第5話 サイキック・ダンス


    1


 天日由利香の「初仕事」は、本部がほぼ期待した通りの成果をおさめた。明津も、契約通りの命がけのギャラと、休息の時間を手に入れた。

 当分、あの高倉の義眼のまなざしも、マッコールのにやけ面も、サディストの受付嬢たちの美貌も見る気になれない。それらを明津は意識のかなたへ追いやる。天日由利香はもちろんのこと、物騒な超能力で、強盗やら暗殺やら爆破やら、テロをやらかす連中など、きっぱりごめんこうむりたい。

 彼は、大きな仕事の後には、いつもそうするように、長い休暇をもぎとって街に繰り出した。午後の日差しがだいぶ傾いてきた頃に起き出して、女遊びに精を出す。

 しばらく、遊んで暮らせるだけの金はある。死神と背中合わせの仕事で、たまったどす黒い澱(おり)を掃除し、血と硝煙の匂いを忘れる日々が必要だ。

 今日の女は、切れ長の眼がすずやかで、しっとりした肌とピンクルージュの唇が、なかなか濃いフェロモンを感じさせる女子大生だ。彼女がアルバイトしているクラブで知り合った。短いスカートから伸びる脚も、形よくのびて肉感的だ。ウェストをひきよせて確かめる体形も悪くない。

 彼は、女に腕をからませたまま、繁華街の歩道を、のんびり歩いていた。女に、洒落たエスニック料理の店で、食事とワインをふるまい、路上のパーキングメーターに駐車している車に乗るところだ。

 女は、街に次々に灯りはじめたネオンを見る明津に、甘ったるい声でたずねた。

「ねえ、さっきから何かんがえてるの? 難しい顔してるのね」

「そんなことはないさ」

 女は、彼の腕にすがりつき、暑苦しいほど、ぴたっと身をすりよせる。張り出した若い乳房を、さりげなく押しつける。その柔媚な感触は十分に官能的だ。ベッドの上で荒っぽく攻めれば攻めるほど、歓喜の声をあげるタイプのはずだ。

 鼻孔を、若い女の体温でふくらんだ蠱惑的な香水が、欲情を誘う目に見えない雲となってくすぐる。手入れの行き届いた髪のかかった、ほっそりした肩に腕をまわす。露出度の大きな服の上から、ブラジャーの中に指をのばし、マシュマロのような乳房を、軽く愛撫してもてあそぶ。

「あン、やだ、もぉ」

 口ではそういうが、特にいやそうでもない。くすっぐったがって、笑いながら肩をすぼめて逃げるふりをする。

 明津は、濃いオレンジ色の丸いピアスが光る小さな白い耳たぶに顔をよせた。耳の穴に、息をふきかけてささやく。

「なにが、いやなんだ?」

 ワインが効いている。女の頬がうっすらと紅潮して、目がうるんでくる。

「あ、こんなとこで……」

 言葉に甘い吐息がまじって、足元がおぼつかなくなってくる。スカートの奥の方も、すっかり蜜を帯びて甘くなっているだろう。思った通りの反応だった。

「そうだな。歩きながらじゃ、集中できんよな」

 車の鍵をあけ、乗りこもうとしたとき、明津はお楽しみの雰囲気がふっとぶ、危険な違和感を覚えた。

背後に異様で不吉な「力」の放射の気配を感じたからだ。ふつうの人間には感じ取れない気配だ。五感外感覚の持ち主だけが放射し、また感知できる「力」の場の接近だ。しかも、相当に強力な力の持ち主だった。明津がこれまで出会ったどのパターンとも違う。

ただ、奇妙なところがあった。その「力」のありようには、不統一な意識の乱れと、焦点の定まらない濁りが溢れかえっているのだ。たいていの能力者が持つ、明確な目的意識と集中力に欠けている。正常な精神統一がもたらす鋭利な意識の流れが、切れ切れにしか感じられない。

「ちょっと待ってな」

明津は真顔になり、べったりと身を寄せる女を剥がすように押しやる。

「なに? どうしたの?」

不服そうに唇をとがらす女を無視して、振り返ったとき、そこに赤信号で車列のつまった車道を背景に、一人の大柄な白人の男が、今にも倒れそうによろめき歩いてきた。

その白人は、三十歳代のなかばのように見えたが、正確には、歩くというより、一歩ごとに倒れかけているのをこらえて、危うく立ち続ける努力をしている最中という感じだった。汚れてくたびれた地味な色のスーツを着ている。しゃきっとしていれば、体格のよい白人だけあって、それなりに格好もつく男だろう。だが、いまやネクタイも襟首をしめる役割を放棄してほどけかけ、シャツもボタンもベルトも、何もかもゆるんで、しわだらけでだらしなかった。

白人の髪は、明るい茶褐色でぼさぼさだった。顔の形は頑健な縦長の四角形で、がっちりした顎の上に、色の薄い広い唇が呆けたように開き、顔の真ん中に大きな鼻が突き出ている。髪と同じ色の薄い眉の下には、血走って焦点の合わない眼が、灰色がかった茶色の瞳を虚空に向けている。青白いくせに頬だけがピンク色になっている。どこか垢抜けない田舎風な顔立ちだった。

そんなありさまで、ふらつきよろめいてはいるが、みかけだけの白人ではない。明津のような五感外能力者だけが感じとれる同類の匂いを発している。彼の感覚からすれば、あたりをすっかり染めてしまうほどの勢いで放射されている。

通りかかる歩行者たちが、遠巻きにするように、そそくさと行き過ぎる。どの通行人の眼にも、異様なものを見る恐怖が浮かんでいた。

普通の人間でも、何かただならぬ高圧電流のようなものを、この青ざめたふらつく白人に感じるのだろう。理由のわからない恐れや不安を相当に強く感じているのがわかる。

明津は、自分をターゲットにした刺客かと、一瞬、疑った。だが、これほど具合が悪そうで、しかも無目的で混乱した暗殺者がいるだろうか。相手の思考は切れ切れで混濁しており、支離滅裂といってよかった。

「ねぇ、そんな酔っぱらい、ほっときなさいよ!」

後ろから呼ぶ女の恐れといらだちのまじった声に、明津ははっとした。

そうか、こいつは酔っているのだ。そうとわかれば、状況は把握できる。

通常、アルコールを飲んだ状態では、超常能力を十分に発揮できない。そのため、明津たちが泥酔する事はない。だが、この白人の状態を見る限り、その常識は完全に裏切られている。大変な酔っ払い方だ。歩行に支障をきたすほどの酩酊ぶりで、道端に寝転んで大いびきをかきださないのが不思議だった。

「ちょっとぉ、何よ。なんなの、そんなのほっとけば!」

 後ろから、不平を鳴らす女に、明津は頬に苦く薄い笑いを刻みながらふりかえった。

「そうもいかなくなった。知り合いなんでな」

 そういいながら、不吉な予感が胸に湧きおこるのを止められない。いまわしいほど濃厚な禍々しさだった。意識の及ぶ範囲が狭まり、動悸が激しくなる。予感そのものの重圧に締めつけられる。このままでは、女が巻き添えになるのは目に見えていた。冷たく突き放すのが最善だった。

「悪いな、きょうは予定変更だ。また今度な」

 ななめにふりかえり、気がなさそうに手を振ると、女がむっとして立ちどまって絶句した。

「え、なに?・・・」

 美しく若い女子大生は、怒っても膨れてもかわいいが、もはやかまっていられる事態ではない。

「・・・なによ。サイテー、あたし、帰るから」

その方が身のためだと思い、すげなく背を向けようとした瞬間、女がかすれた悲鳴をあげた。

女の叫びとともに、はっと顔を前方に振り向ける。

信号が青になって車が流れる眼の前の十字路から、一台の黒い常用車が、うなりをあげて車道から飛び出し迫ってきた。歩道上の白人めがけてつっこんでくる。ボンネットに、ヨーロッパのメーカーのエンブレムが不気味に輝く。

陽の落ちた宵のはじまりをバックに、ネオンと街灯の光の連なりが、漆黒のボディーとフロントガラスの上を、渓流のしぶきのようにきらめき走る。運転席にサングラスをかけた男がいるのを瞬時に明津は見た。東洋人のようだ。

明津は、その車に凶悪で残忍な意思の力を感じて戦慄した。熾烈な殺意の思念だ。ぎらつく刀剣の鋭利な刃のイメージをともない発散されている。

殺害の思念は、ドライバーから稲妻のように放出され、眼前の白人に向かっている。自分が命を狙われるのは慣れていたが、こんな形で酔っぱらいが殺害の対象になるなど予想もしなかった。

念動能力の持ち主にとって、強い指向性を持った意志は、ただちに現実化する力だ。普通の人間なら、殺したいと願っただけでは何も起こらない。しかし、念動能力者にとって思念は現実だ。強く念じることは、即座に物理的な現象を引き起こす。

あまりにも突然のことで、明津も対処のしようがない。突っ込んだ車の鼻づらをそらすため、念動を発しようとするが間に合わない。

酔っ払いが轢かれると思った瞬間、信じられないことが起こった。その直前で、車の鼻面が、眼に見えない力でひっぱたかれたように、いきなり右側にスリップしたのだ。

白人が半身を起し、車に大きく広げた右の掌を突き出し、血走った眼で歯を食いしばっていた。

その隙を逃さず、明津は念動力で、車首をさらに右にはらった。ハンドル操作のミスに見せかけ、力を発動させたのだ。彼自身と背後の女まで轢かれかねなかったからだ。

明津が放った念動力は、車の鼻先をねじ曲げてタイヤをすべらせる。黒い乗用車が、スリップ音も高く右まわりに一回転する。

舗道と車道を分かつブロンズの飾り街燈のポールに、車のフェンダーとドアが派手にぶつかって、アルミ箔のようにひしゃげた。さらに、そのまま数メートルも、金属の引き裂かれるいやな音とともに、ボディーの横側を派手にこすりつけて止まった。

