第53話 イグラーシ少年と、ゲール守備隊長

 宿に戻ったヨン・レイは主人に軽食を頼んだ。潰れていたハンスは帰ったらしい。

 熟したカンバショウとその他、地場の果物をいくつか貰い、確保した部屋へと上がっていった。部屋と言っても樹皮織りの厚い敷物に麻織物を被せただけの寝床に、いくつかの棚、それと宿の規模には不釣り合いな一枚鏡のはめ込まれた化粧台があるだけの部屋である。ただ、大きく取られた窓から眼下の街並みが良く見えた。


 預けておいた荷を紐解きながら、先ほど自分が見たものについて考えた。特に、あの海に突き出た建物が気になる。


(街の住民に聞き込みとかをしてみたいところだけど、流れ者が聞くと目立つだろうな)


 そうなれば、あとは公権力に口を開いてもらうしかない。今日は不真面目な兵士一人に酒を奢るくらいのことで済んだが、明日からはもっと上流の人々に口を割ってもらうことになるだろう。


 ヨン・レイは帯の下に巻き込んでおいたものを取り出し、検めた。丁寧に折り畳まれた紙だが、しっかりと封蝋が押されている。


 帝都を発つ前、キュレニックスに頼んで用意して貰った紹介状だ。元属州総督、現在も元老院議員の重鎮であるキュレニックスの名前が入ったこれがあれば、帝国の息のかかった場所なら入れぬところはないだろう。


 ほのかな酸味とまろやかな甘味が口に残るカンバショウの美味しさに心躍らせながら、ヨン・レイは窓辺に椅子を出してグラキエアの街並みを見た。


 陽が落ちるとともに点々と明かりが灯されるが、その数は少ない。人口の差、貧富の差、そして風土の差が未知の景観をつくり、ヨン・レイの感応を刺激した。


 日が没してもなお、日中の暑気は去らずに地表に滞留し、凪の中で肌に汗がにじむ。

 ヨン・レイは寝床に就いた。こんな明媚な地に陰謀は似合わないな、と思いながら、まどろんでいった。



 屋根から降りて窓の鍵を外し、中に降り立った男の第一印象は、なんてでかい男だ、ということだった。


 初めから夜陰に乗じて始末するつもりだった男は闇に眼を慣らしていた。だから明かり一つない屋内でも寝床に転がっている旅人の姿が良く見えていたのだ。


 昼間工事現場を覗き見ていたこの旅人は、丈の足りない敷物から足が飛び出し、静かに眠っている。男はこの者がいかなる人物なのか知らないし、興味もなかった。だが彼の上司にとって不都合な存在なのは知っている。でなければ自分の出番などあろうはずもない。


 男は懐から短剣を取り出した。刃の表面が毒々しい黄色い粘液に浸され、雫が滴っている。南海の密林に棲む蛙から作られる致死性の麻痺毒だ。


 男は慎重に旅人の枕元に忍び寄り、短剣を構えた。一息に胸元に突き刺せば、悲鳴も上げずに死ぬだろう。


 短剣が音もなく眠る旅人の身体に突き刺さった……筈だった。

 次の瞬間、旅人の身体の上に掛けられていた麻織物が跳ね上がり、男の手から短剣をもぎ取った。男は織物を頭から被せられ、さらにその上から羽交い絞めにされた。


 男は必死の抵抗を試みたが、旅人の膂力の方が圧倒的に上だった。瞬く間に両腕を捻りあげられ、床に組み伏せられてしまった。


「これ以上暴れると両腕をへし折ってしまうぞ」腕の下でもがく男に、旅人……ヨン・レイは低い声で囁いた。


 肩の腱がきりきりと捻じれていく痛みに、男は呻きをあげ、やがて大人しくなった。


「さて。お前さんは一体どこの誰なんだ?」

「……答えると思ってるのか」

「いいや」


 詰問しながら、ヨン・レイは男の懐を探って所持品を検める。短剣の鞘、小銭の袋、薬入れ、その他雑多なものが出てきたが、所属を示すようなものは何もなかった。


「ふうん、まぁいい。財布と短剣は置いていけ。黙って帰るなら、命だけは見逃してやるよ。お前の親方に報告するんだな、腕に覚えがあるなら正面から堂々と掛かってこい、そう言っていたってね」


