第51話 同時多発インフレ
バンシー軍人の拠点付近で勇者黒髪率いる少数の部隊に対して完膚なきまでに敗北した人間諸国の連合軍は、そのまま自然解散となった。本来の軍事目標である帝国の救出は勇者黒髪によって達成され、救出なった帝国の統治問題は黒髪が皇族へ全権を返還することで実現してしまっていたから、やるべきことが無くなってしまったのである。尾羽打ち枯らして敗残の身をさらした諸国の指導者たちだが、彼らには帰国後も困難が待ち受けていた。
その原因は、敗北に加え、魔少女が張り巡らせた陰謀の余波にある。彼女がばら撒いたリモスの金は、妖しい光を放つ。そもそもは勇者と人間諸国の連合軍を確実に対決させるためのものであったが、当初の目標を超えて、効果を発揮し始めていたのである。
一つは、政変である。怪物と繋がっている、ともはや誰も疑う事のない勇者黒髪から「贈られた」形をとっているその金を巡って、既存の権力者が各々の競争者たちから攻撃を受けるようになってしまったのである。これは河向こうの王国で特に顕著であった。この国の王は黒髪に勇者の号を授けた張本人だが、同時に黒髪に対して懲罰的戦いを求め、敗れていたため、その名誉は損なわれていた。加えて、勇者との戦いで戦場に斃れた騎士たちの多くは、この王の直参であったから、むざむざと帰国した王には付き従う騎士たちもいないのだ。こんな有様であったため、王の足元を見た貴族たちは、あるに違いない『怪物との密約』を非難して反乱を起こし、王国は大混乱に陥った。そして似たような事が、リモスの金を贈られた諸国でも発生していたのだ。
「金は人の心を狂わす魔の妙薬、魔女の本懐を遂げた気分」
と、この思わぬ副作用を知った魔少女はしみじみと頷いていたというが。
二つ目はインフレの発生とそれに伴う物価の上昇である。諸国に散ったリモスの金は、汚らわしい怪物の金だ、という汚名はそのままに、市場に流通していった。これはなんら不思議ではなく、内乱の結果、勝者が罰金として接収していく事で、市場経済に還元されていったのだ。どの国でも金は多額の決裁で用いられる。恩賞、俸給、高価な武具や不動産、芸術品などの高級品だけでなく、日常品を大量買いする場合でも使用されるのだ。内乱の勝者たちがリモスの金を用いて物資の独占を行うと、当然、下々の連中は困る事になる。昨日までの価格が跳ね上がるのだから、生活に困難を来すようになる。さらに困った事に、魔少女は多くの範囲に渡って巧妙に金をバラまいたため、近隣の町や隣国でも物価上昇は発生しているのだ。例えば、広く流通していた薬草なども、銅貨や銀貨で決済していた物が、この時、金貨八枚で売買されていた。一般的な布地の服など金貨十枚である。こんな調子で、食料品や日用品の価格も天井知らずに上がっていったため、貧しい人々はインフレ地獄から逃れる術が無くなってしまった。物価が上昇しても、彼らの賃金や給与は据え置かれたままであったからだが、物の価格とは異なり、人の価格を上げるには暴力的な手段が必要になるのに、それが自然発生するにはまだ時が至らなかった。しかし、やはり人々の生活は苦しさを増していくのだ。諸国では、政変とインフレがほぼ同時に発生している為、政府の支出は拡大の一途を辿り、物価上昇に拍車をかける一方であったし、満足なインフレ対策など実施される事は無かったため、徐々に、国を捨てて逃げ出す民が現れ始める。怪物の流出の次は、人間の流出である。違いは、怪物が政治的難民であったのに対し、人間は経済的難民であったということだ。すなわち、生きる為に、難民にならざるを得なかった。
魔少女が予期しなかったリモスの金がもたらした最後の効果は、勇者黒髪の評判が地に堕ちた事だろう。無論、諸国の指導者層にとって、もはや黒髪は勇者とは呼べない存在であったが、怪物を退治する事で生活に安全を与えてくれたことを、庶民は忘れていなかったのだ。しかし、勇者がばら撒いた、とされた金のせいで発生したインフレは、人々の生活を締め上げ苦しめ続けていた。彼らは、