「逃げろ!」

 明津は、恐怖とショックに蒼白となった女にふりかえって叫ぶ。

「行け! 死にたいのか!」

 女の顔は衝撃のあまり、眼がおちくぼんだ老婆のようになっていた。まばたきを忘れて大きく見開いた眼と、悲鳴をあげかけ凍った唇をわななかせながら、明津に背を向けて逃げる。ヒールの高い靴が脱げたのもかまわず、転ぶように駆け去る。

そのとき、酔っぱらい白人が、さらに意外な動きを見せた。酩酊を振り払うように素早く立ち上がり、両手を勢いよく前につきだしたのだ。

そいつは、その瞬間だけ酔っぱらいをやめた。

両足と背筋がしゃんと伸びていた。横顔からだらしない酔眼が消え去り、しっかりと目をみはっていた。唇はひきしまり、長い指を広げたその手は、常人には見えない速さで、何かをあやつるように閃いた。明津のような念動能力者が、急速に意識集中し力を行使するスタイルだった。

 とたんに、ひしゃげて横っ腹が避けた外車が、ずるずるとバックしはじめる。車道に後ろ半分を突き出してとまった。後続車の列が、急ハンドルでそれを回避しながら、クラクションの悲鳴をあげて次々に通りすぎる。

何が起こるのかと思った瞬間、破損した車体が、音もなくなめらかに前進した。車は、明津が横腹をたたきつけた飾り街燈のポールに、頭からまっすぐつっこんだ。音なしのなめらかな直撃は、寺の吊り鐘をたたく撞木(しゅもく)が、鐘に向かって突き当てられる様にそっくりだった。

ドンッという不気味なほど鈍く重い衝撃音とともに、グリルごとボンネットが勢いよくつぶれる。フロントガラスに真っ白なひびがひろがり、安全ガラスの破片がくずれ飛び散った。

 ねじれて半開きになったエンジンフードから、ラジエーターが熱く白い湯気を猛然と噴く。

 乗用車に体当たりされた街燈のポールは、根元からあっけなく折れ、道路側にななめにかしいだ。対岸の舗道の街燈に、おじぎをして固まる。同時に、白人ががくりと膝をつき、うつぶせに倒れこむ。


 2


明津は、ただの酔っ払いではなかった白人男に驚愕し、一瞬、立ちすくむ。

横腹とフロントを立て続けにクラッシュさせた車は、無残なスクラップと化していた。片側をパワーショベルで掴まれ潰されたあげく放り出されたようだ。

フェンダーからボディの横腹まで、派手な引き裂き傷が重機の鉤爪のように走り、ひしゃげた右ドアは巨人のパンチを食らったようにへこんでいる。助手席から出るのは、どう見ても不可能だった。

「こんな街中で、派手に突っ込んできやがって」

明津は、黒い乗用車のドライバーに歯噛みして罵った。倒れた白人のそばに駆けよる。

助けおこすと、ひどい酒(ジン)の匂いだった。泥酔した者の体臭が、むっと鼻をつく。ウォッカもまざっているようだ。なんにせよ、度数の強い蒸留酒をしこたま、きこしめしてきたのだ。

男は死んだように薄目を開けていた。その瞳孔は何も映していない。

「だいじょうぶか」

 男は震える肩を上げ、明津を払うように、腕を振りまわした。

「・・・ニチヴォー」

かすれてひきつった声だが、ロシア語だった。「ニチヴォー」は「なんでもない」という意味だ。なんでもないから、ほっといてくれと、つっぱねているのだ。強情な酔っ払いだ。明津は眉をしかめた。

 ひしゃげた外車の運転席のドアが、ぎしぎしいって内側から強い力で開かれようとしていた。エアバッグが開いているので、中の様子がわからない。

 ドアを開く音と、鋭い敵意の思念が同時にやってきた。明津は、白人を両腕にかかえながら、瞬時に精神集中し、念動で運転手にダメージを与える態勢をとる。

 運転手は、ドアを蹴飛ばして、乗り上げた舗道に這い出した。髪に白いものがまじりはじめた中年の痩せた東洋人の男だ。サングラスをかけているが、軽いケガをしている。

 その中年男は、小柄だが姿勢がよかった。敵意をみなぎらせている。少なくとも、向こうは明津を、予期せぬ余計な邪魔者とみなしている。男は、あちこちが痛むのか、腕や足をおさえていた。

 明津とサングラスの男は、舗道の上でじっとにらみあった。

明津が、唇の片端をゆがめてつぶやく。

「ひどい事故だったな。だが、打撲ですんで、よかったじゃないか」

「その男をわたせ」

敵意むき出しの男は、正確な日本語で命じた。明津の皮肉を歯牙にもかけない。

「もう一度いう。その男はわれわれの仲間だ。渡してもらおう」

「仲間が、命を狙うってのか」

「おまえには関係ない」

「ひどく酔ってやがるぜ。シラフにしてから返すってのはどうだ? もっとも本人が帰りたがればだが」

「だまってわたせ。ただとはいわん」

 そういって男は、スーツの内側に手をさし入れ、分厚い札入れを明津の前の路上に放り出した。

 まだ相手は、明津がなにものかわかっていないらしい。その財布と男のサングラスを交互に見つめてから、明津は鼻で笑った。

「警察の手を借りずに解決したいというわけか」

 明津は、気絶した白人を静かに横たえ、財布をひろいあげた。中身は新札の高額紙幣がぎっしりつまっている。

「カネなら、困ってない。示談もおことわりだ」

無造作に財布を男の足元に投げ返す。男は、それを拾いもせず、明津の顔を、首を少しかしげるように見つめた。ただの通りすがりではないかもしれないと、疑いはじめているのだ。

これ以上、にらみあっている暇はなかった。警察や救急車が来ないうちに、この場を脱出しなければならない。明津は、片方の眉をしかめて、投げ返した路上の財布に意識を集中した。それを気取られないようにしながら、平然と告げる。

「だいたい、あんたが何者かわからん。信用しろってのは無理だ」

「説明の必要はない」

男は明津から、倒れた白人に視線を移した。サングラスごしに、突き刺すように強固で鋭い思念が感じられる。

明津は、唇をちらと舌先でなめた。

「おい、テレパシーでたたき起こそうってのか?」

「なに?」

男がぎょっとして、わずかに身を引いた。明津は、その隙を逃さなかった。路上の財布を念動で空中に飛ばした。持ち主の顔に、横なぐりにたたきつける。

横っつらを分厚い新札入りの財布に張り飛ばされ、男は片腕で顔をかばってひるんだ。驚愕の声とともに明津を指さす。

「おまえは、なんだ!」

明津が同類であることに気付いたようだ。

「こっちも説明の必要がない」

明津は、そう唇をゆがめるなり、路上に散乱してネオンの光をまたたかせるウィンドウやフェンダーミラーの破片に意識を瞬間的に集中させる。砕けたフロントライトやグリルの断片といっしょに浮き上がらせ、相手の顔めがけて撃ち込んだ。

よける暇もなく、男の顔に鋭い破片の群れが、スズメバチのように殺到した。それはあっさりとサングラスを突き破った。男は、悲鳴を上げ、両手で顔を覆って身をよじった。サングラスの破片が目を傷つけたかもしれない。戦闘不能になればしめたものだ。

 明津は白人を路上に残し、背中を丸めた男に駆け寄り、胸倉をつかんで、横面を拳で殴り飛ばそうとした。みぞおちを膝で蹴りあげ、肘で後頭部を打ちのめし、路面にはいつくばらせたかった。

だが、男は顔面を傷つけられながらも、明津の接近をゆるさなかった。目が見えないはずなのに、明津の攻撃を巧みにかわす。ひるんだのは一瞬のことで、破れたサングラスを捨てた。

男は「出ろ!」とつぶれた助手席に、血の流れる顔を向けて叫ぶ。誰もいないと思っていた助手席のひしゃげたドアが、不気味な音をたてて急に開いた。それは車体から、ばらりと外れた。黒い傷だらけのドアが、撃たれて死んだ者のように、傾きながら道路に倒れる。

だが、誰も現れなかった。

不審に思った瞬間、背後に人の気配が生じた。目から血を涙のように流す男は、苦痛をこらえながら唸った。

「目標をつかまえろ! この邪魔者は、私がかたづける」

 明津の目はすっかり据わって、苦々しい敵意に瞼を細めた。

「失礼なやつだ。人をゴミあつかいか」

背後に気を取られた次の瞬間、新手がいきなり明津の目の前にいた。黒いスーツをスマートに着こなす痩せた長髪の若者だった。

切り取って貼り付けたように、瞬時に眼前に現れた。

そいつは、ただ出現しただけではなかった。

明津の左の胸板の下、心臓の真上に拳銃の銃口を直接につきつけていた。服ごしに固い金属の銃身の先が、容赦なく食い込んでいる。

明津は心臓が止まりそうになった。全身が恐怖と緊張に凍りつき、舌が口の中で縮みあがる。若者は、瞬間移動能力者だった。

瞬間移動のやっかいなところは、気づいたときには、すっかり相手のペースで事態ができあがっているということだ。何の準備も防御もできないうちに、いきなり現れて先手を打たれてしまう。

この至近距離では、撃たれても銃声はさほどしないはずだ。枕やクッションに押しつけて発射するのと同じだ。違うのは、防音用に使うのがクッションではなく、明津の肉体そのものだという点だ。

 若い男は、とがった顎の青白いほほをしていた。眼光は燃えるように鋭く、命令さえあれば本気で明津を殺すつもりだ。

「なにをしている! そんなやつはほっておけ」

 顔をおさえた中年男が、荒っぽく叫んだ。

 若い男は、唇を嘲笑にゆがめ、声なく舌うちして明津の目の前から一瞬にしてかき消えた。

 次の瞬間には、背後の白人男のそばにかがみこんで抱き起していた。

 しまったと思ったが、間に合わない。目から血を流す中年男が、明津の前にすばやく走りよった。明津の喉首を、蛇の鎌首さながらの速さでつかむ。

「邪魔しおって!」

 その叫びとともに、明津の全身に高圧電流さながらの激痛の大波が走った。全身の神経をガラスの破片で直接にひっかかれ、しごきあげられているような耐えがたい苦痛が、1秒間に何十回も脈動して全身を往復する。手足が勝手に痙攣してばたつくのがわかる。絶叫したいが、恐ろしい握力にのどをきつく締めつけられて声が出せない。

