第二章

第1話(改)

 夜中の三時に起きて寝不足の目を擦りつつ、陽仁は台所に立った。揚げ物を作り、ニボシでごまめを作り細かく刻んでおにぎり混ぜ込む。鮭もほぐして同じくおにぎりに投入。薄く塩で味付けた茹で野菜にソーセージの細切りを炒めて野菜と和える。レンコンにとろろ芋を混ぜ込んだ鶏肉の挟み焼きを作り、弁当箱三つに詰め込んでいく。弁当箱はとりあえず曲げわっぱ弁当箱にしてみる。これは自然に優しくごみ捨て出来る。


 所要時間約四十分。手早さはベテラン主婦並である。それもそのはず、彼は中学生のころから家族のために料理をしている。

 ついでなので、陽向の朝ごはんを作っておいてやる。


「俺はなんて優しい兄なんだ……」


 陽仁は自分で自分を褒めながら頷き、晶良を起こしにいった。

 いつもならギリギリまで起きない晶良が珍しく電気もつけず、畳敷きの上に正座して、じっとガラス窓を見つめている。わずかにまだともっている外の明かりが差し込んできて、部屋のなかは暗い紺色に沈んでいる。


「おい、早いな」


「電気つけようか」


「いいえ、このままで」


 晶良の猫っ毛には寝癖が残っていて、顔洗うのもそこそこに準備をしたようだ。


「朝ごはんできてるぞ、食うか?」


 晶良がやっと陽仁の方を向いた。


「おはようございます」


 いつもならご飯と聞くと笑顔になる晶良が、見るからに意気消沈している。


「どうした? 元気ないな」


「もうすぐ四時ですね……。ご飯を食べてる暇なんてないかもしれないです」


 陽仁は弁当をリュックに詰め込む。


「迎えは四時半なんだろ? お前ならものの十分で飯五合は食うじゃないか」


 晶良がはぁっとため息をついた。


「多分迎えに来るものに時間なんて関係ないんです」


「……早めに来るってことか?」


「まぁ、そうですね」


 腑に落ちなくて、陽仁は晶良に靴を履いて待ってたらどうか勧めてみた。


「靴……そう言えばそうですね。靴を履いてれば、少しいいかも」


 というわけで、いつも履くオックスフォード型の靴を持ってきてやる。


「山道なんで、陽仁さんが履いてるスニーカーのがいいです」


 珍しく、晶良が靴に注文を出した。履くものも着るものにも無頓着なくせに珍しい。


「靴、履いてたほうがいいですよ。荷物も」


 気付けば晶良はさっさとウェストバッグを腰から下げている。

 靴の裏はきれいに洗ってあるので、座敷に持ち込んで履いていても問題ないが……と思いつつ、陽仁も靴を持ってきて履き直した。


 そろそろ四時になる。部屋は相変わらず電気をつけずに暗い。

 陽仁も所在なげに晶良の隣にあぐらをかいて、窓の外を眺めた。


 いつもなら、すぐにテレビをつけて朝のワイドショーを見るようなやつが、物音立てずに固唾を呑んで窓を見ているのは不思議だ。

 リビングの前面部分、左側が巨大なガラスになっている。まるで水族館で見るような巨大アクリル水槽だ。ただしガラスの向こう側はヘリポートのあるプール付きの庭なのだが。


 一度、晶良が柘榴の応答に遅れたときに、ガラスを銃で撃って叩き割り、なかに入ってきて以来、晶良は彼女が来ると言った時間にはちゃんと待機しているし、しかもガラスを上下スライド式に改造したくらいだ。


 話だけ聞いていると、「あるわけないだろ」と晶良の胸をパシンと突っ込みたくなる。

 間もなく四時になる。徐々に空が烏羽からすば色から紺色に変わり始めたころ――。


 突然、空気が変わった。


 なんというか、ドヨンとして急に湿気が増えたような感じだ。霧雨に降られて、細かな水滴が肌に当たる触感。蒸し暑くてじっとりと汗ばんできたときの感覚。


 陽仁は気持ち悪くてしきりに肌を擦るが、なぜか皮膚はさらりとして不快感を覚えること自体不思議で仕方ない。

 ほのかに、水の匂いが漂う。淀んだ池や沼の臭いではない。澄んだ清水の香りだ。滝の側に立ったような清々しさと水っぽい空気に違和感を覚えて、陽仁は隣に座る晶良を見やった。


