登録して、気になる小説の更新を逃さずチェック!

アカウントをお持ちの方はログイン

フォロー機能を活用しよう

カクヨムに登録して、お気に入り作者の活動を追いかけよう!