 男を立たせ、ヨン・レイは窓辺まで歩かせると、開け放した窓から男の上半身を突き出した。


「お、おい、やめてくれ……」

「何言ってるんだ? お前さん窓から入ってきたんだろう。なら、帰る時は窓からだ。……ほらっ」


 男の腰に手を回し、ヨン・レイは窓から男を外へ投げ落とした。

 男の悲鳴、その後に地面に落ちる音が聞こえた。この高さならよほど運が悪くなければ死にはしない、ましてや暗殺を指示される程度の男である。


 床に転がっていた毒短剣を拾い上げて調べるが、ありふれた形のものだ。だが口封じを企んできたということは、いよいよ陰謀の主がこの島に巣食っていると見ていいだろう。


 ヨン・レイは戸締りをしっかりと確認し、再び眠りについた。もっとも二度目の襲撃があっても乗り切る自信はあった。


 だが幸か不幸か。ヨン・レイの眠りは誰の邪魔を受けることなく、夜明けの光が部屋に差し込むまで続いた。



 翌朝。宿の食堂で主人の作る朝食を食べながら主人と話した。


「どうだいお客さん。うち特製カンバショウと鯰のサンバルだ。付け合わせに、蒸した稲粒の粉もどうぞ」


「これ美味しいね。甘くて白くて、溶けない雪みたいだ」

「雪ってのはあれだろ。ずーっと北の方で空から降ってくるっていう、あれだろ」こうして旅人といつも話をしているのだろう、宿の主人は聞きかじった知識で、見たことのない雪を想像しながら話していた。


「俺はいつも思うんだ。空から氷が降ってくるなら、そいつを売って回れば大儲けできるのにってな」

「まぁ、この島じゃ氷は高級品だろうね」

「おうよ。つい最近も総督様御用達の商人が、遠路はるばる半島まで行って買い付けたって話だ。こんな一握りの氷が金貨二百枚だってよ。まったく、金ってのはあるところにはあるもんだよな」


 主人は果汁を水で割った飲料を出しながら、働き者の手で握りこぶしを作って話した。

 受け取った飲料は爽やかな酸味があり、目が覚めるようだ。ヨン・レイは主人の口を割らせるべく話を繋ぐ。


「それも全部南海人から取り立てた税金って話じゃないか」

「らしいな。俺は親から帝国市民権を相続したからそう言うのはないけど。生まれてからずっとこの島で暮らしてるから、南海人の知り合いもいるし、そいつらが金で困ってるのも見てるよ。……ちょっとやりきれないけどな」


 主人もこの島の住人として、現在の総督のやり方には疑問がある、ということだろう。


「ごちそうさま。美味しかったよ。……ところで主人、出歩きたいんだが、持って回りたい荷物があってね。どこかで人足を雇いたいんだけど」


「あいよ。ちょいとお待ち……おおい、イグ! イグ!」


 主人は厨房に引っ込むと裏口で誰かの名を呼んだ。

 暫くして主人は日に焼けた顔立ちの少年を一人連れて戻って来た。


「こいつを使ってやってください。うちに食料品を売りに来る一家の小僧です」


 一体いくつくらいなのだろう、少年は背も低く手足も細いが、目は生きが良い。下帯と着古した短衣だけの質素な格好で、呆然とした表情でヨン・レイの顔を見上げていた。


「イグ、挨拶しな」

「……イグラーシ、です。周りの大人たちはイグって言います。|イグラーシ蛇の王なんて生意気だって」


 口の利き方がなんとも達者で、ヨン・レイはこの少年が一目で気に入った。誠実で嘘を付くようでもなさそうだ。


「ヨン・レイ。ヨン・レイ・ハジャール」


 ヨン・レイは椅子から立ち上がり、腰を低くしてイグラーシ少年に手を差し出した。

 びっくりしながら、自分とは違う、大きくてしっかりした手を握った。


「よろしく、ヨン・レイさん」



 宿を出る時、ヨン・レイは駄賃として昨日巻き上げた小銭入れの中身を渡した。


「私の盾を持って、総督府と守備隊の屯所まで案内してくれ」

「分かりました……ヨン・レイさん」

「何だい?」

「これ、帝国のお金じゃないよ」


 イグラーシは受け取った小銭を掌に広げて見せた。昨晩は暗かったためよく分からなかったが、銀貨に打刻された紋様は見覚えのないものだった。というより、元からあった紋様を後から削るなり潰すなりしたように見える。


「これね、ギャセリックの銀貨だよ。僕らはヴィシャ銀貨って言ってる」

「へぇ。知らなかった」思わず眉の先が震えた。尻尾の先が見えてきたぞ。

「なんでこんなの持ってたんですか? 帝国の本土から来たんでしょ」

「昨日優しい人がくれたんだよ」


 イグラーシは怪しんでいたが、黙って銀貨を懐に入れた。


「ついてきて」


 イグラーシは自分の背より大きい盾を器用に背負い、雇い主を先導して表通りを歩いた。

 守備隊屯所は、下町と山の手の丁度中間地帯にあった。帝国様式の角ばった低めの塔を板塀で囲んだ簡易的な城砦、といった造りで、敷地を囲うように広めの側溝が掘られていた。