 晶良が口を引き結んで、真面目な目つきでじっと前方を向いたまま微動だにしない。それにならって陽仁も前方を見据える。

 ぼんやりととした紺色の視界にぽつんと明かりが灯った。最初はそれが街の明かりだと思った。けれど、それは段々と大きくなり近づいてきていると悟った。


 その明かりが提灯ちょうちんのようなものから発せられていると気付いたとき、晶良が口を開いた。


「来ました」


 そう言って立ち上がって、壇から下りた。陽仁も慌てて壇から降りる。

 壇から下りて、陽仁は驚愕する。足元が濡れていてぬちゃっと泥を踏んだように感じたのだ。晶良がピチャピチャと音を立ててガラスに向かって歩いて行く。


 目の前に灯っている提灯が、部屋に入ってきた。

 微かに川の流れる音がする。さやさやという音は、晶良の足元から聞こえる。

 提灯を持っている人物は見えない。薄っすらと人影は浮かんでいるが、顔や姿までは見通すことができなかった。

 紺色のほの暗い影が言葉を発した。


「晶良殿、お迎えにあがりました」


 提灯のぬしは男だった。静かで低い声だ。声だけ聞いていると晶良と同じ年くらいに思える。


「陽仁さん、川を渡って」


 晶良が振り向いて声をかけてきた。

 陽仁は、(川?)と疑問を抱きながら、晶良に向かって進んだ。

 ふいに足元がひんやりし、靴底がピチャッと音を立てた。立ち止まりそうになるとそのたびに晶良から声をかけられる。


「立ち止まらないですぐにこっちに来てください」


「急かすなよ」


 陽仁の足がやっとジャリッとする何かを踏んだ。どう考えても部屋のなかではない。気付けば回りは薄暗い闇に包まれている。まるで夜明けと夜の狭間に立っているようだ。空気も水気を含んだものから涼しいとも暑いとも言えない温感になった。汗も自然と引いていく。


 提灯の明かりがやっとはっきりと辺りを照らし出した。

 端正でいて感情のない表情をした背の高い礼装の男と二人の姿が、提灯の光で紺色のほの暗い闇から浮かび上がる。

 男が慇懃いんぎんに尋ねる。


「そちらはお連れさまでしょうか」


「あ、諏訪陽仁です」


 陽仁が握手しようと手を差し出すと、男は不思議そうにじっとその手を見てから、空いているほうの手を出した。


 その手を見て陽仁はぎょっとする。指に節がある。いや、人間誰にでも節というものはあるが、男のそれはまるで虫の関節のように球形に繋がっている。


 それでも差し出した手を引っ込めるわけにもいかなくて、気持ち悪いと思いながら男と握手をした。その手は得体が知れないほど冷たかった。


「わたしは無名むみょうと申します」


「ど、どうも……」


 陽仁はすぐに手を引っ込めて無名を窺ったが、その表情はやっぱり美しいけれど人間味のない面立ちだった。


(人形みたいだ……)


 晶良が緊張した面持ちで、辺りを見回している。


「どうしたんだ?」


 陽仁も少し気味悪く感じ、視線をさまよわせながら尋ねる。


「僕、ここが苦手なんです」


「ここ?」


「狭間ですよ。さっき川を渡りましたよね?」


「あれ、川なのか? でも部屋に川なんかないぞ」


 意味が飲み込めずに言い返した。

 無名は二人を急かすわけでもなくじっと佇んでいる。


「あの空間はもう部屋のなかなんかじゃなくて、あやし世とうつし世の狭間の境界線に立ってたんです」


 すぐには晶良の言葉が理解出来ず、陽仁は訝しげに眉根を寄せる。そこに三人とは別の物音がした。


「ああ、うま。ああ、うまや」


 足元から聞こえてくる声に、陽仁は目を向けた。

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