 人体を麻痺させる衝撃波を出す能力者だ。その手の人種がいるのは聞いてはいたが、明津にとっては初めて経験する相手だった。

 殺意を込めた衝撃波だ。意識がもうろうとして気を失いかける。激痛に翻弄され、勝手に痙攣して暴れまくる手足と頭をどうすることもできない。舌も眼球も激しいしびれと振動で顔面からはずれ落ち、吹っ飛びそうだった。

 視界がぶれまくり、真っ暗になる。何も見えない。脳みそをさえ、苦痛のバイブレーションが躍らせている。頭蓋骨の中で、振られたサイコロのように、転がっているにちがいない。

意識がブラックアウトする寸前、衝撃波がいきなりやんだ。ふいに、何か大きなものが眼前をかすめ飛んできて、鈍いこもった打撃音とうめき声がクラッシュした車のあたりから聞こえてきた。

明津は、死に物狂いで目をあけ、衝撃としびれの余韻を払おうと頭を何度もふった。よろけながら、何が起こったのかを確かめる。

視野が急にはっきりしてきた。半壊した車の上に、明津を襲った二人の男が折り重なって、仰向けに倒れていた。

ねじれた屋根が二人の落下の衝撃で、深皿のようにさらにめくれあがっているところを見ると、物凄い力で叩きつけられたらしい。何百メートルも上空から落下してきたとしか思えなかった。

二人同時に叩きつけられ、頭は割れたフロントガラスの向こう、運転席に突っ込んでいた。二人とも、擱座した車の上で、轢き殺されたようにぴくりとも動かない。

そのチャンスを明津は逃さなかった。

後ろを振り返ると、あの酔っぱらい白人が、うつぶせのまま右腕をこちらに伸ばして手のひらを広げていた。顔から血を噴くような決死の形相だ。その酔眼さめやらない中に、奇妙に力強く射す眼光が異様だった。

そいつの充血した灰褐色の瞳と明津の目が合った。意外にもその蒼白な唇に「どうだ?」といいたげな、泣き顔にも見えるかすかな笑みを刻む。そして白人は顔面と手のひらを、力尽きたようにバタリと路面に落として動かなくなった。

明津はただちに行動を起こした。白人に駆けよって助け起こす。肩を貸して歩きだす。とにかく自分の車に乗せてこの場を去らねばならない。

知っている限りのロシア語で励ますが、白人は完全に意識を失っていた。車までひきずるのは大変な労力を要した。背後に救急車と消防車のサイレン音が聞こえてくる頃には、さっきの女子大生の残り香が漂う助手席に、酒の匂いと、むっとする体臭の塊のような白人が、ぐったりと横たわっていた。

車を急発進させ、明津は、すばやくどの隠れ家がふさわしいか計算しながら、現場を離れる。あの黒服の男たちやその仲間が、追手となることを思えば、マンションや人家の密集地は避けねばならない。

車を飛ばしながら、バックミラーに視線を走らせ、尾行がないかチェックする。

車には、尾行や追跡をするとき、されたとき双方のために、停車しなくてもすむよう非常用の水や食料や薬品、携帯トイレなどが用意されている。

ダッシュボードの下に装備されたミネラルウォーターのペットボトルと酔いざましの薬を、のけぞって目覚めない白人の両膝の上にほおり投げる。



夜の都会の込み合う幹線を避け、すいていそうな道を選び、できるだけ都心から離れるルートを探る。

白人も黒服の男たちも、まだ正体がわからないので、特破本部への報告はあとまわしにする。もちろん、明津の直感は、これまで血みどろの戦いをまじえてきた「敵」の匂いが濃いと告げている。

この白人は、なんらかの理由で、明津たちの「敵」と同じような連中から追われている。酔っ払いであろうとなかろうと、強力な念動の能力者であるなら、放置することはできない。

ハンドルを握りながら、全身を「敵」の索敵と追跡の思念を感知するセンサーにして、都区部を抜けて東へ向かうコースをひた走る。

瞬間移動能力者の使い手を送りこむ相手だ。どこで待ち伏せしているかわからない。警戒をわずかでもゆるめれば、やられてしまう。これまで、幾人もの能力者が、そうして任務の途中に命を落としている。

まずいことに、江戸川を渡って千葉県に入ってから、急に体調が悪化しはじめた。

 全身が熱っぽくなり、動悸がはじまって、呼吸が浅く早くなってゆく。やたらと口の中が乾きだし、からだじゅうの筋肉が、不随意につりそうにひきつる。

寒気とともに、どんどん体温があがっていくのがわかる。気持の悪い冷や汗が、顔といわず頭皮といわず流れ、背中も脇の下も悪疫に感染したように濡れていく。

これは、風邪や何かの病気ではない。思い当たるのは、さっきの衝撃波の後遺症だ。じわじわと肉体を阻害する思念の余波が現れはじめる。

 明津は、焦って眉の上にたまった汗を片手でぬぐう。ハンドルもてのひらから出る汗でぬるぬるしている。

急いで隠れ家に向かわねばならない。このままでは意識を失いかねない。どこかで路上駐車して一休みというわけにはいかない。

 酔っ払いと病人のとりあわせの逃亡ドライブとは、とんだことになったものだ。明津は、脂汗にまみれながら苦笑いに唇をゆがめた。自分もペットボトルをとりだし、なんとか水をふくむ。車は船橋市を過ぎて佐倉に向かう。国道にカーブや上りが多くなる。下総台地に入ったのだ。

 筋肉が 煮崩れていくかのような、ひどい消耗感と虚脱感が、体の内側から自分自身をどろどろにしていくように、侵蝕してくる。意識が、ますます朦朧としてくる。

 酔っ払い白人が、必死の念動で黒服の男の衝撃波を断ち切ってくれたのはいいが、中途半端な状態で麻痺しかけたまま引き離されたためだろう。後から打撃が追いかけて現れているのだ。

 明津は、死に物狂いでハンドルを操り続けた。とめどなく流れる脂汗にわずらわされながら、かすむ目を必死にあけ続け、市街地をはずれて山林が闇の底に沈む地帯に入った。

成田空港に近い丘陵の中腹にある二階建ての一軒家に、やっとたどりついた。

 宅地開発とゴルフ場建設から取り残された、山林と田園がそっくり残っている地帯だ。家屋も土地も、特破本部が隠れ蓑にしている企業のひとつ、小さな不動産会社の管理下にある。

 あたりに人家はほとんどない。さびしい青白い街灯が、丘陵の裾を曲がりくねってへばりつく農道兼用の舗装道を、ぽつぽつと照らすだけだ。隠れ家にはもってこいの場所だった。

 ひどいめまいとだるさに襲われながら、明津はやっと車から降りた。助手席の白人が、意識を取り戻しかけている。

「起きろ、こっちへこい!」

 ロシア語でいう気力もない。日本語でののしりながら、白人を無理やりひきずりだし、起き上がらせる。意識が混濁しかけていて、耳に届く自分の声が他人のもののようだ。

 明津は、気が狂いそうな消耗感に堪え、家に向かう。いくらか、さっきよりましだが、視界がぐらぐらしてかすみ、ものがぶれて見える。胃がむかむかして重い吐き気がする。

ふつうの民家にカムフラージュした家屋の玄関は、みせかけの鍵とは別に、特破本部のメンバーでなければわからない場所に電子ロックが設けられている。それに、震える指でパスワードを打ち込み、氏名を言って声紋照合して開け、明りもつけずに中に倒れこむ。

玄関の扉が閉まって、自動的にロックがかかった音を聞いた直後、明津はそのまま意識を失った。

再び意識を取り戻したときも、まだ暗い玄関に倒れたままだった。かたわらで白人があおむけに横たわって、いびきをかいている。

はっとして腕時計を見ると、さほど経過していない。せいぜい十分くらいだろう。体はだいぶ楽になっている。消耗感も虚脱感も薄らぎ、吐き気もおさまっていた。

かなりのだるさを感じるが、集中力が妨げられるほどではない。明津は頭を振って、シューズボックスに両手をつき、体重を支えながら、ゆっくり慎重に起き上がった。目の下になった白人は、ぐったりとした様子で眠りこけている。よほど疲労したのだろう。だが、この呑気そうに見える眠りは驚異的だった。ひどい泥酔状態という極度の悪条件下で、あんな強烈な念動を使えば、ふつうはいびきをかいて眠りこむなどという結果で終わるわけがない。昏睡状態に陥り、そのまま死んでいてもおかしくないのだ。

脳出血や卒中のようないびきではないのを確かめ、明津は白人の両脇を持ち上げてひきずり、居間まで運んだ。キッチンとは別の十畳間ほどの大きさで、普通の民家のリヴィングと同じ調度品がそろっている。ちがうのは、表向きの外装の奥の要所に、警報装置やら敵襲を防止する物騒な仕掛けがつめこまれている点だ。外見からはまったくわからない。

白人をソファに横たえ、酒で汚れたシャツの襟をゆるめて楽にしてやる。その脂じみた酒焼けした肌はひどく荒れており、長い間、不摂生をしているのが見てとれる。白人は、薄目をあけてはいるが、明津を見ているかどうかはわからない。酔いどれの視線が、現実を見ているとも思えなかった。

明津は、キッチンへ行く。水道も電気も普通に使える。冷蔵庫の中にも、食器棚にも、一通りの食糧や飲料が入っている。賞味期限が切れているものはない。特破本部の者が定期的に点検に来ている証拠だ。