 ヨン・レイはそのまま近づこうとする少年を抑え、角を曲がる。屯所の正面には門番が一人、あくびを噛み殺しながらもしっかりと目を光らせている。


「どうしたんですか?」

「ちょっと兵隊さんとは仲良しになれなくてね」微笑んで少し離れた所から正門を眺めた。その様をイグラーシ少年が不思議そうに見ている。


 昨日、工事現場を監督していたのは帝国兵に相違なかった。だが昨晩の襲撃者はギャセリックの金を持っていた。


 グラキエア守備隊は今回の件にどう関わっているのだろう。ヨン・レイはそれが知りたかった。

 もし守備隊の全員、凡そ五百人が何らかの形で関与していたとしたら、かなり厄介なことになる。ヨン・レイ一人の手では足りないかもしれない。


 暫くの間、ヨン・レイとイグラーシ少年は周囲の目を盗みながら屯所周辺を見張っていたが、さしたる変化はなかった。


 と、その時。屯所の正門が開く。中から馬に乗った男が一人進み出て、門番に二言三言言葉を交わして何処かへと出かけていく。門番は敬礼でそれを見送っていた。


「守備隊長のゲールだよ。いけ好かない奴さ。僕らを理由もなく苛めるんだ」少年が大人の真似をしているんだろう、しかめっ面を作って言った。


「どこへ行くのかな?」

「あっちには総督府の裏口に続く道があるよ。荷車とかを通すための道路」

「ふうん。どうやら守備隊長殿は総督府へ出向く姿をあまり見られたくないらしい」

「馬鹿なおっさんだよ。あいつが昼間から総督府でおべっか使いながら、ごちそうを飲み食いしてるのは街のみんなが知ってるよ」


 昨日も思ったが、守備隊長ともあろう男が随分と周りから見下げられているものだ。

 とはいえ、今は貴重な現地情報の一つである。ヨン・レイは頭に叩き込んだ。


「イグラーシ。総督府の正面に出るには、どこへ行ったらいい?」

「こっちだよ。ついてきて」


 少年はゲールが進んでいった道とは別方向へ歩き出した。




 少年を連れた大柄の旅行者は、そのまま屯所から離れていく。

 その背中を見つめている数人の男がいた。彼らはその場で別れた。一人は屯所の中へと消えた。

 門番は誰何もせずに彼を中へ入れてしまった。



 

 つけられている。ヨン・レイはそう感じた。イグラーシ少年を立ち止まらせると、背後の気配も動きを止める。間違いない。


(さて……)ヨン・レイは考える。昨日のように組み伏せてしまえるとは考えない。恐らく昨日の男の仲間だろう。複数人、それも白昼堂々の追跡者をやり込めるのは容易じゃない。少年のような協力者を抱え込んでいるからには猶更である。


「どうしたの?」

「いや、ちょっとね」言葉を濁す。


 ヨン・レイは素早く周囲を観察した。ここは富裕層の住宅街、足元は石が敷かれ、側溝がある。両側の住宅は庇を広げている。打ち水をして少しでも涼を取ろうと、下男下女が昼の刻前だというのに精力的に軒先で働いている。商っているのはなんだろう。看板はない。


 ヨン・レイは少年を連れて目の前の庇の下に入った。


「いらっしゃいませお客様。当家に何かご用で?」

「私は旅の者だが、家の主人は居られるかな」

「ええ。ご主人は在宅ですが……」胡乱な目で下男が二人を見る。


 一方ヨン・レイは瞬間的に屋内にある品々を見た。ここには机があり、その上に紙が広げられ、墨、定規、算盤がある。下男の陰になっている棚には、握りこぶし大に切られた様々な色の石が飾られている。


 ここは大工か、少なくとも石工の家と見た。


「実は私は帝都で建築を学んでいる者なのですが、グラキエアでの建築について教えていただける方を探しているのです。そこでぜひ、こちらの主人に教えを乞いたくて参りました」


