6.特別

「――田中君とは、仲がいいんだよね?」

 学校近くの児童公園のベンチ。空は既に半分蒼暗く、地平線近くでは太陽が僅かな輝きを灼きつけている。

 二人、コンビニで買ったホットスナックで黙々と腹を満たす。コーラのボトルを口から離し、一息ついた部長は、何気ない口調でそう尋ねてきた。

「……ええ、まあ、はい」

「彼女は少し、人との接し方に問題があるようだね」

「……返す言葉もありません」

 風が木々を揺らす音がする。赤く染められた千切れ雲が、薄青の空に漂う。

「これはいずれ彼女にも言おうと思っていることだけれど――」

 ペットボトルを脇に置いて、部長は真剣な面持ちに切り替わる。

「演劇は、人との関わりで作っていかなければならないものだ。スポーツの個人技とは訳が違う。誰か一人が大きく優れていたところで、素晴らしい舞台ができたりはしないんだよ」

 部長は親指で眼鏡のブリッジを押し上げる。その奥に見える瞳には、思慮深さが見える。

「だからこそだ。分かりやすい言葉を使うのなら、協力。同じ目標に向けて各々が自らの責務をきちんと果たすこと。決してみんな仲良くなんて強制はしない。しかし、自分勝手な主張がぶつかるだけでは、いいものは決してできない」

 ――協力。協調。同じ目標を持つひとつの集団にとって、大切なもの。

「我々はプロじゃない。十分な経験を積んだ人間など一人もいない。今となっては指導者だっていないに等しい。そんな中で、芝居を作り上げていくのは、受け継がれてきた知恵、それぞれが持ち寄る意見、そういったものでしかない。それらを最大限、自分たちの血肉に落とし込んで、舞台に向き合っていく」

 その一言一言に、確かな重みを乗せて、先輩は続ける。

「だから、仲間というものは何よりも大切なんだ。演劇部は、人間関係だけで成り立っているような部活だから、そこが崩れたら前に進めなくなってしまう。逆に言えば――極論だけれども、それさえあれば、その身体ひとつだけで、素晴らしい舞台をも作ってしまえる。……それを体現してみせてくれたのが、ひとつ上の代の先輩たちなのだけどね」

 ひとつ上の代――悠歩先輩たちの代。ここにもまた、あの人の影。

「新歓公演は、観に来てくれたかい?」

「あ、はい」

「あの公演に取り掛かり始めた頃、我々代はものすごく仲が悪かったんだ」

「……そうだったんですか」

「でも、先輩たちが練習に入る段階になってから、空気は変わっていった。悠歩先輩の提案で一度、腹を割って全員で話し合った。皆涙を流しながら、心の内を吐露した。それぞれに抱いていた不満や憤りも、全て伝え尽くした。それをきっかけに我々は少しずつ、互いに歩み寄り始めた。気づいたら後輩ができて、先輩たちの最後の公演に向けての練習が始まった。先輩たちは一年も二年も巻き込んで、本当の意味で〝全員で芝居を作り上げていった〟。そうして夢中になっているうちに、我々代に残っていた最後のしこりも取り払われていた」

 こちらに顔を向けた部長は、俺の目を確かに覗き込んで、力強く言う。

「引退間際、お前たちはもう大丈夫だ、と前部長に言ってもらえた時、我々は確かにこれからの演劇部を、託されたんだ。――だから、何かあったら、遠慮なく言ってほしい。必ず、君たちの力になる。だって私は、我々は、あの先輩方の意志を継いでいるのだから」

 受け継がれていく意志、続いていく歴史。演劇部には、そんな物語がある。


「……ところで、君たち仮入部の二人は、随分と先輩に気に入られているようだね」

「え、っと……」

「悠歩先輩と智佳先輩のことだよ」

「……はい。知り合ったのはたまたまですけど、よくしてもらっています」

「よくしてもらっている、か」

 そう呟いて、部長は空を仰ぐ。――視線を足元に落とし、ぽつり、

「私は、悠歩先輩のような人になりたいんだ」

 ――悠歩先輩に憧れる人が、ここにもまた、一人。

「優しく、暖かく、仲間のことを想い、自分たちの代だけでなく、部活の未来のことも考えながら、皆を導いていく。いうなれば彼は、太陽のような人物だった」

「太陽……」

 ふと脳裏に、あの眩しいくらいの笑顔が浮かぶ。

「そのいい意味でずる賢い、裏表のない笑顔。誰しもを対等に、評価し成長させてくれる存在。冷静で、しかし情熱的。あの人の存在は、真似しようと思って真似できるものじゃない。深みがあって、重みがある、そんな生き様。透徹した精神。見た人を惹きつける眼差し。士気を高め、奮い立たせる言葉。誰しもが彼の想いに呼応する。巻き込まれていく。嬉しさ、悲しさ、悔しさ、楽しさ、その全てを、魂で、共有する」

 言いながら、徐々に言葉に熱の籠っていく先輩。尊敬と愛情が、空気を震わせる。

 ベタ惚れだ、というくらい、悠歩先輩に心惹かれているらしい。

「そして、先の喩えを引き継ぐなら、副部長だった智佳先輩は、まさに月のような人だった。時に昂ぶりすぎてしまう太陽を鎮めながら、一歩引いた場所で見守ってくれる。太陽が路頭に迷い、我々だけでなく彼さえ暗闇に立ち尽くしてしまう時も、太陽から蓄えていた光で以て、我々の現在位置を、行く先を、照らしてくれる。女神のような存在だった」