水道の水を少し流しっぱなしにし、冷たくなるのを待ってから、マグカップに満たし、ひといきにあおる。汗を大量にかいたので、ひどく喉がかわいていた。夢中で二杯、たてつづけに飲みほした。

大振りのタンブラーに水を満たし、応接間に運ぶ。ソファの上でぐったりしている白人は、やっと目がさめたようだ。まぶしそうに、天井の明りを見上げ、うめき声をあげて汚れたスーツの袖で目をかばった。

明津が、タンブラーをテーブルに置くと、白人は袖の下からのぞきこむように、明津の顔を見上げた。 

「ここは、どこだ?」としゃがれた声のロシア語でたずねる。明津もロシア語で答える

「おれの家だ。これを飲め」

「あんたは?」

「通りすがりの者だが、きみが襲われていたのでね」

「すまない。迷惑をかけたようだ」

 白人の顔に、初めて人間らしい感情が現れた。顔じゅうをゆがめて起き上がり、タンブラーに手を伸ばしてつかむ。手の甲に茶色い毛が密生している。毛深い男だ。

顔色が悪く、胸がむかむかしているのがわかる。ひどく辛そうだ。二日酔いで具合が悪いのが一目瞭然だ。その口もとに、タンブラーをもっていき、かぶりつくように水を飲んだ。

ひとくちで空になったタンブラーを、白人から受け取り、明津はキッチンからさらに二度、水を運んでやった。

やっと人心地がついたのか、ソファに座りなおし、タンブラーを握ったままの白人は、立って様子をうかがっている明津を見上げた。

「どこでロシア語を覚えた?」

「仕事でね」

 明津は、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語は、ひと通り日常会話に不自由しない程度にマスターしている。そのことは言わずにたずねる。

「ロシア人か?」

 白人はうなずいた。

「ウクライナの生まれだ」

「名前は?」

 ロシア人は、空になったタンブラーを逆さにして口の上で振り、わずかに残った水滴を舌に滴らせた。

 そして、タンブラーを握った手を胸にあて、咳き込みながら「イワノビッチ・ヴェレンコフ」と答える。

咳がおさまると、笑いとも自嘲ともつかない表情を浮かべ、明津の目をまっすぐに見つめながら言った。

「ごらんのとおりの酔っ払いだ。あんたは?」

「アクツ・ユウジだ」

ロシア人は、青白い額の上にこぶしの甲をあて、上目づかいに明津にたずねた。

「助けてもらって、こんなこというのはなんだが、あんた、ただの男じゃないだろ?」

明津は答えずに、イワノビッチ・ヴェレンコフと名乗る男の手から、空になったタンブラーを取り上げた。

ロシア人は、一瞬、食べ物を取り上げられた子供のような、うろたえた顔つきになった。

「酒をくれ」

それは、ほとんど反射的に出た、うわごとじみたつぶやきだった。

「酒だと? あんなに飲んでまだ足りないのか」

「酒がいるんだ。ウォッカがなければ、ウィスキーでもジンでも、ショーチューでもいい」

明津はじろりと睨みつけた。

「わかってるのか。酔ってあんなことをすれば、確実に寿命が縮むぞ」

ロシア人は、そのとき何をいわれたか理解できないといいたげな表情になった。だが、すぐに苦々しさとむず痒さと、ある種の驚きの入り混じった目で明津を見すえた。

「・・・そうか。やっぱり、あんたにはわかったわけだ。私の『力』が」

「あれだけ派手にやればな」

「・・・・・・」

「追っていたやつらは、いったいなにものだ?」

「答えられない。あんたに迷惑がかかる」

 ロシア人は、疲れきったのか、首を弱々しくふってうなだれた。

 明津は、ロシア人への警戒心をゆるめず、意を決して向かいのソファの上に腰を下ろした。一瞬たりとも、ロシア人から目をそらさない。

 取り上げたタンブラーをゆっくりテーブルに置くと、明津はおさえた静かな声で告げた。

「酒はあげてもいい。そのかわり、正直に話してくれ。きみのもっている『力』のことを。あの黒服の連中はなにものだ? 仲間だといっていたぜ。仲間なのに、なぜ追いかける」

 白人は、酒がもらえると聞いたせいか、ゆっくりと顔をあげた。その血走った目に、戸惑いと期待の光が宿る。卑屈な自分を、内心で叱咤しているのがわかる。自嘲の苦笑が、大きな口のはしに浮かぶ。

「困ったな・・・酒で釣られてなんでもしゃべると思われては、かなわない」

 今にも溜息をつきそうな風情だが、イワノビッチ・ヴェレンコフというこの男は、決してそうしないことを明津は見抜いていた。

 明津にしてみれば、この敵か味方かわからない男の正体と、その背景を一刻も早く知りたかった。そうかといって、力づくというわけにもいかない。無理強いすれば、あの恐ろしく強力な念動力で、この隠れ家を瓦礫の山にされてしまうだろう。

 口を閉ざして返答を待つ明津に、ロシア人はついに肩を落とした。

「わかった。すべてを話すわけにはいかんが、話せるだけは話そう。・・・とにかく」

 サイドボードの一画にあるガラス扉のキャビネットの奥に、強い視線を走らせる。そこには何種類もの洋酒の瓶が並んでいる。

 明津は、底深い意志を放つ視線を、同じキャビネットの酒瓶に向ける。

「とにかく酒、というわけだな。わかった、いま注いでやる」

 明津の意識は、洋酒瓶の中の一風変わった黄色の髑髏の形をした容器に向かう。歯をむきだした不気味な容器の中味は、度数五十五度の蒸留酒だ。

 手を触れずに、意識の力だけでガラスの扉を開き、音もなく中米先住民族の刺青の文様を手で描いた陶製の頭蓋骨が、引き出されて空中に浮かぶ。

  ロシア人は、幽霊に持ちあげられたかのような黄色の髑髏が、空中で封を切られるのを、息をのんで見つめた。

髑髏容器のつむじに当たる部分が突き出た円筒形のキャップになっている。それが、ゆっくりと抜けて開く。

虚空を浮遊した髑髏は、明津の前に滞空し、そのままその右手の上に乗った。頭蓋骨の額には、赤いコウモリのような悪魔が描かれ、翼を広げてこちらをにらんでいる。

髑髏をつかんだ明津は、自分の手でデキャンタに酒を注いだ。短期熟成の蒸留酒の甘くさわやかな力強い芳香が鼻をさす。

驚いて言葉をなくしている白人に、それを差し出す。

「テキーラだ。度数はウォッカなみだから、不足はなかろう。メキシコの酒なのは知ってるだろう」

 茫然とした表情で、受け取ったロシア人が、明津と髑髏のデキャンタを交互に見つめる。

「なんてこった。ここにも、これほどの“力”の使い手がいたのか・・・」

 明津は否定も肯定もせずに、ロシア人を見つめている。イワノビッチ・ヴェレンコフは、身をこわばらせた。明津も追手の一味ではないかと、鋭い疑いと警戒のまなざしを、しばらく明津に注ぐ。

だが、冷静な明津の思念に疑わしいものがないとわかったのか、負けたといいたげに肩を落とした。

「・・・同じ力の持ち主どうしは、呼び合うのか。少なくとも、アクツ、あんたは、やつらの仲間ではないよな」

そういいながら、目を軽く閉じ、鼻先にデキャンタを近づけて軽くうなる。

「いい香りだ。サボテンからつくった酒だな」

「正しくはブルーアガヴェというリュウゼツランが原料だ。その容器は、カーという酒造メーカーのものだ。『カー』は、古代マヤ語で『人生』『命』という意味だそうだ」

 イワノビッチ・ヴェレンコフは、明津の説明など聞いていなかった。すぐに口にほうりこみ、ひといきでデキャンタを空にした。五十五度という度数もなにほどのこともないのだろう。むせもしない。すぐにお替りのデキャンタを差し出す。

 明津は、髑髏を傾けて無言で注いでやる。八分目までテキーラがきたところで止めると、ロシア人はおざなりにウィンクしてから、一気にあおった。それを、半分も飲んでから、明津に不思議そうにたずねる。

「あんたは、飲まないのか?」

 明津は首をふり、静かにロシア人に問いかける。

「きみは、いったいなぜ、あそこにいた」

「きみなどと呼ばなくていい、イワンでいい。どうしてあそこにいたかって? やつらから逃げ出したんだ」

 イワンは、唇に残った酒のしずくを太い指の先でぬぐい、話しはじめた。

「いっておくが、おれはやつらの仲間なんぞではない。やつらが、おれを仲間にしたがっているのは確かだが」

「やつらは、なんなんだ?」

「この“力”を悪用しようと企む連中さ」

「超能力をか?」

「超能力? そんな古臭い言い方は久しぶりだ。思念だけで会話する、念力でものを動かす、肉眼では見えないものを透視する、意識の力だけで撮影する・・・そんな“力”は、使いようによっては得難い兵器になる。そして、兵器なら高価な商品になる・・・」

 明津の中で、イワンを追っている組織が、NAVCOMかもしれないという疑いがさらに強まる。これまで鞘におさまっていた刃が、抜き身をあらわにし、喉元に突きつけられるような危機感を覚える。

 イワンは、太いため息をついた。しごく真剣な顔つきで続ける。

「・・・アクツ、あんたも、おれと同じ力を持ってる。やつらに目をつけられないように気をつけろ」

「もう、目をつけられてしまったかもしれん」

 冗談めかして言ったが、イワンは申し訳なさそうにうつむいて首をふった。

「だとしたら、おれのせいだ」

 話を中断して、イワンが顔を酔いにピンク色に染めながら、ゆらりと立ち上がった。

「・・・すまん、アクツ、トイレを貸してくれ」

 トイレの場所を教えると、イワンはよろけながら歩きだす。明津もついていくが、イワンは片手を振って大丈夫だと身振りで示す。

 小用に立ったのだろうと、明津はさほど重大には考えなかった。イワンが逃走しないよう、いつでも応接間から飛び出し、念動で対処できるよう警戒するだけだった。


 4


 イワンは、なかなか戻らなかった。小用にしては、いささか時間が長すぎる。声をかけに行こうと思ったとき、トイレから彼の鋭いうめき声が聞こえた。

「やめろっ。あっちへ行けっ」

そのロシア語は、強い抵抗と拒否の叫びを伴っている。手負いの獣の怒りと苦痛と攻撃性に満ちた底深い声だった。

「イワン!」

 ソファから跳ね上がり、トイレに向かった。追っ手が、早くも襲いかかったにちがいない。

だが、わずか十歩にも満たない距離を、明津はたどり着けなかった。家全体をゆるがす爆発音が起こり、足がもつれる激しい震動が走ったからだ。柱や壁材がきしんで折れ、ガラスが割れ砕ける轟音とともに、明りがふっとび、真っ暗になった。

