第3話

 赤黒い人間だったものはエクセレントルームの外へは出られないようだった。それが彼らの結界なのだ。

 晶良はどんどん釈へと近づいていく。

 釈の背後が歪み渦を巻いて、暗い穴が口を開けた。そこからいきなり鼻を突く硫黄臭が襲ってきた。


(硫黄臭!?)


 陽仁はよりいっそうもがいた。それなのに自分を押さえつける無名の腕を離すことができない。

 そうしている間に、さらに穴が広がり、部屋全体が歪み始める。血糊の臭いよりも硫黄の悪臭が部屋に満ち溢れて、吐き気を催す。


 完全に穴が開き、ドーンドーンという地響きが聞こえ始めた。その音はやがて、部屋中を揺るがす、バンバンバンという音に変わり始めた。

 天井がへこみ、パースが狂い始める。床は泥のように沈み込み、壁や何もかもにひずみが生じた。


 上半身が八枚に割かれた釈が赤黒い花びらを揺らしながら叫んだ。


「ようこそ、エクセレントな世界へ!」


 その体をひるがえして暗い奈落へと消えていった。

 それと同時に、背筋が凍るような唸り声が穴から漏れて出た。洞穴を吹き抜ける生臭い風が音を立てて皮膚に突き刺さってくるようだ。


 バン!

 部屋中が揺れた。

 バン!


 穴から剛毛の生えた巨大な手が生えた。それが穴のへりを掴む。針か棘のような黒い毛が、盛り上がった浅黒い筋肉にみっしりと生えて逆だっている。

 大型獣の唸る重低音が部屋に響く。金属をすり合わせる音も混じる。不快な軋む声が穴から生じる。


 暗闇から、ネジ曲がった山羊のような角が現れた。その太さはゆうに人の体幹ほどある。徐々に現れた頭は、犬によく似ていた。その目の瞳孔は横に開き、あぎとにはさめの牙がみっちりと生えそろっている。


 その舌は青黒いナメクジのようで、表面に細かな棘が生えている。それが汚物のような悪臭を放つ粘着く唾液を振りまく。

 頭が完全に出てしまうと、今度は穴を無理矢理に広げてくる。ギシギシと音を立てて黒い空間が揺れるたびに、ボロボロと暗闇が落ちてくる。蛆のような泥蛆が黄泉の穴から溢れ出てくる。


「晶良!」


 陽仁は大声を上げた。


(なんでだ! せっかく力を手に入れてもお前は背中すら守らせてくれないのか!?)


 悲痛な叫びが晶良の耳に届いたのか、口元を微笑ませて晶良が振り向き、宙にしゅを描いた。輝跡がその線を浮かび上がらせて、晶良を取り巻く。

 それは複雑な文様を描き、晶良を囲み、広がっていく。足元の赤黒い塊がその膨張に押されてゴロゴロと部屋の端に押されていく。


 屍鬼は上半身を穴からひねり出して目の前に転がってきた人間を掴んで口に運んだ。ブチブチと肉が引きちぎられる耳障りの悪い音が陽仁のもとに届く。広げた穴から屍鬼が足を出す。毛深い足には蹄があり、山羊の後ろ足のように歪んでいる。

 その蹄が床を這う人間を踏みつけて穴から這い出てきた。


 文様が屍鬼の体に押されて歪む。晶良の張った結界は屍鬼に通用しないようだった。屍鬼の歪んだ体が結界を押すたびに、晶良の細い体がよろけた。


「放せよ! 無名! お前はなんのためにここにいるんだ!」


 陽仁はもがきながら叫んだ。


「まだ駄目です」


「何が駄目なんだぁ!」


 陽仁の怒号が晶良の耳にも聞こえたのか、晶良が完全に振り向いた。

 その真後ろに屍鬼が背を曲げて立ち上がる。そして巨大で長い腕を振りかざして大きく振りかぶった。

 音もなく、結界を突き破って、晶良の首と体が引き裂かれ、どす黒い血しぶきが周りに円形に吹き飛んだ。


「うわぁあああ!!」


 陽仁が叫ぶと同時に急に体が自由になり、陽仁の前に無名が飛び出した。


「無名!」


 晶良の遺骸の上に立ち、無名が腕を大きく広げて円を描く。丸い円陣が暗闇に浮かび上がり光を放つ。その円陣は徐々に大きくなっていき、はっきりと五芒星だとわかるまでに広がった。