 腰を低くしたヨン・レイは懐から紹介状を見せた。


「この通り、紹介状も持っています。中身については、直接見せるようにと言われているのでお見せできませんが……」


 丁寧に折られ、封のされた書状を見た下男は得心顔で頷いた。


「左様でございますか。いやぁ、我が主人はグラキエアでも名の知られた石工でございますので、貴方様のお眼鏡にも叶うかと思われます。どうぞこちらへ」


 奥へと通されそうになり、ヨン・レイは不意に腹を抑えて蹲った。


「……申し訳ない。旅先のため水に中ったようで、腹の具合が良くないのです。厠はどこですか?」

「この先を右に曲がったところです」

「ありがとうございます。イグ、おいで。お前さんには厠の前で荷物を持っていてもらわなきゃいけないんだ。ほらほら」


 急に居丈高に口を聞いた雇い主に目を丸くしたイグラーシを連れて、足早に厠のある廊下を通る。

 廊下の先を曲がれば厠があるのが臭いでわかる。ヨン・レイはさっと後ろを振り向く。下男は主人を呼びに行って見えなくなった。


「こっちだ」ヨン・レイは厠とは反対の方向へ入った。


 え、と呆気にとられる間もなく少年は角に引っ張り込まれた。そこは裏口だった。素早く戸口を開き、また閉める。人ひとりがようやく横になれる程度の小さな花壇があるだけで、直ぐに裏路地に出られた。


「ここから総督府までの道は?」

「え? あ、はい。あっちです」

「よし、行こう。少し急ぎ足でね」



 

 男たちは二人が石工の家に入る所を見ていた。身の危険を感じて一時匿ってもらうつもりだろうと思い、注意深く身を潜め、出てくるのを待った。


 だが、いくら待っても二人は出てこなかった。そのうち家付きの下男が首を傾げながら軒先から出てきて道を見回した。


 男の一人が悪態を吐いた。俺たちは撒かれた、と。



 

「厠の近くには裏口がある。汲み取り業者や洗濯屋が出入りできるように、ね」

「なるほど。凄いですね! ヨン・レイさんって」自分たちが誰かにつけられていたことを知った少年は、それを見事に振り切ったヨン・レイの知恵に、また驚いた。


「どうしてヨン・レイさんは追われているんですか」

「さてね。都合が悪いんだろうね」

「誰にとって、ですか?」

「それを知りたくて、私は総督府に行くのさ」


 二人は人目に注意を払いながら、路地を縫って総督府の正面に出た。

 そこは広場というほど広くはないが、綺麗に整備された門が構えられた道に面している。二人の兵士が門衛として立っていた。


 ヨン・レイは少年に目を合わせるために屈む。


「ありがとうイグラーシ。私一人では土地勘がなくて、ここまでうまく事は運べなかっただろう。礼を言うよ」


「そんな、どうってことないですよ」少年は間近に見た依頼主から顔を背け、赤らんだ。

「後は私の仕事だ。そこで、イグラーシ。君にもう一つ頼みがある」

「なんですか、ヨン・レイさん」

「ここで私を待っていて欲しいんだ。荷物の番をしていてくれ。ただし、身の危険を感じたら逃げてくれ。その盾は捨てて行っていい」


「……いいんですか?」少年は自分が任されていた荷物が、この人にとって大事なものだと思っていたからだ。


「いいとも。君の方が大事だ」


 盾を運ばせていたのは、万一戦闘状態になった時の保険のようなものだ。だが総督府の中に入ってしまえば、少なくともギャセリックと思しき男たちからは守られる。


 イグラーシ少年は力強い目で、預けられた盾と、預けてくれたヨン・レイとを見比べ、頷いた。


「分かりました。でも僕、絶対にこれを捨てたりしません!」

「ありがとう。でも、無理しちゃ駄目だぞ」


 少年の頭を撫でてやり、ヨン・レイは一人門衛の前まで歩いて行った……。




「元老院議員の紹介状を持った奴が来ている、だとぉ?」


 間延びした声の主、南方属州総督ラディケイン・ソロスは、自分にそう連絡してきた部下をねめつけた。


 部下は門衛の許可を得てフロントホールで待っている来客が持ってきた書類を手渡す。


「……どう、致しますか?」

「会わないわけにはいかないな。これはキュレニックスのものだ」

「キュレニックス! 元北方属州総督の!」


 部下はその書類に込められた威光に震え上がった。


「通せ。その、ヨン・レイとかいう者の言い分を聞いてやるとしよう」


 部下は一礼し、ラディケインの部屋を出ていく。

 ため息をついたラディケインは、垂れ幕の下に潜んでいた者に声を掛けた。


「どう思われる?」

「恐らく例の件について、でしょうな」

「ふん。煙に撒いてやるわ」

「果たして巧く行きますかな……?」


 垂れ幕の下から、男が一人現れる。屈強な男だ。左腕には青銅で出来た腕輪を嵌めていた。帝国軍では隊長格の人間にのみ与えられる、特別なものである。


 そして右腕には、実に見事な刺青が掘られていた。拳には二つとない紋様がある。三脚巴が。

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