第60話 粘液が行く
リモスが包囲された洞窟を脱出し、トカゲ軍人のパーティに救援を求める事を決めてからの動きは速かった。人間の難民が群れを成しているのであるから、一度脱出すれば洞窟を解放するまで戻れないもの、と弱小怪物なりに心を決める。
健闘する魔女を力づけるため、前線でがいこつ兵を率いる魔女に事情を伝えると、
「なるほど、イチかバチか、あんたの作戦が上手く行くことを祈ろう。死んだら地獄で再開しようともよ」
と、多少は士気と元気が戻った様子を見た。苦しみに終わりがあると分かれば、怪物だって気合が入りなおすものなのだ。
魔女は去り行くリモスの小さな背を見て思う。都市エローエを攻略した時もそうだが、決断後の行動が速い、と。そしてこの美点は他者を出し抜く、という点でも有効であろう、とも。
前線から離れる前に、リモスは敵軍で最も活発に動いている兵を見た。斧使いと二刀流である。二人の果敢な戦いぶりに引っ張られて、素人集団の難民たちも死を恐れずに立ち向かっているようであった。戦況は明らかに怪物側が押されているといってよかった。
「このままでは老婆が討たれるのも時間の問題か。急ごう」
彼は洞窟からの脱出路に、排水路を選んだ。新道区の水源と温泉の湯が混じり合って流れていく自然の道だ。湯の源泉付近から離れた場所からであれば、茹で死する事もなさそうである。心配なのは、この水路に棲みついているだろうシャチの怪物に遭遇し食い殺されてしまうのではないか、と言う事だ。
シャチの習性として、血の臭いに寄っていく事は知っていたから、いわゆる血液を持たないリモスが襲われる可能性は少ないものの、戦死した人間や彼らの排せつ物が流れて行っているだろうから、血に狂ったシャチが大暴れしていないとも限らない。
リモスは妖精女妹の荷物をあさって、彼女の使用済み下着を見つけるや、それを瓶に密封して持ち物に加えた。その臭いに敵が惹かれている間、逃走するためのもの、という思考だ。なぜそんなものが手に入るのか、同じ家に住んでいる名残で、籠城後もやはり同じ場所に避難していたからだが、この辺の行動が彼のモラルの欠如を示している。平気でこのような事をしてしまう所は彼の欠点であったし、女達から好かれない原因でもあったろう。ともかく準備は整った。リモスは勇敢にも水路へ飛び込み、洞窟からの脱出を試みる。それを対岸で目撃していた人間の子ども曰く、
「母さん、ねえあそこ。怪物が飛び込んだよ」
「あんな体の怪物がねえ、なんだか溶けて消えてしまいそうね」
「身なげかな、まあ殺されるよりはな」
と、傍から見れば投身自殺のようにも見えた。このエピソードからは、この時点で人間側も自分たちの優勢を確信していたことがわかる。戦争に不慣れな難民たちは戦端からの優勢から勝利を確信してもいた。
水に流されて行き、水中からもグロッソ洞窟の街並が見えなくなると、次第に勢いが強くなっていく。地下を目指して流れているため、どこかの時点でさらに潜らねばならないだろう。その先の道については、手引きをできる同胞は見つからない。全て自分の勘で道を探さねばならない。リモスは水の流れに流されるまま身を任せた。水が進むのだから、逆らわなければどこかに出るだろう、と言う楽観だ。彼の中では、魔女が危ない、という危機感と、なんとかなるだろう、という楽観が同居していた。後日、この話を聞いた異形の怪物は、
「まあ、天才の証だな。一歩違えば単なるバカになるが」
息継ぎの心配もあったが、潜ってみれば自分には呼吸など必要がないようであった。粘液体であるリモスは水中で空気を必要としていないことが、潜ってみて初めて判った。この神秘体験を勇気に、彼はどんどん流されていった。