破壊された建材とほこり臭いにおいが、闇の中にたちこめる。屋内の非常灯だけが残された。天井から粉々になったほこりのようなものが、そこらじゅうに降り注ぐ。

トイレに続く廊下を照らす非常灯の鈍い明りに、ガラスや鏡や壁、ドアの破片が、砕けた氷の層のように散乱しているのがわかる。

人の背丈ほどもある目に見えない鉄球が、トイレと浴室周辺にたたきつけられたようだった。巨大な圧力が、一瞬にして建物の中から、廊下とトイレと浴室を破壊したのだ。

冷たい水が勢いよく噴き出し、あふれて流れる音が響く。ばらばらになったトイレのドアの残骸の上に、イワンがうつぶせに倒れ、のろのろともがいていた。

明津はすばやく敵の存在を探索するが、いるのはイワンだけだった。

水まわりを破壊されたため、水道が噴出し続けている。大量の水が、散乱したガラス片を飲み込みながら、音をたてて廊下を水びたしにしていく。

イワンの大柄な体が、その冷たいガラスまじりの水の流れの中で、横倒しのまま、いきなり体をまげて苦しみだす。手負いの熊のようにのたうちまわっていた。両腕で頭をかかえ、苦悶のうなり声をあげている。

助けおこそうと、水の中に片膝をついたとき、脳裏を、聞き覚えのある鋭い声が走った。

(そこから逃げろ、アクツ)

「マッコールか」

(そっちに向かってる。おまえ、とんでもないやつをひろっちまったな)

「とんでもない?」

(とにかくそこから離れろ。巻き添えになりたくなければな)

 にべもないマッコールの促しの念を無視し、明津は、なかば呆然とロシア人を見おろした。

「イワン、お前は何者なんだ」

ロシア人は、両手でおのが頭を耳ごとわしづかみにして、のたうちまわりながらうめく。

「おれは・・・おれは!」

明津の問いに答えようとしたが、それはつかのまのことだった。突然に激痛に耐える者のようにうなりだし、虚空を見上げて怒号した。

「やめろ! 俺に命令するのは!」

「命令? 誰のだ」

 イワンが、蒼白な顔に血走った濁った目を見開いて叫ぶ。

「やつらだ! やつらが来る!」

 そういいざま、力つきたか、水をはねちらし、うつぶせに倒れこむ。

そのとき、いきなり背後に、人の気配が生じた。非常灯の明かりをさえぎって、目と鼻の先に突如として出現したのだ。

「もう来てるぜ。さっきは、よくもたたきつけてくれたな」

それは、車の上でたたき伸ばしたはずの、あの痩せた若い瞬間移動能力者だった。

暗がりの中で、顔はよくわからないが、両手に拳銃を握っているのがわかる。油断なくかまえ、銃口を明津とイワンと、両方に交互にすばやく向ける。

明津は、声なく歯を食いしばった。男は、あの後、意識を取り戻し、ここまで追跡してきたのだ。

闇をすかして見える若い男の顔は、生傷だらけだった。自動車の破片でできた裂け目が刻まれ、乾いた血が、赤黒い火花が散ったようにこびりついている。

顎の尖った若い男は、明津を見つめ、銃口をまっすぐに向けた。薄い唇に憎悪にねじれた笑いを浮かべる。

「MKは、きさまのことを忘れないそうだ」

「MKだと?」

「きさまに目をやられた男だ。おれの下敷きになって重傷だ」

 男は、狂的なまでの殺意を放射しながら、イワンに横顔を向けた。

「MKは、生け捕りにしろというが・・・・今度は止めるやつはいない。おまえも、そいつごとバラしてやろうか」

そういい放ちざま、うつぶせのイワンに銃口を向け、無造作に発砲した。乾いた破裂音が、破壊された闇の廊下に響きわたる。

止める間もなかった。イワンの大柄な身体が、大きく痙攣した。釣り上げられて死にかけた魚のように苦しみもがく。彼の脇腹から、水ではない黒っぽいものがしみだし、濡れたシャツと床をみるみる染めてゆく。

明津は我に返った。脇腹から入った弾丸が内臓を傷つけたにちがいない。すぐに手当てしないとショックを起こし、命にかかわることになる。

明津は、眦(まなじり)をカッと見開いて、瞬間移動の男をにらみつけた。イワンを助けなければという衝動をおさえられなかった。

男は、拳銃を両手でしっかり握りしめたままはき捨てる。

「心配するな。この程度で死ぬようなやつじゃない」

血のまじった水びたしの床の上で、イワンの体は、うつぶせのまま小刻みに痙攣している。 

 明津は、念動を床に散乱したタイルの破片に集中しようとした。男は、それを素早く察知して薄笑いを浮かべる。

「あんた、おれをなめてんのか。次の瞬間、おれがどこへとぶか予知できるのか? へたなことやると、背中から心臓に撃ちこんでやるぜ」

 相手は、念動力者の心理を読むように訓練されている。集中力をとぎれさせるタイミングをつかむすべを心得ているのだ。

 そのとき、マッコールの思念が、ふたたび警報となって脳裏に響き渡る。

(何やってる! 出ろ!)

 拳銃を油断なく両手で構えた若い男と、撃たれたイワンを、歯を食いしばってみつめながら、声なく思念を返す。

(それどころじゃない・・・こっちも手が離せなくなった)

(知らんぞ、自分でなんとかしろ)

(そのつもりだ)

 助けに飛び込んでくるようなやつではないし、そんなことをされても、明津にとって足手まといなだけだ。

 イワンは水浸しの床を大きな青ざめた手でかきむしりながら、ゆっくりと上体を起こしはじめた。血の溢れ出す脇腹の銃創など、はじめから無いかのようだ。

 だが、起き上った彼の顔は、生ける者のようではなかった。蒼白で無表情な顔面に、両の瞼が薄く開いている。そこからのぞく白目には意識が感じられない。

彼の大きな口が、顎も外れんばかりに、かっと開いた。その喉から、咆哮とも絶叫ともつかない声が放たれた。およそ人のものとは思えない異様さだ。

明津も男も、イワンの叫びの物凄さに打たれて一瞬立ちつくす。だが、次の瞬間、明津は、イワンの全身から放たれる目に見えない爆風をまっこうから浴びた。一瞬にして、暴風の前の小石のように吹き飛ばされる。

その念動の爆風は、明津と瞬間移動者の男の身体を、二人同時に巻き込んだ。人を吹き飛ばす小型竜巻を起こし、錐もみ回転で跳ね飛ばしたのだ。明津は、目に見えない力の渦動に、振りまわされて気絶した。

意識を取り戻したときには、廊下の奥の方へ数メートルも吹き飛ばされていた。まわりはさらにひどいことになっていた。居間は、めちゃめちゃに損壊している。天井の一部が屋根ごとふっとび、頭上に星空が見えている。非常灯のあった非常口もドアごとふきとばされ、外へ直結する穴になっていた。明りはまったく消え果ている。

床に強打した後頭部と背中が痛み、水びたしでひどく冷たかった。

きな臭い痛みが鼻の奥をさす。鼻血が出ているらしい。口の中に血の味が広がっている。

時間はさほど経っていないようだ。信じがたことに、明津の顔の上に、あの若い男がまたがり、歯を剥き出して笑っていた。全身ずぶ濡れだが、どういうわけか、卒倒をまぬがれたらしい。明津を見下ろし、銃口を眉間に突きつけていた。

「悪いな。このロシアの荒馬とつきあうにゃあ、コツがあるんだよ」

明津は、水浸しの床に鋭いガラス片のあるのを、右手に感じ、それを突き刺してやろうと握りしめた。だが、男の銃口が顔の真ん前にあっては、目をつむるのさえ危険だ。相手の殺意は本物だったからだ。

躊躇しているうちに、イワンが再び人間ばなれした咆哮をあげる。

一瞬、拳銃を持つ男の注意がそれた。明津は、とっさに両手で拳銃をつかんでねじりあげた。虚を衝かれた男は、明津ともみあいながら引き金を引く。

乾いた破裂音とともに、耳から少し離れた空中を弾丸がかすめる。銃口から噴く発射炎が、目のくらむオレンジと白の凶暴な爆焔となって、一瞬、あたりを明るく照らしだす。

その光に、右側の奥に光るものが見えた。水道の蛇口の部品だ。壁から引きちぎられて床に落ちている。一瞬の光で見分けた明津は、即座にその水栓に念を集中した。それは空中に音もなく飛び上がると、風車のように鋭く回転しながら、男の右手首に当たって打ち砕いた。

男は悲鳴を上げて拳銃を落とした。明津は力を振り絞って立ち上がり、打撲に痛む肩で男をつきたおした。

ふりかえると、イワンが非常灯の青白い光を浴び、闇を背景に仁王立ちしていた。その表情には、もはや人間らしいものは何もなかった。

「イワン・・・」

明津は息を呑む。半ば幽鬼と化したかのようなロシア人を見つめた。イワンの長い右腕が闇の中で静かに上がるのが、ぼんやりと浮かんで見えた。

砕かれた右手首を押さえてうめく若い男に、イワンが異様に太く、そのくせ虚ろな声で呼びかけた。

「P5、お前は失敗した」

それは、外国語なまりのある日本語だった。イワンの元の声より太い声だ。強固で鋭い意志の力がこもっている。声も形相も、テキーラをあおっていたイワンとは別人だ。何が起こっているのか、奇怪すぎる変貌ぶりだった。

