沙塵

奥手章擧

沙塵

 一


 男が気付いた時、邉り一面には砂地が広がっていた。何處迄も砂粒さりゆううごめく、そんな砂地である。随處に転がる岩だけが、此の黄色おうしよくに濁った寂寞せきばくたる景色の中で、精一杯其の存在を主張しているのみであった。

 此れは一体どう云う事かと、男は狼狽ろうばいする。

 此處が何處であるかなど、男には分からない。然し、此の梔子色で覆われた空閒の中で、自分が余りにも場違いな存在である事は朧気ながらも理解出来た。



 二


 普段なら殆ど着の身着の儘である筈の男は此の時、幾許いくばくかの金を處持していた。茶色く錆び、何處となく氣難しげな様子を浮かべる其の金は、男が質屋からくすねた贓物ぞうぶつである。

 質屋は、博打で出来た借金に首がまわらなくなった際、博打仲間の一人に紹介されて知った。如何に放埓ほうらつな生活に身を委ねようとも、金が無ければ儘ならないもので、每度そう云った場合は誰かに縋るのが、男の定式だつた。

「何ァに、俺が世話になった質だ。瞞着インチキしたりとか、そう云う小狡い處じゃあない」と其奴が笑っていたのを思い出す。今でこそ、博打でかなり儲けている友人だが、借金塗れの頃は此の質屋に足繁く通っていたと云う。

 質屋に行くと、エイと力を込めれば容易く折れてしまいそうな、枯れた爺が煙管を揺らしていた。

手前テメエも金に困るようなら此處を頼るこったな」

 新紙を丸めたようなグシャリとした顔が、妙に頭に焼き付いている。一擧一動に至る迄が粗雑で、家の中も、質草と調度が其處彼處そこかしこに散乱し、足の踏み場も無い始末だった。

 だが其の癖、此の爺、こと金に関しては、一切妥協はしてくれない。一分でも遅れれば、男が入れた質草は直ぐに流されてしまう。こうして半年も経たぬ内に、質草として家の殆どの調度が姿を消した。

 ――巫山戯るなッ! ……かつては自分の物であった筈の調度が次々と無くなっていく様を見て、男は頭を掻きむしった。

 元来、質屋とはそう云う物である。然し、男は今迄、何をしても泣き付けばことほか何とかなってきた。其の方法が初めて通用せず、木片を削いでいくように徐々に物品を奪い取っていく爺に対し、男は猛烈な敵意を抱いたのだった。

 其れでも男は博打をし続けた。博打が此の男の肌に合っていたと云うのも在るが、もう男には博打をやる以外残っていなかったと云うのが、一番の理由である。既に男は、真っ当に働くすべすら忘れてしまっていた。

 そうして来る日も来る日も博打に勝っては負け続け、或る日。遂に爺は「もうお前に質草になるもんなんぞ無いぞ」と男に告げた。

 其の言葉を噛み締める迄には幾らか時間を要した。脳が少時しばらくの間、理解する事を拒んだらしい。

 だが其れも長くは続かず、男の頭を爺の告げた言葉が嫌と云う程打ち鳴らした。男の視界が急激に狭まり、見る物全てが真紅に染まる。

 今まで爺の脛を散々齧ってきた。然し、今はもう齧り付く為の歯すら無くなっている。此の事は彼にとって死刑を宣告された様なものであり、告げた爺の姿は死神を想起させた。

 爺は、其れだけ云うと、話は此れりだとばかりに男に背を向ける。小さな背中であったが、男には其れが自分の丈より遥かに大きい――丸で此の世の全てから落伍者のレッテルを貼られ、背を向けられてしまったように幻視した。

 ――何もかも、此の爺のせいだ。男の脳裏にそんな言葉がぎる。

 今迄、散々屈辱を味わった。其れでも地を這い、苦心惨憺してきた筈だ。にも拘わらず、何故か生活は苦しくなる一方だった。何故だ、一山当たれば生活は良くなる筈だ。そう何處か疑問を感じていた。

 だが成る程、其れも此れも此奴の所為せいだったのだと男は膝を打つ。借金にまみれて苦しんでいるのも、貧乏になっていくのも、博打に勝てないのも。全て、此の疫病神が仕組んだに違いない。そうでなければ何故自分がこんなに苦しまなければならないのかと、男は憤慨した。憤慨すると共に、言い知れぬ使命感に襲われた。

 自分が、此奴を成敗してやる。此れからも自分の様な人間を騙し金を奪い去ることを防ぐ為に、悪の権化たる死神を今此處で滅ぼしてやるのだ。そう、自分は其れを成し遂げる為に生まれたのだ!