 顔を上げ、遠く、淡い空を見据えながら、部長は情熱的に、言葉を継ぐ。

「そんな太陽の光を浴びる三年生たちはみな、輝く星々だった。それぞれが各々の役柄をきちんと把握し、適切な連携で最高のパフォーマンスを魅せる。まばゆく輝く彼らはまさに、巨大な銀河系のようで……――なんて、少し比喩が詩的すぎるな」

 はっと、我に返ったように部長は笑う。照れたように、眼鏡を押し上げる。

 陽が沈んでいく空を見上げた。太陽、月、瞬き始めた星が同時に輝く、永遠のような一瞬。

「悠歩先輩に導かれた三年生の団結はとても強固なものだった。導かれた私たち学年もまた、大きな成長をさせてもらった。まだまだ彼らには届きそうもないけれど、あの先輩たちの直接の後輩で、本当に幸せだったと私は思っている。きっと皆同じように、誇りに思っていることだろうと思う」

 ほんの瞬間の、鮮烈な世界のグラデーション。その情景の中で、淡々と、しかし熱情的に重ねられる言葉。誰かが誰かを想い、慕い、そうして続いていくもの、継いでいくもの。

「だから、恩返しなんだ、これからは。今君たちが取り組んでいる公演だって、例外じゃない。先輩からもらったたくさんのものを、君たち後輩に、さらにその先の未来に、繋いでいく、その始まりなんだ。……そして願わくば我々も君たち後輩に、我々にとっての先輩たちのように慕われながら、引退していきたい」

 真摯で、曇りのない真っ直ぐな言葉が、届く。伝う。この胸を打つ。

「君たちを、導いていきたい。我々もまだまだ力不足かもしれない。田中君から受けた指摘も、実際その通りであるとも反省している。一緒に成長していけたら、と心から思うよ」

「いえ、そんな――あの時はすみませんでした、ほんと、無礼を」

「いいんだ、むしろあれでいいんだよ。芝居を作る場においては、先輩も後輩もない。皆対等だ。――と言ったのは、悠歩先輩だったけれど、君たちが本気でぶつかってくれるからこそ、先輩である我々もまだまだ成長ができる。無論、我々だって本気でぶつかる。私や二年生たちが間違っていると思った時には、遠慮なんかしなくていい。ちゃんと君たちの意見を尊重する。本気で来い。その時はボクたちだって、本気でぶつかり返してやるからさ」


 ……ボク?


「――っと、思わずボクだなんて言ってしまった。キャラ崩壊というやつだな」

「あ、それってやっぱキャラなんですね」

「……気づいたらこういうキャラ付けをされていたんだよね。悠歩先輩の発言が始まりだし、割と気に入っているからいいんだけどさ」

 ハハハ、とキャラが半分素が半分で、スワベ君――諏訪部先輩は笑う。一緒になって笑い合う。賑やかさが収まると、先輩はふっと、表情に陰を落として、どうにか聞き取れるくらいの小さな声を、零した。――それは確かに、ぽろりと、零れ落ちた言葉だった。


「羨ましいよ」

「……え?」

「悠歩先輩に気に入られているなんてさ」

 その言葉の余韻は、宵闇に融けて霧散するように、か細いものだった。

「部活外なんだから、我々とは違った関係性を築けることは分かってる。でも、あの悠歩先輩が、智佳先輩が、部員でもなかった君たちのことを気に入っている。あの二人のお墨付きだなんて、もらおうと思ってもらえるものじゃない。君たちは……特別なんだね」

「え……あ、あの……」

「それは、誇っていいことだと思うよ。少なくともボクには、喉から手を伸ばしても、掴み得ないものだから。――そしてできれば、そんな君たちと、今回の公演が終わってからも、是非一緒に演劇部を作っていけたらって、そんな風に思うよ」

 改めて、諏訪部先輩は笑う。普段のような固く、大らかな笑顔ではない。繊細で、剥き出しで、ありのままの、どこか寂しげな笑顔。


 特別。


 それは思いがけない言葉だった。こんな自分が、誰かに「特別」と言われることなんて、ないと思っていた。だって俺は――平凡で、大した取り得も、自慢できるような思い出も、すごい才能も、なにもなくて。

 田中真由子みたいに振り切れることも、悠歩先輩みたいになることも、智佳先輩みたいになることも、岡野や、石川や、狭山や、山田さんや、三橋や、森田少年や、ナベさんや、諏訪部先輩のようにも、なることはできなくて。

 そんな俺が――特別?


 小さく輝く星がひとつ、目に飛び込む。ぼんやりと見つめると、吸い込まれそうになる。

 遠いものだと思っていた言葉。でも、もしかしたら、いや、そんなことは――――


「……すっかり暗くなってしまったね。そろそろ帰ろうか」

 部長が立ち上がる。意識は児童公園のベンチに戻ってくる。


 自転車で並びながら、坂道を下っていく。灯り出した街の灯りが煌めいて、揺らいで。

 生温い風を切る、そんな情景は、なんだかとても、青春っぽい感じがした。

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