 うめきながら、手負いの野犬さながらに歯をむき出す若い瞬間移動者が、ぎくりと動きを止めた。明津に砕かれた右手の激痛にうめきながら、イワンをにらむ。

「だれだ・・・きさまは・・・」

「わたしを知らないのも、無理はない。P5」

「イワンじゃないのか・・・」

 驚愕して立ちすくむP5と呼ばれた男は、瞬間移動するため、あわてて呼吸を整えようとする。

 別人になったイワンが、喉の奥で静かに笑った。

「これだから、末端の連中は困る」

 右手をあげたイワンの袖から、激しく水がしたたりおちている。

「P5、とんでみろ」

 瞬間移動を促されたP5は、恐れと苦悶をこらえた顔つきだ。どうすべきか、深刻な戸惑いに襲われている。

 いったい何が起こっているのか、明津にも見当がつかない。水音が響く以外、奇妙に静かな夜闇の底で、P5の激しく震える息づかいだけが響く。

そのとき、遠くから、重く鈍いエンジン音が向かってくるのが、かすかに聞こえた。聞き覚えのある大型バイクの排気音だ。


 5


明津はそれがだれのものか、すぐにわかった。天日由利香だ。彼女が来たということは、イワンを殺しにきたのだ。

P5は、固く目をつむっては、必死に念をこらしているようだった。だが、何も変化がない。P5の顔色が、ずぶ濡れの髪から水をしたたらせながら、みるみる蒼白になっていく。驚愕の表情とともに、石のように静かなイワンを見上げる。

P5は、激痛でしびれた両のてのひらを、おろおろと見つめてうめく。

「と・・・とべない!」

 無表情な石の仮面さながらのイワンが、冷徹きわまる声で嘲笑を刻んだ。

「あたりまえだ。わたしの前で、好き勝手に力を使えると思うのか」

 バイクの重い排気音が次第に近づいてくる。

 それを聞きつけたイワンの灰色がかった褐色の目が、底深い光を放つ。破壊された非常口の向こう側、外の夜闇にすばやく視線を向ける。

 だが、それはほんの一瞬だった。外のことなど、とるに足らないとでもいいたげだ。視線は、再び明津とP5に向けられた。

瞬間移動できず、狼狽と恐怖に身動きできなくなったP5に、イワンは冷厳きわまる言葉を吐いた。

「役立たずめ」

その言葉と同時に、大きな手を広げ、まったく触れることなく若い男を吹き飛ばす。

P5は闇の中を目に見えない力で空中に突き上げられ、水びたしの瓦礫だらけの床にたたきつけられた。押し潰された肺腑から、瀕死のを吐き、P5はうつぶせのまま動かなくなった。

マッコールの切迫した思念が、明津の胸裏を再び刺し貫いた。

(なにしてる。どうなっても知らんぞ。あの女は、本気でおまえも巻き込むつもりだぞ)

イワン抹殺に邪魔となれば、由利香は明津ごと処分することも辞さないという意味だ。

それは明津もわかっていた。いわれるまでもない。

 どうやってあの女が攻撃してくるかはわからないが、特破本部から命じられてきた以上、標的を逃すことはありえない。彼女の発揮する戦闘能力なら、イワンのような強力な五感外能力者も相手にできるはずだ。

 だが、明津は、この場から脱出することはできなかった。イワンの想像を越えた能力を食い破って、この場を逃れる機会を見つけるのは困難だったし、仮に脱出できたとしても、イワンをそのままにしておく訳にはいかなかった。

 明津は、水浸しですっかり重くなった着衣をべったり貼りつかせて、冷えきった体でのろのろと起きあがった。

 変貌著しいイワンの双眼が、鬼火さながらの不気味な冷酷さをたたえて明津を見下ろす。

「日本人、おまえのやることはすべて読めている。それ以上、動くな。P5と同じになってもいいのか」

「……冗談いうな。こんなのと一緒にするなよ」

 ひきつった笑いを浮かべ、明津は、たおれたままの瞬間移動者の背中と、傲岸きわまるイワンの顔を見やった。

「おい、イワン、いったいどうしちまったんだ? もう酒はいらないのか」

 体の冷えと苦痛に、喉がしびれるようだった。声が締めつけられたようにつぶれていた。息をするたび、胸底でごろごろと鳴った。

 イワンは答えず、尊大な無表情というべき顔で明津を見下ろす。

 それはほんの一瞥(いちべつ)で、次の瞬間には、外の大型バイクの音の接近に再び鋭い眼光を向けていた。

 重いエンジン音が、この家の敷地のはずれまで来たのが聞こえたとき、いきなりまばゆい緑色の閃光が、闇の向こうから連なって撃ち込まれてきた。 それは、連発の緑の水平花火のようだった。ほとんど同時に銃器の発射音がパリパリと鳴り響き、不吉な破裂音を闇にばらまいた。

由利香が射撃を開始したのだ。激しい雨がトタン屋根にあたるような衝撃音が響く。破孔が目の前の壁のあたりに走って火花を散らす。

 撃ち込まれる銃弾には、まぶしい緑色の光の弾道をひく曳光弾がまじっている。機関銃の連射だ。4発に一発の割合で発射される。天日由利香は正確にサブマシンガンを一掃射したのだ。

曳光弾は使用する軍によって色がちがう。緑色はロシア軍のものだ。NATO軍なら鮮やかな赤だし、ドイツ軍なら黄色だ。米軍や自衛隊はもちろん赤だ。

 ロシア軍使用の緑色の曳光弾を撃ったということは、特破本部がイワンの素性を知ってわざと撃たせたのだ。

 自分に向って射撃されたことを知ったイワンは、鋼鉄の仮面のような形相のまま振り向いた。口を大きくゆがめている。

 一片の人間味もない冷徹きわまるまなざしで、明津をちらと見下ろした。

「おまえの仲間か。いってやるがいい。機関銃など役にはたたぬとな。既存の兵器が通用すると思うのか」

 その言葉が終わらないうちに、次の射撃が襲ってきた。緑色の閃光が凶悪なまばゆさで闇を燃やした。

  銃声が響きわたり、連続する銃弾が金属を打ち抜く不気味な音と、建材を貫通して割り裂く鋭い音とが錯綜する。

 まだイワンと明津たちには直接に被害はない。

 しかし、それが由利香の狙撃の失敗と断じるには早すぎた。

緑色の閃光が、再び銃声とともにほとばしった。塗ったような闇が、緑の冷たい輝線に破られ、数秒間隔で、破壊された家屋の内部をグロテスクに浮かび上がらせる。

その禍々しい光は、非情な死をもたらす火薬の輝きとともに、過酷な焼夷効果を発する火蓋でもあった。水にも消えない焼夷火薬だ。

硝煙の匂いと、ものが燃える不吉な臭気が、濡れた冷たい空気に毒薬のように広がる。ぱちぱちと燃え移りはぜる音が、外から降ってきた。

 明津は焦るが、イワンは動じない。口の中で低く重々しい皮肉を帯びた笑いをこらえている。

「そうか、焼き殺そうというのだな」

 由利香が撃ち込んでくる方向に、顔を向けたまま、すでに明津のことなど眼中にない。

 建材が燃えだす刺激臭とともに、闇をちろちろと揺らめく最初の炎が、幽鬼の火のようにぼっと灯った。

 たしかに焼き殺すつもりだ。明津は冷え切った鉄塊さながらの自分の体を、なんとか立ち上がらせた。こうなったらイワンを倒し、脱出しなければならない。

 もしかしたら、撃ち込まれる曳光弾の火災によってイワンが、外に飛び出すのを、由利香は狙っているのだろうか。

明津は濡れて湯気を放つ頭を振った。そんなことはありえない。生け捕りなどという指令は最初から出ていないはずだ。明津ごと焼き殺してでも、抹殺せよと高倉は命じているだろう。

犠牲者が出る可能性を全く顧慮しない射撃は執拗さを増すばかりだ。ひっきりなしの銃声とともに、曳光弾の冷たい緑色の閃光が、次々に撃ち込まれる。火勢も銃声を追いかけるように速さを増して激化する。

立ち上がりはしたものの、ずぶぬれで素早くは動けない。体温を奪われ、全身の筋肉がこわばっている。イワンの優位は圧倒的だ。明津の能力をもはるかに凌駕している。

曳光焼夷弾の連射が続く。火は燃え広がり、視界の両側から炎の帯がなめずりだす。ものの燃えはぜる音が激しくなり、噴き出す炎が渦巻く風の音とともに迫ってくる。たちこめる煙と焼ける臭気に息が苦しくなってくる。

イワンは、切迫する銃撃にも火勢にも全く動じなかった。まわりが火の海であろうが、大洪水であろうが、竜巻の渦中だろうが、まるで関係がないといいたげだった。

その冷たくつりあがった唇が、薄く笑いを刻んでいる。見るに値しないものを見下ろすまなざしとともに、明津につぶやく。

「おまえ程度の力で相手になると思うのか。愚かなことだ」

そういいながら、視線を銃撃し続ける由利香の方に向ける。

「あの女も、そうだ」 

火災は水浸しの床や壁を熱し、危険な煙と蒸気を吐き出しだす。ガスの乱流が足下を流れはじめる。呼吸器を刺す焦げ臭さがたちこめ、またたくまに濃厚となる。

明津は、尻のポケットから引き出したずぶ濡れのハンカチで鼻と口を覆った。念動力では、大量の気体や液体の動きを止めるのは困難だ。

イワンは、不動の立ち姿で重々しく宣告した。

「焼き殺すというのなら、もっとだ。これぐらいは燃やさないといかん」

煙の細い筋をいくつも束ねた風の流れが、ふいに破砕した廊下をうねりながら通りぬけた。

その出所不明の風は、外部からのものではない。すでに火災に熱せられて膨張した空気は、内側から外へとあふれていく。外部からの風も引き込まれるが、この風は不自然だった。