 名状し難い高揚感に打ち震える。男の其れは、第三者が居れば思わず顔を顰めて了うような滑稽な付会こじつけである。が、男にしてみればそれは正義を謳う大義名分と思えたし、仮令たとえ滑稽な付会こじつけだと云う自覚が有ったとしても目の前の爺をどうにか出来るのならば構わなかったであろう。そう――少なくとも云い訳にはなる、と。

 誰かの質草だろうか、傍に在った氷斧ひょうふが男の無骨な手に握り締められる。誰も其れを咎めない。咎める者が居ない。

 そして、爺の頭上に重たげな影が振り上げられた。



 三


 男は其處で爺を殺し、意気揚々と金を取り上げて店から出た處までしか覚えていなかった。酒が回って、記憶を飛ばす事は今までも度々在ったが、今回の場合は記憶が無いと云うより、瞬きをすると共にいきなり場面が切り替わったと云う風であった。少なくとも、男にはそう感じられた。周章あわてて振り返ると、男が出てきた質屋も無くなっている。

 男は頭が痛くなった。

 ひょっとしたら此處は夢の中なのではないかと梔子色の砂を掬い、手の中で弄ってみたが、掌でちくり、ちくりと転がる其れは間違いなく本物であった。

 目の前の砂地が現実だと知れた事で、男はにわかに喉が渇いてきた。身体が、己れの危機を自覚したのだろうか。渇きを意識すればする程、毛孔という毛孔から諸有あらゆる水分が気化していくように錯覚する。

 水を求め、男は砂地を彷徨さまよった。然し当然ながら、砂地には砂ばかりで、みずたまりのような物は無い。仮令たとえ分厚い砂の絨毯を引っ剥いだところで、在るのは固い岩だけであろう。

 すると男の中にまた、あの爺に抱いたような憤りが、ムクムクと鎌首をもたげてきた。何処かへと、打つけてやりたい。男は漠然とそう思い、其れは今立っている地面へと向けられた。

 普通であれば、其れは赤子が起こすような癇癪と同義であると解りそうなものだが、残念ながら男は普通ではない。赤子がする様に、悪態を吐きながら砂を蹴った。砂の一粒一粒が爺の顔をして此方を嗤ってくる様に思えてならない。そう思うと更に怒りが湧き上がり、男は手近に転がっていた岩を思い切り蹴飛ばした。

 すると岩がグルリとひっくり返り、その下の地面が蒟蒻のような弾力を持って不自然に揺れる。男は、其れを見ると驚いて、弾かれた様に足を退けた。然し落ち着いて能く能く見れば、梔子色の砂を黒く濡らして何やら生温い物が染みだしている。男は其れが、僅かばかりなる水である事に気付いた。

 歓びに咽が震えた。此の下に水が在る。此れで渇きが癒される。其れさえ分かれば十分である。男は寸暇を惜しんで地面を掻いた。

 すると突然、大きな何かの一部らしき物が顔を出す。其れは周囲の砂と全く同じ色で同化しており、表面は生々しい柔らかさを持っている。石では無さそうだが、と男は其れを掴むと、力を込めて一気に地上へと引っ張り出した。

 そして其れと、目が合う。

 男は声を上げて其奴を放り投げた。先程のような歓びから来る叫びではない、其れは目の前の物体への恐怖による叫びである。男は腰を抜かしたまま後退あとずさる。其の間ですら男は眼球がこぼれ落ちそうな程目を見開き、放り投げた其奴から終始目を逸らさなかった。否、逸らせずにいた。

 男の恐怖も露知らず、その物体は――爺の生首はおもむろに目を開くと、男の方を見てニイ、と嗤ってみせる。

「返して貰おうかァ」

 其の瞬間、突如として男の足許が崩れ始めた。

 足を取られ、転んだ男の身体が、砂に飲み込まれていく。男は悲鳴を上げ、然し、それを聞く人間は誰も居ない。故に、其れは只の獣の咆哮とさして変わりはなかった。

 男の最期の言葉は惨めな断末魔の声として終わり、男の身体は其のまま砂の中へと落ちていき、そうして完全に見えなくなった。

 邪魔者を追い出した砂地が、男が来る前と同じように、渇いた静寂に包まれる。

 男が生きていた痕跡も、爺の首も、もう其處には無い。唯々穏やかな一陣の風が吹き抜けていくばかりである。


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沙塵 奥手章擧 @Shono-Buntai

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