「なぜ勇者が金をバラまいたか。怪物と止むを得ず関係を持った勇者が弁解のために金を持って評判を維持しようとしたのだ」
と解釈したが、生活が苦しくなるや、
「魔王の都でたんまりゼニを儲けた勇者は金で地位を欲したに違いない」
と悪い印象で捉えるようになる。黒髪が勇者で居られる場所は減少していく一方であった。
今回の戦役が終わるや、山を越えた先の帝国の領土からは、ほとんどの怪物達が勇者黒髪の強制により未来都市へ『帰宅』していった。道中の人間に対する怪物の略奪騒ぎもあまり発生しなかった。よって、勇者の軍事目標は達成されたのだ。黒髪はこれから、未來都市に戻した彼ら怪物達の生活を回してやらなければならない。
未來都市が影響を与えたり受けたりする経済圏は近隣では最前線の国、遠くは交易都市までである。幸いにも、この二つの国は人間諸国の連合軍に不参加であり、政変も無く物価の上昇も混乱を招くほどではなかった。だから、金銭的な理由で路頭に迷い、国を捨てた人間の経済難民はこの地域に流入するのだ。まず、どこよりも豊かな交易都市へ。次いで、平和を取り戻した最前線の国へ。怖いもの知らずの者どもは、未來都市へ。次は、怪物世界へ人間たちが接触を求める番だ。それも生活の糧を得るために。
ところで、同時多発的に発生したインフレの影響でボロ儲けしている場所もあった。それが、グロッソ洞窟の「アイテム売却所」である。魔女の甥っ子が運営しているこの店は、どんなアイテムでも買い取り、金と交換する場所だ。この施設があるからこそ、怪物世界は日用品を手に入れやすくなり、人間世界は金を得る事が出来るのだが、多くの人々が金を求めてこの噂の店で取引をしたがったのだ。
例えば、ある男が小麦粉を購入するために町の店へ行くが、金でないと取引をしてくれない、と突っぱねられる。困った男は、家にある日用品、鍋、包丁、服、秘蔵の石鹸、精製油、薬、机、椅子、つるはしなどをこの店に持ち込む。すると、物品に応じて「アイテム売却所」は金と交換してくれるのである。この時、男は金貨四十枚分に当たる、二百グラムの金を手にし、すぐに小麦を買いに行く。インゴット二枚分だ。秘蔵の石鹸と精製油が高値をつけたらしいが、これだけあれば家族はしばらくたっぷりと食事をとることができるのだ。
次の男は、自分で怪物の巣くう洞窟へ足を運ぶ勇気はなかった。だから、仲介を頼むのだが、町にいる評判の良くない商人に手数料を払って物品を預ける。この闇商人は、都市エローエにいる、とある有力な商人へ話を掛け合う。するとこれくらいの金だ、という返事が来るから、その金額から手数料を引いた分を、勇気の無い男へ渡す。男はその金で食料を買いに行くが、一方の闇商人は後日、溜まった物品を携えて都市エローエに向かう。彼が荷を下ろしたのは、肥満と強気な商売で有名なデブの商人の館だ。
怪物と人間を取り持つのは、相変わらずこのデブの商人の独占であった。かつて勇者黒髪の一党であった彼は、このインフレ騒動の最中、仲介の労を取る事で莫大な財産を形成するに至る。
「チャンスを活かせない奴は死ね!」
が、この時の彼の口癖。政治基盤こそ都市エローエに置いていたが、生まれは河向こうの王国である。だから、この王国で発生した内乱にも無関係ではいられない。追い詰められた王側と、有力貴族側双方から協力の依頼を受けていたが、どちらに付くかを商売人のしたたかな目で見極めんとしていた。そして、一方へ承知した旨の手紙を送った事が、都市エローエにとっては重要な隣国である河向こうの王国に大きな騒動をもたらす事になった。これには、未來都市へ帰還し、政務を執り始めたばかりの勇者黒髪にも大きな関りをもたらす事となる。
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