第16話 インフレ

 インフレ。この現象が顕著になるや、都市エローエには一気に政治的緊張が走り始めた。統領とんがりは頭を抱えて傍らの翼軍人にこぼした。


「ミーはこれまで暗殺者を発生させないように細心の努力をしてきた。それはつまり、社会秩序を守ることだ。上手くいってたはずなのに、どうして急にこうなってしまうのか。あっちを立てればこっちがたたず、とはまさにこのこと。ヴォロ殿、これが人の世のあらましだ。本当にクソなんだよ」


 ヴォロとは翼軍人の名であるが、この怪物は悩める統領にいつも通りに滔々と回答する。


「悩むには及ばない。こんな時の対策を、お前は温めてきたはずだ。お前たち人間の言葉では切り札、とでも言うあれだ。とっておきを見せてやればよい」


 これは正しい指摘であったのだが、そのとっておきを見せつけてやることができるか否かは統領とんがりの素質にかかっており、独裁者には未だその決断がつかずにいた。以下、とんがりを追い詰めた現象を記す。



 一年ほど前に戻る。権力奪取の直後、情勢が安定の兆しを見せ始めるやとんがり政権は腰を据えて金貨を発行し始めた。その名もトンガリーノ金貨。金の純度九十三パーセントで、それまで流通していた都市金貨の七十七パーセントよりも良貨だった。この金貨の元は当然リモスからの支援金であり、額面と金の差額でとんがりは大いに収益を上げ、そのシニョリッジは傭兵らへの給与の元にもなった。信頼度の高い雇用主に囲われた懐温かな傭兵たちの出現で、都市は好景気に沸いた。これは都市の景気にとっては、六度目の攻防戦で二百名もの市民を失った損害を補って余りある推進力だった。すなわち、都市エローエの経済力はとんがり政権の下ではるかに強大になったのであるが、それを為した経済力の源はリモスの金にあるのを忘れてはならない。


 この状況の下とんがり政権による平和な統治が一年経つと、物価の値上がりが都市の庶民たちの財布を苦しめ始める。特に食料品、武具、酒の売価が上昇する。全て傭兵らの必需品だ。物価上昇の主因に、都市にも広くリモスの金が出回るようになったことが挙げられる。つまり、傭兵らは給与を金貨で受けるが、それが銀貨銅貨に交換されたり、不動産の購入など高額な売買に使用されたりするということだ。金は貯蓄以外にも用途がないわけではないのだった。


 市民たちは統領とんがりがグロッソ洞窟と結びつき、金の流入を促している事実を、明確にではないにせよ、おぼろげに噂で知っていた。噂が様々な形で広がると、金の流入が以後も続くだろう予測も広がり、物価の上昇が勢いづく。すると、生活を脅かされた下層民が不穏な動きを見せ始める。元々都市に住んでいた者の他、インフレの結果、小作人等立場の弱い人々もより多くの収入を求めて都市に流入する。もっと貧しい連中は、物価上昇のあおりを受けて生活が苦しくなると、彼らは食える仕事を探してとりあえず都市に集まるのだ。さらに連中は失う物も少なく、過激に走りやすい性質を持つ。都市で厄介者扱いを受け明日をも知れぬ生活を続ける彼らには、怪物の立場に近い我らが統領とんがりを糾弾せずにはいられなかった。貧乏人とはいえ、彼らの心に残された人間最後の誇りをおわかりいただけただろうか。


 だが、この時の下層民には指導者となる人がいなかった事がとんがりには幸いした。都市からとんがり追放を目指す戦士ハゲや釣り目の僧侶は富裕層であるため下層民からは遠い存在だったし、唯一主導できそうな経済的階層にいた黒髪は、この時他国にいた。


 統領とんがりは下層民の怒り、物価上昇への抗議に反応してすぐさま手を打つ。まずは福祉政策として、下層階級への食料の無料配布を決める。これでとりあえずの怒りを沈静化することには成功したが、放置はできない。しかし、抜本的な解決方法が見つからない。次いで、時間稼ぎのために公共事業が計画された。戦争が出来ればそれに越したことは無いが、暗殺防止のため平和路線を固守するとんがりにはそれは考えられない。こうして、都市の南に広がる荒れ地の農地適正化工事が実施に移された。この施策によって、統領とんがりは下層民たちの不満を回避しその支持を新たに得る事に成功した。


 だがこれも根本の問題解決ではなかった。金の都市流入が続く中、物価上昇も止まらない。議会の「議決」を持って食料の値上げを禁止させるが、全く効果があがらなかった。これはある意味当たり前で、食料の調達にかかる諸費用が高騰しているのに、販売価格を上げなければ商売が成立しない。とんがりが無料配布のため買い集めた食料も、底が見え始めていた。こうなっては、リモスの金が巻き起こしたインフレが及んでいない他国より食料を輸入する他、道は無かった。


