第六章

第1話

 屋上からの壮大な展望は、遠く霞がかった町並みを蜃気楼のように見せている。昼間から温泉に入ろうというものは誰もいないらしく、陽仁と晶良以外人影はない。

 富士を左手に、河口湖を右手に望み、二人はいつもの格好に着替えて露天風呂の脇に佇んでいる。手にはボストンバッグはないが、必要なものはショルダーバッグに詰めてきた。


 陽仁は晶良がこんな場所で何をしようとしているのか、固唾を呑んで見守っている。晶良は陽仁にはっきりと瑪瑙の妖し世を使うと言った。けれど、なぜわざわざ屋上に出なければならなかったのだろうか。


「露天風呂で何をするんだ?」


「妖し世に行くのは室内じゃ無理なんです」


 陽仁はペントハウスのガラスを通り抜けて妖し世に入りこんだことを思い出す。


「でも無名は……」


「あれは提灯を持っていたからです。でも、今それはないわけですから、妖し世に行ける式神を使うしかないんです。ここは一階にお友達クラブの人がいて出られないようになっているし、無防備なのはここだけですから」


 たしかに一階に一度行ってみたが、入り口にはお友達クラブのリーダー格の男が見張りなのか椅子に座って警備していた。

 それで仕方なく屋上まで上がってきて、露天風呂を前にして富士を眺めているわけだ。


「で、その式神ってなんだ? 妖かしを呼ぶのか?」


 陽仁が聞くと、

「青嵐を呼びます。彼女は妖かしに近くて妖かしよりも強い神霊ですから」


「青嵐って妖かしなのか!?」


 初めて聞く情報に陽仁は驚いた。


「別に妖かしではないんですけど、妖し世にも行ける神霊――仙狐なんです。青嵐が神狐になろうとしてなれなくて傷ついたままでいたところを僕と出会ったって話しましたよね?」


「多分……」


「青嵐は詳しいことを話してくれませんけど、彼女なら妖し世から空間を移動してペントハウスまで連れていってくれると思います」


「思うって……、そういうこと今までやったことあるのか?」


 すると、晶良があっけらかんとして答える。


「ありません」


「ありませんってお前な……」


「青嵐」


 晶良は陽仁を無視して青嵐に呼びかけた。

 たちまち白檀の香りが辺りに満ちて青嵐の声がした。


「あい、主さま」


「僕たちを妖し世に連れていってくれないか」


 しばらく青嵐は黙っていたが、姿を現した。かさねが幾重もある十二単を着ているのに、暑い夏の日差しの下で汗一つかいてない凛とした清廉な女性だ。思案げに眉を寄せている。