水流の道中、彼は恐れていたシャチを発見する。幸運にも眠っているようであったが、このシャチは恐るべき怪物で、これまでグロッソ洞窟の輩たちと意思疎通できたことはない。リモスは無視してこのまま流れていくつもりでいた。シャチの周囲を良く見ると、怪物や人間の骨が並んでいる為、この場所は彼の巣なのだろう。
「うっかり行動で狂獣を起こすような古典的な真似は絶対にすまい」
とリモスは心に決め、無事にその場を通過した。
そのまま流されていくと、ぽっかり空いた空間に出る。その苔むした場所には、配置された石造りの建物跡がある。きわめて古い様子でも、生活の遺構がそこにはあった。一目見ただけではそれが怪物文明のものなのか、あるいは人間のそれなのかはリモスには分からない。ともかくこの遺跡に出口は無さそうであるため、リモスはさらに流されていった。
ややあって暗闇の水中の中に差す明かりが見えた。その方向へ泳いでいくと、踏ん張らなければすぐに流されてしまいそうなほどの岸辺に泳ぎ着き、極めて小さな空間があるのを認めた。光の方向へ視線を伸ばすと、なんと岩の亀裂があり、陽の光はそこから差し込んでいるようであった。
「太陽だ。ここからなら地上にも出られよう!」
喜び勇んでリモスは崖をよじ登っていく。途中、幅がとても狭くなっている足場で一息をつくリモスだったが、良く見るとその地面は甲羅のようであった。
「甲羅……亀……亀の怪物の甲羅か」
それはしばらく前、リモスらが都市エローエを占拠した後、リモスが猿の怪物と洞窟の開発計画を進めている頃に、シャチの怪物を追跡していった亀の怪物の亡骸だ、とリモスは考えた。シャチに追われてこの場所に逃げ込んできたのか、脱出を試みて甲羅が邪魔になり動けなくなったのか、それはリモスには分からなかった。
「水中を進むというその道一本、道なき道を切り拓いて道半ば斃れたのか」
実のところ、その死体が亀の怪物のものという確証は誰にもなかったのだが、リモスは同じく弱体な怪物の一体として、その生き様に深く感銘を受けたのだった。そして、岩を砕いたような跡があるため、この亀が光を求めてその歯で掘り進んだのだろう、とリモスは結論付けた。亀の殉死を想像し勇気を逞しくしたリモスはそのまま這い上がり続け、見事外界へ脱出したのである。
リモスが出たのは、谷にほど近い岩場であった。この暗く湿った寂れ谷はかつて、妖精女たちが棲みグロッソ洞窟の輩たちが寂しさを癒す世話になっていた場所である。夜に来る事が多かったとはいえ馴染みの客であったリモスには、特に見覚えがある地形でもあった。さすがに人間達の包囲網は及んでいないが、周囲には怪物や動物の気配も感じられなかった。難民の集結を前に、息をひそめて隠れているのだろうか。協力者を得られそうもないので、リモスは一体孤独に出発する。目指すは怪物達の諸集落。トカゲ軍人らがそこに向かった理由は、新参者であるトカゲ軍人が魔王への名乗りを行うために、怪物らの間に名声を打ち立てに外出したためだ。グロッソ洞窟近隣からはみ出ているとはいえ、名を売っておく必要があったのだ。どの集落にトカゲ軍人らがいるのかもわからない。だが、ここまで来た以上、行かねばならなかった。
しかし、命がけの行動に打って出たリモスに幸運の女神は微笑んだようだった。林の藪の中で信じられない事に、帰路に向かっていたトカゲ軍人のパーティと遭遇する事が出来たのである。これはリモスにとっても幸運であったが、新しい秩序の建設者を目指すトカゲ軍人にとってはまさに命拾いであった。支配者として営業活動に出ている間に本拠地が攻め落とされたとあっては、魔王の座は遠ざかるだけであったのだから。それを理解しないトカゲ軍人ではなかった。故に、この野心高き怪物は、リモスが説明を始めたグロッソ洞窟の危機への訴えについて、一言も漏らさないように傾聴するのであった。
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