明津には、その風の正体がなんであるか、すぐにわかった。イワンがぐいと頑健な顎を持ち上げた瞬間、細い風の流れが一挙に猛風に変わった。

イワンの両目が、周囲を取り巻く炎と煙をぎろりと睨んだ。

両腕を水平に広げた。そのまま鳥が両翼を上げるように、空気をあおる形に持ち上げる。

 周囲の火勢がイワンの腕の動きとともに一気に激化し、嚇々と吹き出した。火の粉が燃える砂嵐のように上空に舞いあがる。

持ちあげられたイワンの腕が、両側から再びもちあがると、火勢はますます激しくなった。左右に苛烈な炎の壁が立ち上がった。明らかにイワンの腕の動きに合わせて、火焔が勢いづいているのだ。

秋津には耐えられない猛火の炎熱だ。眉が焦げ、ずぶぬれの衣服から蒸気が立ち昇ってみるまに乾く。熱と光と酸欠で目をあけていられない。顔が火ぶくれになりそうだ。

かろうじて念動で炎が直に触れるのは避けているが、長くはもたない。のどを刺す煙と有毒気体でひどい咳が止まらない。身を折って煙とまじった蒸気が立ち昇る床に膝をつく。

天井から赤熱した建材のはじける火の粉が降りしきる。猛火の音が滝のように轟いている。

両側にそびえる火焔の璧は、いまにも雪崩落ちて秋津をただちに焼き殺さんばかりだ。

  炉のような業火の音をすかして、遠くから消防車のサイレンの音が聞こえてくる。消防士たちに見られる前に、早くこの場から去らねばならない。火事のことは特破本部が手をまわして、もみ消してくれるだろうが、焼死体を残すのはまずい。

 ここは命がけで、一点突破するしかない。明津は、脳裏の芯に残っている気力のすべてを集めた。激しく蒸気をあげる水びたしの廊下に散乱したガラスや洗面台の陶磁器の大きな破片を持ち上げて、イワンの顔面に突っ込ませるのだ。

周囲の火の勢いなど気にも留めていないイワンの顔に、突如、奇妙な異変が生じた。

ロシア人の鬼火に燃えていた両眼に、不思議な沈痛さが走った。それは、予期せぬ人間らしさの現れのように見えた。

傲岸そのものの顔貌に亀裂が生じ、その奥底から、あの酔っぱらっていた男の顔がふいにのぞいたかのようだ。

明津は、イワンの人格に不可解な異変が生じているのを感じ取った。

イワンに突如生じた異常は、沈痛さから明確な苦痛の表情にとってかわった。

それは苦悶の形相だった。口が悲鳴をあげるかのように大きく開かれたが、声は出ない。

おのが右腕をみずからの左手でわしづかみにした。それは自分の意志からはずれた動きをする右腕を、左手でおさえこもうとするかのようだった。

火炎にあぶられたイワンの顔は、奇怪な人格の交代劇を演じていた。泥酔していたロシア人の表情と、この家を破壊し火災を拡大させた魔神じみた男の表情とが、縦横無尽に錯綜し交互に出現と消滅をくりかえしていた。

異様で奇怪な葛藤劇を演じるイワンの左腕が、抵抗する右腕をぎりぎりと持ちあげはじめた。

その口から、ついに意味をなさない雄叫びが噴き出した。名状しがたい苦痛のうめき声が、そのあとに撒き散らされる。周囲の炎の音さえ圧するほどだった。

それは、あたかもイワンの体の中で二頭の猛獣が争い、咆哮(ほうこう)が喉から迸り出ているかのようだった。



 その叫びとともに、イワンの周囲に爆発的な強風が生じた。彼を中心に、炎と煙が円形に吹き払われたのだ。

爆風に払われ、押し寄せる煙と炎と火の粉を浴びて、明津は袖で顔を覆ってたじろいだ。

次の瞬間には、たちこめていた黒や白や灰色の煙が消え去っていた。崩落して散乱する木材や可燃物が炎をもぎとられ、熾火だけが、高熱の粘着物のように炭化した表層全体に真っ赤に光る。

、破壊された屋内の視界が、袖ごしにはっきり開けていた。床から天井まで引き裂かれ、屋外に向かってあいた大穴の夜闇が、熾火の光に縁取られてゆらめきかすむ。

 その穴の真ん中に、サブマシンガンを構える由利香が音もなく現れた。火災の炎熱の光を浴びた彼女は、赤熱した鉄の像のように禍々しかった。

眉の上までずりあげた暗視装置を、結い束ねた黒髪を振って、左手でもぎとるようにはずした。精密な視覚装置の無機質な突起物が、火災を映してゆらめき光る。

決して笑わない由利香の美しい顔の肌の白さが、火炎のオレンジ色に照り映える。あたかも女の鬼神だ。ストラップを無造作につかんだまま、右手は腰だめにした銃口をまっすぐイワンに向けている。

星の光を増幅する暗視装置も、これだけ明るい火災の光では、かえって役に立たない。暗視装置の助けなどなくとも、イワンのことも明津のことも、とっくに視認していたはずだ。

彼女は両脚を軽く開き、肩から吊ったサブマシンガンを下から支える。隙のない立射の体勢だ。命のない的を見るような冷徹無情な黒い目で、イワンを見つめる。

明津は、直後に起こることを察知し、無駄と知りながら由利香に叫んだ。

「待て! こいつの正体はまだ・・・!」

そこまで叫んだとき、由利香のサブマシンガンが凄まじい火と破裂音を噴き出した。空気を引き裂き突き抜ける鋭い音とともに、弾丸がイワンに容赦なく撃ち込まれた。

イワンの大柄な体躯が、着弾の衝撃にそりかえる。「ぐはうっ」と絞り出す苦悶の息を振りまく。銃弾の撃ち込まれた数十か所が、なぜか一瞬、白い光を星のように撒き散らして消える。

明津は思わず由利香に叫ぶ。

「なぜ、撃った!」

由利香は、サブマシンガンを構えたまま、裂け目の向こうから鋭く叫び返す。

「命令があったから。敵は、この程度じゃすまない」

「なにっ?」

 イワンに目を向けると、 あれだけの弾を、まともに全身に浴びながら、倒れていなかった。ふつうなら、内臓を貫通し、あるいは骨に当たって粉砕骨折し、体内に重傷を負う。立っていられるわけがない。

 だが、イワンは、激しくそらした身を、今は前かがみに折り曲げながら立っていた。左の頬と額の右側にも弾を受けているが、円形にえぐったような、すぼんだ穴があるだけで、銃創から出血している気配もない。

  うつむいたイワンは、明津と由利香の方に、うつむいたまま横顔を向けた。その双眼が、ぎらつく水銀の球のように凄絶な光を放っていた。銃弾を受けた頬や額の穴が、みるみるふさがって元通りになる。もはや人間の眼ではない、何かおぞましい異世界の異形の怪物が乗り移ったかのようだ。

ロシア男は、傲然とした態度を取り戻し、再び火勢を盛り返す周囲を見渡した。

「こんなものは無駄だと、あの女にいうがいい」

背筋をのばしたイワンの大きく無骨な手が、着ているスーツの両の襟元をつかんだ。ほこりを払うように二、三度はためかす。

 ぱらぱらと何か小粒のものがいくつも床にちらばった。靴先までころがってきたそれが、ほとんど変形していない銃弾だとわかり、明津は戦慄した。

 由利香の撃ち込んだ数十発のサブマシンガンの弾だ。防弾チョッキでも、こんなまねは不可能だ。弾はふせげても、防弾プレートやケブラー繊維に食い込み変形するのが普通だ。

 イワンが防弾チョッキを着ていたとは思えない。すくなくとも明津の記憶の限りではスーツの下にそんなものを着込んではいなかった。

 高速で撃ち込まれる銃弾を、着衣も傷つけずに瞬時にストップさせる強大な念動だ。

 明津とイワンの周囲の火災は、再び火焔地獄に戻り、焦熱と炎の渦を巻き上げてゆく。呼吸困難となり、空気をむさぼろうにも、熱すぎる上に有害なガスで吸い込めない。

 もはや、この場にいられる状態ではない。イワンに殺されなくとも焼死してしまう。

 明津が、少しでも熱気と有毒ガスに汚染されていない空気を吸おうと腰を低くした瞬間、由利香の射撃が再開された。

 彼女は、ためらいなく炎の中にとびこんできた。炎熱も煙も意に介さず、撃ちながらイワンの前に駆けよった。

 至近距離でのサブマシンガンの銃火が凶暴な発射音とともに炸裂する。そのまばゆい閃光は、火災の炎の中でもはっきり見える。

 イワンが右腕を挙げると、顔の前で扇を払うように左右に振った。銃弾はまぶしい白い光を発して失速し、ばらばらと床にこぼれて散った。

 イワンの大きな両手が、自らの胸をわしづかみにし、ぐしゃぐしゃになったシャツの上からまさぐるように動いた。その手は、胸から腹、腹から太腿へとすばやく移り、やがて額の右側の銃創の上を覆った。

 その手が顔から離れた。彼は、両の手のひらを、見せつけるように広げる。そこには、撃ち込まれた二十あまりの弾頭が、鈍い赤熱に光っていた。

 驚くべき自衛の念動力だった。弾丸を体の表面で受け止め、それを数秒間で手のひらに集めてしまったのだ。白く光ったり赤熱するのは、銃弾が念動で強制的に止められ、加速エネルギーが光や熱に変換されたためだ。