「主さま、わらわはかの世の住人ではないゆえ、強い妖かしが来ても追い払うことしかできませぬぞ」


「ペントハウスまで送ってくれるだけでいいんだ」


「かの世は肌に合いませぬ」


 式神なのに、青嵐は頑なに晶良のお願いを拒んでいる。


「これきりでいいんだ。もう二度と頼まないから」


 珍しく青嵐が困り果てたような表情を浮かべ、それから仕方ないと頷いた。


「……ほんに、主さまは昔からおかわりのないわがままぶり」


「ごめんね、青嵐。ありがとう」


 晶良が済まなそうに言うと、青嵐が苦笑する。


「では、妾の背にしかとお掴まりあそばせ」


 その瞬間、目の前に大きな白狐がうずくまっていた。尾は四本、銀の艶を持つ白い毛だ。その美しい眼差しはたしかに青嵐のそれと同じだった。


「この姿になるのは今回限りですぞ」


 普通の狐の何十倍もある、巨大な白狐が早く背に乗れと催促する。

 二人は急いで彼女の広い背にまたがると長いふわりとした背の毛にしがみついた。

 熱気が吹き起こり陽仁たちを包み込み、風圧が青嵐の前方から迫ってくる。富士が見えていた風景がぐにゃりと歪み、渦を巻き始めて、その中心に暗い闇が見え始めた。


「参る――!」


 白狐は鈴の音のような声で吠えるとその渦のなかへ飛び込んだ。

 頬を切る冷たい風が吹き抜けて、夏とは思えない涼しさが周囲を取り囲んだ。まばゆいほどの日差しから薄暮の地を白狐の前足が踏んだ。

 薄暗がりの向こう側は闇に紛れてわからない。いつもならば青い燐光が辺りを照らすのだろうが、今は金の混じる白い光が陽仁たちを包み込んでいた。


「妖かしは妾の光のなかには入られませぬ。このまま参りまするぞ」


 そう言って、青嵐はしなやかな四肢で妖し世の地を蹴って駆け出した。ペントハウスに開けられた穴に向かって。





 多分それは五分位の短い体感時間で、陽仁が青嵐を聞いたのは妖し世に入ってすぐだと思った。けれど、陽仁が目を開けるとそこは妖し世と変わらないくらい暗く、ペントハウスのリビングが見えるガラスの前だった。空を仰ぐと茜が差し、間もなく日が暮れる時分だった。


はよう下りてたもれ」


 青嵐の声が聞こえた。

 陽仁は慌てて白い背から降り立った。二人が青嵐の背から降りると同時に青嵐はもとの十二単の姿に戻った。すっかり疲れ切ったような表情を浮かべ、たもとから扇子を取り出して、ピッと広げて口元を隠した。

 しゅいた目元だけ見せて、恨めしげに晶良を見やる。


「主さま、ご満足かえ?」


「青嵐、すねないでくれよ、本当にごめんね」


 青嵐は大きな白い耳をピッピッと動かすと、つんとそっぽを向いて姿を消した。

 陽仁はあんなふうに晶良に接する青嵐を初めて見た。


「なんで青嵐は怒ってるんだ」


 晶良が苦笑する。


「青嵐は、本来の姿になるのが嫌いなんです。今の姿になってとても長いから……」


 女性の心理はわからないけど、晶良には自分の見せたくない姿を見せてしまうくらいには心を許しているのだろう。


「多分傷付けられたときのことを思い出すからじゃないでしょうか……」


「傷つけられた?」


「青嵐は話してくれないけど、僕の前に姿を現した青嵐は、さっきの姿でケガレにまみれていたんです。憤りと悲しみが入り混じってて、今みたいにまともに僕と話もできなかったくらいでした。もし僕が青嵐を浄化しなかったら、彼女は祟り神になってたかもしれません。もっと悪ければ妖狐に堕ちたかも」


 よくわからないけれど、青嵐の窮地を助けたのが晶良で、青嵐はその窮地に立つことになった姿をいとわしく思っているということなのだろう。

 リビングには明かりが灯っていて、陽向の姿が見える。陽仁たちは玄関に周り鍵を開けて、帰ってきたことを告げにリビングへ向かった。


「ただいまー」


 陽向が陽仁と晶良がリビングに入ってきたのを見て驚いた。


「あれ!? 帰ってくるの明日じゃないの!?」


「予定変更したんだ」


 陽仁が素知らぬふりをしたのに、晶良は正直に口にした。


「なんだか危ないところだったんで帰ってきました」


「じゃあ、みほりんは!?」


「彼女はエクセレントクラスに昇格して、特別室へ行ってしまいました。僕たちではどうしようもなくて、柘榴姉さんに救援をお願いしようと思って帰ってきたんですよ」


 膝立ちになった陽向が落ち込んだ声音で続ける。


「じゃあ、みほりんはどうなっちゃうの……?」


「そのために早く、お友達クラブというのがなんなのか調べる必要があるんです」


 陽仁は圏外になっていたスマホの電波がもとに戻っているのを確かめた。


「光輝さんに電話できる」


 晶良と陽向が見守るなか、光輝に電話をかけた。

 何度も呼び出し音が鳴るが、彼はとうとう出なかった。


「光輝さんがどうかしたの?」


 陽向が不安そうに尋ねた。


「釈の合宿に行ってから行方がわからなくなったんです」


 晶良が代わりに答えた。

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