 これは上手くいった。都市エローエの食料備蓄庫に大量の食糧が運びこまれると、それを見ていた市民たちの自発的な判断によって、つまり他人より損をする事を避ける為、食料価格は落ち着きを取り戻した。ようやく危機を乗り越えたと、とんがりは汗を拭ったことだろうが、行き場をなくしたリモスの金の動きは、さらなる活躍の場を求めて猛り狂う。物価上昇の気配は留まることを知らず、特に都市の不動産の価格が急上昇をし始めた。これが賃貸料に及ぶと、都市在住の下層民は住処を追われる恐怖に脅かされるようになった。ここに至って、下層民の怒りはとんがりよりも、都市の富裕層、特に市議会議員に向けられ始めた。だが、彼ら富裕層が恐れるのは独裁者とんがりのみであり、戦争にも特別寄与しない下層民は眼中に入ってすらいない。これは貧富の差のふり幅が小さいこれまでの都市の歩みが、エローエの歴史に下層民の蜂起を記していなかったことによるだろう。


 なんとかインフレを抑えようと思案する統領は下層民の怒りをバネに、富裕層の持つ資産への課税強化を検討する。だが、これを実施するという事は、議会を完全に敵に回す事にもなる。統領の「決定」を極力避けて、議会の「議決」をひたすら尊重してきたとんがりに、出来る事ではなかった。これまでとんがりの統治をある意味では認めてきた議員たちと直接対決せねばならない事態は避けたかったのだ。翼軍人の言う切り札とはすなわち、下層民を扇動しての革命を、軍事力を持って導く事であった。しかし、決断がつかないとんがりを翼軍人正面から批判して曰く、


「これまで軍隊を育ててきたのはこういう時の為ではなかったのか。闘う事を厭う者は軽蔑を受けるぞ。課税された富裕層が歯向かってきても、お前の兵はお前の側に必ず付く」


 悩める独裁者をそう説得する翼軍人だが、とんがりの本心を理解する事は遂にできなかった。犯罪者として名を馳せた過去、人間世界に失望していた彼は今、「クソ」のような人間世界に独裁者として君臨することのみに希望を見出していたのである。犯罪行為の結果、手配され、追跡され、町を追われる。賞金首がかけられれば、賞金稼ぎにも狙われる。それは二度とごめんだった。もう、人間たちと敵対したくなかったのだ。それを視野が狭いのだ、と詰るは容易だが、誰もとんがりに、決断を促せずに、いたずらに時が過ぎる。


 悩めるとんがりは、課税案に代えて搦め手の実施に思い至る。それは、これまで都市が定めていた伝統的な金利の上限を撤廃する、というものだ。金利が著しく上昇すれば、借り手も慎重になり投資熱も冷め、投資に回っていた金が貯蓄に戻るだろう、という見立てである。しかし、この目論見は見事と言って良い程に外れた。そして、この政策こそがとんがり政権の息の根を最終的に止める事になるとは、誰も思わなかっただろう。


 金融の規制緩和政策がなぜ上手く行かなかったかを知るには、このインフレ騒動によって極めて豊かになっていた都市の有力市民たちの動向を見る必要がある。貧富の差が広がる中、下層民への慰撫対策を独裁者とんがりが行ってくれたため、富裕層は身の危険を感じる事無く安心して収益を上げる環境に身を置く事が出来たのだ。金が余り続ける中で、金利の上限が撤廃されるとどうなるか。彼らは投資先、融資策をむしろこれまでよりも争って見つけて様々な事業に進出していくようになる。富裕層にとって金利の上昇による損害は多少であることが想定され、またこの時の彼らは、その程度のリスクでは怯まない精神状態にあった。となると、彼らは主に危険も大きいがチャンスも同様の国外へ進出する。そしてその総決算として、富裕層は戦争を求め始めたのである。


 とんがりは、猛威を振るう金の暴走を鎮めようとしたが、それに失敗したと言える。リモスの金に依存してきた彼にとっては、痛烈なしっぺ返しであっただろう。


 人間世界に国が乱立している以上、それぞれの法律や規則があり、外国人やその資本の流入を防ぐ各ギルド、規制、制約が存在する。それらを一気に破壊できるのが戦争であったのだ。彼らは戦争を統領とんがりに求め、議会でも提案され続けるようになる。グロッソ洞窟の安全及び自身の地位の保全のため、どうしても平和を希求していた統領は、それらの提案を全て却下してく。だが、徐々に統領としての「決定」で、議会の「議決」を覆す事態に陥ると、統領と議会の対決が白日の下に晒されてしまった。あれ程、使用を控えていた統領の「決定」が議員たちの前に露骨に立ちふさがるに至り、とんがりが心配していた通り、反とんがりの気運が高まり始めたのだ。これは急激な変化であった。裕福になり金が余っている都市の富裕層は、際限なく好戦的になっていった。加熱する士気は、未だ反怪物の精神と結びつくには至っていなかったが、二つを結びつける決定的な要素がついに都市へともたらされた。


 本章の冒頭の如く統領とんがりが対処に苦労しているその時、勇者黒髪、都市エローエへの帰還間近、の報が市内を駆け巡った。

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