第七章

第1話

 心地いい羊水の中で膝を抱いて美穂は惰眠をむさぼる。なぜこうなったかわからない。でもこれでいいのだと思える。今まで抱えていた悩みも欲求も何もかもが昇華されて、ただ心地いい気分だけが心を支配する。

 こうなる前に何か見た気がする。それが自分をさらに気持ちよくさせた。初めてだったのにそんなことも忘れてしまうくらい、快感が背筋から脳髄へ根を伸ばして絡みついてきた。


 誰か男の人が自分を特別に抱きしめてくれて、体を割り割かれて中身を引きずり出されてしまう。それなのに叫ぶのがやめられない、絶頂が自分を襲ったのは覚えている。

 それから先が闇の中で、気がつくと羊水の中で眠りを貪っていた。体の中で変化が起きている。多幸感が全身に染み渡る。それなのに、体を何かが蝕んでいるのもわかる。


 エクセレントクラス……。こんな素晴らしい経験ができて嬉しい。このことを誰かに知らせて教えてあげたい。こんな幸せを誰も知らないなんて不幸だと思いながら目を閉じた。

 




 電話を切ってからおかしいと思ったのは、柘榴が突入したことを全く弥勒院が匂わせなかったことだ。柘榴の作戦は失敗に終わったのだろうか。

 陽仁は疑問に感じたけれど、もし失敗に終わっても柘榴には次の作戦があるだろう。それとも、施設のなかにお友達クラブの連中だけがいなくなっていたのだろうか。


「どう思う?」


 晶良に陽仁は尋ねた。


「多分後者じゃないでしょうか。お友達クラブの人たちが全員人間ではないのなら、柘榴姉さんの奇襲にも気付いたはずですから。それに光輝さんも伝言を残してましたし……」


「伝言? 光輝さんが、か!?」


「突入するって……たった一人なのに」


「突入……」


 だとしたら光輝が報われない気がする。せめて、あの特別室へ連れ込まれてしまった子供たちだけでも助かっていればと思う。

 晶良たちは所定の住所の近くまでタクシーで移動して、マンションまで歩いていった。その間に、用心深く陽仁は瑪瑙から貰った手甲を両手にはめた。


 これに編み込まれた術法を一つ使うごとに指の感覚が一本ずつ失われる。しかも、泥蛆を一匹でもいいから瑪瑙に届けなければ、指の感覚は戻らず麻痺したままになるのだ。

 その恐ろしさに、今更ながら陽仁はゾッとする。しかし、覚悟して頼んだことだ。晶良の背中を守りたい気持ちに変わりはない。たとえ晶良にその必要が一切なかったとしても、自分がここにいる理由を知りたいのだ。


 先頭を晶良が行く。その後ろに陽仁と無名が並んで歩いた。無名は燕尾服に似た軽やかな生地のスーツを着ている。とても戦闘力があるようには見えない。


「それ言えばこの手甲、どうやって敵を攻撃するんだ?」


 大事なことを聞き忘れていたことを陽仁は思い出した。

 無名が微笑んで教えてくれる。


「念じれば、その通りになりますよ」


「そんな簡単でいいのか? 呪文とか唱えないのか?」


「呪文や術式を簡略化できる特殊な武器だからこそ、みんな欲しがったのです」


「お前は何も持たなくていいのか?」


「問題ございません」


 無名にあっさり言い切られて陽仁は口をつぐんだ。少し緊張していて落ち着かず、意味もなく喋ってしまう。そうしているうちに晶良が言った。


「あそこですね」


 指差した先に目的地であるマンションがあった。

 マンションの前には誰もいなかったが、エントランスポーチに入るとオートロックドアの前に弥勒院が佇んでいた。


「一人じゃなかったんだね、まぁいい」


 相変わらず、芸能人のような男だ。きれいというよりも端正という言葉がよく似合う。調和の取れた顔つきもその物腰も洗練されていて美しい。


「部屋は最上階だから。でも、あなたが来てくれて嬉しいよ」


 オートロックドアを開けて、弥勒院が三人をマンションのなかに招いた。

 エントランスポーチからドアをくぐり、マンション内のエントランスに入る。大理石張りの屋内は夏なのにひんやりとして涼しかった。

 いや、寒いと言ったほうがいいかもしれない。

 陽仁は覚えのある寒気にいやな予感がしたが、空気は変哲のない新しい建物の匂いだった。


(考えすぎか……?)


 相手が泥蛆や屍鬼とは限らない。単なる化物相手の戦いになるかもしれない。ただ、気を引き締めているに越したことはない。しかし、周りを見ると身構えているのは自分だけで、無名も晶良も自然体だった。

 あまりの危機感のなさに反対に呆れてしまう。


(おいおい、ここは敵地なんだぞ?)


 意識して自然体を装うけれど、角を曲がったり、エレベーターに乗ったりするたびに、ビクリと体が震えた。

 岡山のときのようにすくんでしまうようなことになりたくなかった。華奢な体で命を張って陽仁を守りながら化物や屍鬼と戦った晶良のことを思う。


 もしも少しでも陽仁に力があったなら、あの時晶良のお荷物になることはなかったし、晶良に命を削るような真似をさせることもなかった。

 自分を犠牲にしてでも、孤島に住む人間を助けたいという晶良の衝動がどこから来るのかわからないけれど、それは晶良が口走った言葉に由来するのかもしれない。


『自分のせいでみんな死んだ』


 それを晶良は恐れているのかもしれない。もう誰も自分のせいで死なせたりしないように、細い体で踏ん張って頑張っているのかもしれない。だからこそ彼の背中を守り、ともに戦いたいのだ。

 陽仁はぎゅっと拳を握った。エレベーターが最上階にたどり着く。電子音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。

 目の前に大きい観音開きの扉があった。辺りはシンとしている。あまりにも静かで自分たち以外に誰もいないのではないかと思えてくる。


「さて、ここがエクセレントルームだ。君は入る資格があるけど、そこの二人にはない。ここで待っていてくれるかな?」


 弥勒院の言葉に陽仁は首を振る。


「いや、俺たちも入れてくれなけりゃ、力づくで入る」


 弥勒院が嘲笑する。


「これは……、まったく物騒なことを言うんだな。やれやれ、君はなぜこんな人たちと一緒にいるんだい?」


 晶良が当然だとでも言う声音で答える。


「彼らは僕の友達で仲間ですから」


 弥勒院が肩をすくめる。


「仕方ないな。それではどうぞ」


 弥勒院が観音開きの扉の取っ手を両手で持って、押し広げた。

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