第197話お母さん! 懐かしいアイツ
元の生活に戻り、一週間が過ぎた。
朝、目が覚めるとこれは夢だったのではないか。
目が覚めるとそれに気が付いてしまうのではないか。と不安で夜が訪れるのが怖くて明かりを消して寝る事が出来なかった。
俺は少し前まで異世界にいた。
そこは魔法や能力といった異能が存在し、美しい景色や美しい人々がいた。
その中でも、俺と一緒にいた奴は一際美しく、
宝石のような青色の瞳、スレンダーな体型はTVなどでみる一流ブランドの専属モデルのようで目が合うだけで緊張したのは覚えている。
しかし、最近ではその彼女の名が思い出せない。
それが堪らなく嫌で、彼女の事をノートに書いても次の日にはそれが消えてしまう。
記憶に靄がかかるように何かに阻害されているような感覚だ。
「つとむ! 何ボケっとしてんの! さっさとこの書類FAXしておいて!」
「あ、あぁ」
朝8時に家を出て、8時半には会社のPCの電源を入れ、12時昼食をとり、19時には自宅に着く。
規則正しく、この何の変哲もない日常が普通なのだ。
それに、俺は今の生活に満足している。
”あの異世界での生活は長い夢のようなものだった”
俺はそれから異世界での出来事を思い出す事がなく、いつも通りの生活に染まっていった。
□ □ □
一ヶ月後。
ひと月も経つと、異世界の事を思い出す事は殆どなくなってた。
というか、最近、TVでこの辺の地域の田舎暮らし特集が放映された為、移住希望者が殺到し、物件案内や相談と大忙しで休みなくロボットのように働いていたのでそんな事を考える余裕もなかった。
今ではどんな事を経験し、どんな人に会ったのかも思い出せなかった。
「ふう。もう、24時か......」
疲労困憊の身体を引きづるように自宅に戻りおもむろに時計を見ると、時刻は24時を指していた。
こんな時間まで働いた事がなかった俺は社畜と呼ばれる人々を本当に尊敬した。
「いいや、風呂には朝入ろう......」
歳を取ると独り言が多くなる。
溜息混じりの言葉を吐き、そのままベッドに倒れ込んだ。
□ □ □
「ちょっと~。あなた、起きて~」
色っぽい声が耳元で聞こえ、目を開ける。
すると、そこには月明かりに反射するピアノ線のように細く、美しい銀色の髪と右眼が赤、左眼が金のナイスバディのお姉さんが腰に手を当て、寝ている俺の顔を覗き込む。
「......え? 何? デリヘル?」
「何それ~? 私よ。ブラックよ。忘れちゃったの~?」
忘れた。
というか、こんな個性的な美人に会った覚えが全くなかった。
「まあ、いいわ。あなた、早くこっちの世界に戻りなさ~い」
「こっちの世界? あ______」
黒いマント、碧眼の瞳、個性的な喋り方。
こいつはもしかして、他の世界から来た奴なのか?
確か、俺はどこかでこいつに会った事がある。
しかし、そこがどこでどんな状況で出会ったのかは思い出せなかった。
「ん~? ちょっと、失礼~」
そう言うと、ブラックという女は俺の脇腹に手を当て、スリスリと擦り始める。
「お、おい! 急に触るなよ!」
「そう言いながらも身体は正直よ~」
ブラックは俺の下半身を見ながら、無表情でそう告げる。
そりゃ、見ず知らずの女にいきなり脇腹を触られるなんてシュチュエーションを体験したら誰でもこうなる。
俺は我が息子を𠮟ることはしなかった。
「あ、あったわ~」
「あった?」
ブラックは微笑を浮かべると、俺の脇腹から赤く微かに発光する宝石のような石を目の前に差し出してきた。
なに?
急に現れて俺は手品を見せられているのか?
マジシャン界隈でこういうゲリラマジック流行ってんの?
「何だそれ?」
「何だそれって、あなたの中から取り出したのよ~」
「俺の中? 経験がないから分からんが、もしかして、それが胆石ってやつなのか?」
「違うわよ~。これは魔石よ~。レインから貰ったでしょ~?」
「魔石? レイン?」
何だ?