 だが、イワンは再び不可解な葛藤をはじめた。

 顔を両手で覆うと、背中をまるめ言葉にならないおめき声をあげる。右腕を左手でつかむ。さっきと同じく、自分の半身をもう一方の半身が必死に制止しているかのようだ。

 あたりは、過酷な炎熱で身の置き所がない。四周を火あぶりよろしくまばゆく燃え盛る炎が囲む。有毒な燃焼ガスで充満している。両側から炎の壁がなだれ落ちてくる。

明津とイワンと由利香は、一直線にならんでいる。

わけのわからない葛藤劇を演じるイワンの顔が、あの酔っ払いのロシア人のものに戻った。苦悶に顔がゆがんでいるが、確かにその目は、元の彼のものだった。

「イワン! どうなってるんだ!」

明津が叫ぶと、イワンが両手で自分の顎をわしづかみにして押えながら、激しく咳き込んでつぶやいた。

「・・・逃げろ・・・行け・・・。おれのことは・・・かまうなっ」

 イワンの喉からごぼごぼとうめき声がもれる。

「お、おれは・・・…まだ・・・おれの・・・ちくしょう・・・」

 とぎれとぎれのロシア語が、なぜか深刻な襖悩と後悔にまみれている。それは、さっきまでの傲岸不遜かつ凶暴な人格を忘れたかのようだ。

 火災の炎熱に囲まれながら、由利香は冷たく決然と命じた。

「どきなさい。明津」

 同時にサブマシンガンをフルオートで撃ち続ける。はためく炎の中で、銃火の白い火が凶悪に閃く。

 イワンが左手で顔面を狂おしくつかみながら、右手の手のひらを由利香に向けて、銃弾をことごとく防ぐ。

 明津は立て続けの銃声に鼓膜が破れそうになる。両手で耳を防いで由利香に叫ぶ。いくらイワンでも、この連射には耐えきれるはずがない。

「やめろ!」

 喉が枯れるほど叫ぶが、銃声と火災の轟音にかき消され、声が自分のもののようではない。

 明津が叫んだ次の瞬間、イワンの頑健な両腕が、明津の両肩をつかんで持ち上げた。肩骨が砕けるほどの握力だ。苦痛のうめきをあげる明津の体を、イワンは強引に自分の体の前に立たせた。

 明津を盾にしたイワンは、再び倨傲な人格を取り戻していた。自信に満ち軽侮をこめた太い声が、明津の頭のすぐ上から聞こえた。

「この男ごと、私を撃てばいい」

 明津の胸に大きく回した腕が、万力のように締めあげて息ができない。腕力だけでなく念動力でも抑えつけている。逃げることなど不可能だ。

 由利香は弾切れを確認し、サブサブマシンガンの銃口を下ろしながら、右腰のホルスターに吊った大型ルボルバーを瞬時に抜きだした。愛用のルーガー・スーパー・ブラックホークだ。

その長大な漆黒の拳銃の死の銃口が、こちらを向くと同時に、赤と紫に縁取られたまばゆい白炎を噴いた。

そのとき明津は由利香と出会う少し前に見た恐怖の悪夢おを思い出した。自分が紅蓮の炎の中で大型リボルバーに撃たれて倒れる夢だ。心臓がパンクして首が胴体からちぎれ飛ぶ、あの忌まわしい夢が今こそ現実のものになろうとしている。

不吉きわまる閃光のような想いとともに、明津は心臓と肩と首筋に強烈なショックと激痛を感じて倒れた。大口径の銃弾に撃ち抜かれたのだ。

全身が、風に舞うぼろぎれのように吹っ飛び、意識がとぎれてゆく。

記憶がとぎれる寸前、明津は背後から締め付けていたイワンの膂力が急激に弱まるのを感じた。その頑丈な壁のような胸板が、崩れるように離れていくのと同時に意識を失う。



闇の中で明津はもがいていた。うつぶせになって身動きもできず、早く火災現場から脱出しなければと激しく焦る。だが、まるで体が動かない。

そのときだれかが、体をもちあげて仰向けにするのを感じた。闇の中に、マッコールの不愉快そうに口をゆがめた顔がぽっかり浮かんだ。

黒人と日本人のハーフの男は、つぶやいた。

「ったく、世話やかせやがって」

いったいなんのことだと尋ねようとするが言葉にならない。

マッコールは、やけに生々しい現実感をもって明津を見下ろした。その漂悍な唇が開く。

「よけいなこと考えないで、しばらく寝てろ」

意識のどこかで頬を軽くたたかれたような気がした。もちろん、それは実際の肉体の頬ではなく、意識の上でだけ起こったことだった。

明津は、自分はたぶん死ぬのだろうと感じていた。

天日由利香の銃弾の直撃を受けたのだ。とっさのことで、しかもイワンに封じられて持ち前の念動も使えなかった。

まるで他人事のように、そんなことを思い返しながら、意識はそこでふつりと途絶えた。

明津の予想に反して、彼は死ななかった。

次に意識が戻りはじめたとき、おぼろげながら聞き覚えのある女の声が聞こえた。何を語っているのか、はじめは不明瞭でわからない。

意識がはっきりしてくるにつれて、声の主は由利香だとわかる。これも聞き覚えのある男の声、マッコールを相手に、冷静な声で淡々としゃべっているのが聞こえた。

「・・・死ぬはずがないわ。急所は全部はずした」

「だがな、まかりまちがって当たりどころが悪けりゃ、こいつ、今ごろ・・・」

「仮定の話はよして。この通り生きてる。問題ないわ」

「あのロシア人も生きてるぜ。逃がすはずじゃなかったろ」

「手負いにしてやったわ。本部が追跡してる。じきに居場所がわかるわ」

「しかし、これじゃあ、だれもお前さんが手加減して撃ったとは思わんだろうな。あちこち穴だらけにされたんだ、こいつの身になってみれば、な」

「あのロシア人を倒すのに、彼はためらってた。その集中力のなさが失敗の一因よ」

そこで、明津はうっすらと目を開けた。

無意識のうちに声のする右側に首を向けようとしたとたん、左の首筋と肩の境目あたりに、焼け火箸をつっこまれたような激痛が走った。

「うあっつ!」

叫んで腹筋に力が入ったら、今度は右のわき腹に目も眩む痛みが走った。身をよじると左脇腹も激痛におそわれる。

「っつう・・・ぐう・・」

両腿の外側と内側にもひどい痛みが走る。首筋から両腿まで、いったいどれだけの傷があるのかわからない。筋肉なのか骨なのか内臓なのか、激痛の箇所すべてが連動して、顎から膝までの体全体が使いものにならなくなったようだ。

明津は、激痛にかっと目を見開いた。たちまち顔中が脂汗でじっとり濡れる。弱々しいかすれ声しか出てこない。

「・・・由利香、よくも、おれをこんな・・・」

「目を覚ましたか」

 真顔のマッコールを無視して由利香を見上げる。彼女は黒のスーツをまとい、白い百合の花束を片手に下げて見下ろしている。

明津は激痛のあまり、かすれた怨み言をもらす。

「殺す気だったな、おれを」

由利香はあくまでも冷静だった。

「誤解しないで。あなたのいう通りなら、いまごろ霊安室よ」

「し・・・信じられるか」

「お見舞いにきた、といっても受け入れてはもらえないようね」

由利香はなんでもないような表情で花束をマッコールに押しつけた。

「帰るわ。これ、適当に飾っといて」

マッコールが肩をすくめた。個室の病室から出る由利香の黒い背中を、横目で見送って、明津を見下ろした。

「やれやれ。意識を回復してくれてなによりだ」

「くそ・・・やられた」

「相手は、こっちが思った以上に化け物だったってことだ」

「イワンじゃない、由利香のやつにだ・・・」

「おいおい、一応、味方なんだぞ。今回の件は、本部長も作戦を練り直すそうだ」

「イワンは、ただの敵じゃない」

明津は炎の中でみたイワンの人格の変貌を思い出しながらつぶやく。

「何か事情がある。あいつは想像もつかない状況にあるんだ」

「だろうよ・・・」

そこまで口にしてから、マッコールは厳しい顔つきになり、あたりを目だけで見回した。

苦痛に耐える明津の脳裏に、マッコールの思念の声がささやいた。

(だれか監視してる。物理的盗聴じゃあない。思念をとばしてやがる)

マッコールはさりげなく百合の花束を花瓶にいけながら目くばせした。

明津も、目を合わせて口を閉じ、痛そうにうめく。マッコールは来客用の椅子に腰をおろした。自然なふるまいを装って監視の思念の出所を探す。

(ちっ、離れやがった)

探しはじめたとたん、何者かわからないまま、ただちに気配が消えた。向こうの方が上手だった。マッコールが気づいたことを察知したのだ。

敵側のテレパシストの監視が張り付いているのだろう。イワンのことは、やはり向こうにとっても重大な事柄のようだ。

マッコールが席を立った。

「じゃあ、おれはこれで。せいぜい大事にしろよ。体は動かなくとも、こっちは大丈夫だろう?」

指でコインをはじく真似をする。

明津は返事の替わりに、苦痛に顔をゆがめながら、来客用テーブルの上のテレビのリモコンに思念を集中する。

手のひら大のそれが、手も触れないのに、ふわりと空中に浮かぶ。

無重量状態の中にあるように、くるりと一回転すると、先端がテレビに向いて電源が入る。リモコンのボタンがひとりでに押されて、画面が次々に切り替わる。

民放のテレビショッピングのチャンネルが、万能掃除機の売り込みを大げさなナレーションで流し続けている。それもすぐに変わって、時代劇の再放送、タレント主演の料理番組、ワイドショーと移り、ロシアの外交問題を扱っているチャンネルで止まる。

マッコールは、空中で止まっているリモコンに手を延ばし、つかんでテーブルの上に戻す。

「能力には支障ないようだな。くれぐれも医者や看護師の前ではやるなよ」

念押しするマッコールに、明津は右手の指先だけあげてうなずいた。いくら念動が使えるからといって、銃撃の傷まで治せるわけではない。

もし、この状態で敵に襲撃されたら、どこまで自分を守れるか、自信はまったくない。

                           

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アイスハート・マザー 佐々木君紀 @noritogoto28

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