 円陣のオレンジ色の鋭い輝きに屍鬼がうめく。

 晶良が殺され、今度は無名が自分を犠牲にしようとしている。陽仁は自分の体が石のように固くなって動かないことを呪った。恐怖に体から血の気が引いていく。


 あとは自分しかいない。陽仁は拳を握る。手甲の感触が蘇った。これがあれば、晶良のかたきが取れる! その思いだけで、動かない足の筋肉をじ曲げた。それなのに、部屋のなかに足が入っていかない。まるで分厚い壁があるようだった。


(なんでだ!?)


 陽仁が動揺すると、背後から、聞き覚えのある声が響いた。


「オン ビシビシ カラカラ シバリ ソワカ!」


 その声と同時に、ガラスがひび割れて崩れ落ちる音が部屋を満たす。

 その瞬間、屍鬼が押し潰したはずの、晶良が張った文様が屍鬼を包んで蘇った。

 陽仁の足元に見覚えのある提灯が転がり落ちる。

 その間も五芒星の円陣を構える無名が屍鬼の攻撃を阻止している。


「陽仁さん! 今ですよ!」


 腕をぐいと掴まれて、部屋のなかに引き込まれた。

 陽仁は自分の腕を引く人物を見やった。見慣れた美しい顔がそこにあった。さっき微塵みじんに引き裂かれた晶良が、陽仁を見て微笑んだ。


「泥蛆を捉えるなら今です」


 陽仁が屍鬼に向かって念じると同時に、晶良が手を突き出して手印を組む。鋭い呼気とともに術法を展開した。


「ノウマク サラバ ビキンナン ウンタラタ カンマン!」


 屍鬼を包んだ文様が金色の閃光を放ちながら狭まり、屍鬼を完全に取り巻いたと思った途端、その醜い体を文様の形に細切れにした。

 陽仁の右手から放たれた、呪糸じゅしが網のように広がって屍鬼の周囲をさらって引き込んだ。


 ヘドロと生肉を焼く匂いが周囲に満ち、閃光とともに青白い光がチラチラと部屋中に降り注いだ。それはゆっくりと雪のように床に落ちて消え、完全に屍鬼は塵になった。

 陽仁が放った網は屍鬼を攻撃したあと泥蛆を捉え、シュルシュルと陽仁の手元まで戻って泥蛆とともに消えた。

 それは全て一瞬のことだった。陽仁が呆然としていると、晶良が陽仁の肩をポンと叩く。


「陽仁さん、まだ終わってませんよ」


 円陣の光を穴に向けている無名に向かって晶良が歩いていき、青嵐と朱鸛しゅこうに命じた。


「青嵐、朱鸛、穴を塞げ!」


 青白い炎と赤い炎が空中に生じて穴を取り巻いた。まるで端から塗り固めていくように穴が塞がっていく。とうとう完全に穴が塞がってしまうと炎は自然に消え、無名も自分の術を解いた。

 すべて終わったと陽仁が息をつくと、晶良が陽仁に告げた。


「まだ安心しちゃいけません。最後の仕事が残ってます」


 陽仁はそう言われて部屋の隅に転がっている赤黒い物体を見回した。もとは人間だったはずの存在だ。


「浄化できる人がいたらいいんですけど……」


(そうだった……犠牲になった人間がまだ残ってたんだった……)


 晶良と無名がひとりひとり見ていく。

 釈が黄泉に逃げ去ってしまったあと、欲を溜め込む力をなくした人間だったものは抜け殻のように身じろぎすらしない。

 かろうじて身悶えているのは、卵から孵ったばかりの人間だった。それでも何度も卵から孵ることを繰り返した人間は魂が黄泉に囚われて、体の内側を泥蛆に食い荒らされていた。


 何十人もの人間のうち、かろうじて人間として生きているのは数人だけだった。美穂もそのうちの一人で息も絶え絶えに気を失っている。

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