その二つの名を聞いた事がある。
ただ、それがどんな物で、どう俺に関係していたのか全く思い出せない。
まるで頭の中にある記憶のノートの一部が紛失してしまったような感覚だ。
「魔力の痕跡がなかったらあなたを探し出す事は出来なかったわ~。レインに感謝する事ね~」
「だからレインって誰だよ!」
目の前の女はどこかで俺に会っている。
しかし、俺はそれを覚えていない。
それが妙に気持ち悪く、俺は肌を密着させる女を力いっぱい押した。
「あら~。強引ね~」
「強引って! お前が勝手に入ってきたんだろ! 早く出て行けよ!」
「そうはいかないわ~。私は、あなたをユスフィアに戻さないといけないんだから~」
「そんな勝手言うな! 確かに、昔、どこか別の世界にいた覚えはある! だけど、俺は今の生活に満足しているんだよ!」
ブラックに強い口調で感情をぶつけると、「ふ、ふふ」と俺を小馬鹿にするように鼻で笑った。
「......何だよ!」
「今の生活ねぇ~。あなたはこんな鳥籠の鳥のような生活がお好みだったのね~」
ブラックは俺の部屋をチラッと見て、俺を侮蔑するように一言。
確かに俺の部屋は狭く、汚く、そして臭い。
だが、ほぼ初対面のこいつに言われるのはシャクだ。
「うるせえな! さっさと帰れ_______」
「______つとむ! うるさいわよ!」
大きな声を出した事で、就寝中だった母親が起きてきた。
俺の部屋は二階にあり、母親の階段を登ってくる音が聞こえ、俺は焦った。
「ちょ! おまっ、マジで出て行けって!」
「え~。どうして~」
「お母さんが来るから! マジで!」
傍から見たら、俺の慌てぶりは中学生かと思われるだろう。
それくらいに俺は母親に女を見せるのが嫌なのだ。
「つとむ! 開けるわよ!」
「いや、ちょっ! マジで開けんな!」
俺はとっさにドアを押さえつけ、母親の侵入を拒む。
「ちょ! 開けなさい!!!」
「いや! マジで無理!」
「何だい!? 何か隠してんのかい!?」
「いや! 隠してないけど!」
「じゃあ、開けな!」
俺の母親は超が付く程にしつこい。
しかも、高校生時代にソフトボールで全国大会に出場するほどの球児だったので50歳を過ぎたにも関わらず、力が強く、運動不足の俺は母ちゃんに力負けしそうだ。
「入りたいなら開けてあげればいいのに~」
「ちょ! お前、喋るな!」
「なに!? 何か今、女の子の声が聞こえたけど!?」
「いや! 気のせい! 気のせい!」
「気のせいじゃないわよ~」
「おいタコ! 喋んな!」
「ちょっと! あんた! まさか、誘拐して来たんじゃないないでしょうね!」
「あ!? そんな訳あるか!」
「じゃあ、さっさと開けなさい!」
「だから今は無理だって!!!」
「開けなさい!!!」
俺と母親の攻防を見て、ブラックは何か思い付いたように顔の近くで指パッチンをし、「ちょっと失礼~」と言った直後、俺の身体フワリと宙に浮いた。
それは、母親の力技で身体が浮いたのではない。
まるで、見えない力が俺を浮かした。
そんな不思議で、どこか懐かしい感覚だった。
「はぁはぁ......。さっさとあけ、開ければいいのよ」
扉が開いた先にはミカン柄の黄色いパジャマ姿の母親が全身汗まみれで肩で息をしており、まるで鬼婆のようだった。
「どうも~。お邪魔してます~」
ブラックは僧侶のように胸元で手を合わせ、頭を下げることなく、俺の母親に微笑んだ。
母親はパニック状態なのか、「ん!? ん!?」とブラックに対して綺麗な二度見をしている。
そして、母親は何を思ったのか、第一声で。
「つとむの彼女!?」
とお隣さんにも聞こえるんじゃないかと思うほどに大きな声でブラックに対して問い。
「いや! ちがっ______」
「そうですよ~」
とブラックは俺の言葉を遮り、悪びれる事無く、母親に嘘をついた。
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