In the Flames of the Purgatory 41

 

   *

 

 それにしても広い敷地だ――各屋外施設をつなぐ舗装された幅の広い歩道をゆっくりと歩きながら、アルカードはちょっと感心して腕を組んだ。

 単に景観のためか、校舎との間を遮る様に桜が植えられている――ちょうど北海道は今が見頃のはずなのだが、残念ながら昨日の雨で花が散ってしまっている。

 さぞや見応えがあっただろうに――地面に水に濡れて散った桜の花弁が大量の落ちているのを見て少しだけ悲しい気分になりながら、アルカードは眼下のグラウンドを見下ろした。グラウンドの向こうが雑木林になっているからだろう、ホームベースから三塁線がこちらに向かって伸びている。かなり広いグラウンドの隣にはテニスコートとサッカーコートが併設されていて、こちらも普段は賑やかなのだろう。さすがは北海道というべきか、土地の使い方の贅沢さが本州とは比較にならないらしい。

 昨夜の大雨のせいでグラウンドが使いものにならないからだろう、野球やサッカーといった運動部の部活動は行われていないらしい――代わりに体育館のほうがずいぶんにぎやかだ。

 体育館の向こうにある武道場からは、バンバンという音が響いてきている。

 たったっという軽快な足音に、アルカードは背後を振り返った。後ろから走ってきた陸上用のタンクトップにショートパンツという若さあふれる格好の数人の少女たちが、道を譲ったアルカードの脇を通り抜けようとして――先頭にいた雪村香苗が足を止める。

「ドラゴス先生、おはようございます」 屈託のない笑みを向けてくる香苗に、アルカードは軽く片手を挙げた。

「ああ、おはよう。部活?」

「いえ、自主トレで」

「香苗ちゃんの知り合い?」 こちらと香苗を見比べながら、別の女の子が彼女に声をかけている。

「ドラゴス先生。薫先生の補助で来た臨時講師の先生だって」

「よろしくね」 軽く会釈すると、アルカードは香苗が話しかけてきたので彼女に視線を戻した。

「先生はなにしてるんですか?」 香苗の言葉に、アルカードは周囲を手で示した。

「ん、今日のうちに学園内をちょっとくらい見て回ろうかと思ってね」

「そうなんですか」 うなずいてから、あまり長いこと足を止めているわけにもいかないと考えたのだろう、

「すみません、わたしたちはもう行きます」

「うん、頑張ってね」 再び雑談をしながら、少女たちが走り去る――ああやってしゃべりながら走るのは、心肺機能の強化には案外悪くない。

 適当に手を振りながらそれを見送って、アルカードは踵を返した。

 眼下の野球グラウンドは二塁側を校舎に向けていて、バックネットから数メートル離した外縁は雑木林になっている。アルカードはグラウンドの外周を廻り込む様にして、敷地の東端の雑木林に足を踏み入れた。

 おそらくは間伐したときの枝の棄て忘れだろう、足元の小枝が折れてパキリと音を立てる。季節的に、まだ蚊がいないのがありがたい――胸中でつぶやいて、アルカードは素早い身のこなしで雑木林に足を踏み入れると、周囲に視線を配りながら歩き始めた。

 だが、二十数メートル歩いたところで彼は足を止めた。

 周囲に人がいないことを確認してから、アルカードは繁みを跨ぎ越えて舗装路に出た。薫が昨日見せてくれた案内板には載っていなかったが、どうも林の中を進む遊歩道の様になっているらしい。

 小道は吸水性を高めるための柔らかい多孔性素材で、赤茶けた煉瓦の様なパターンに舗装されている――ところどころに照明が設けられているが、水銀燈では明るすぎて雰囲気を損なうだろう。曲がりくねっていて視程は利かない。学内で彼女とちょっとした散歩に出るくらいならいいのだが、夜間に駆け足のコースに選ぶのは少々危険だろう。

 アルカードは舗装路を横切って、さらに林の奥へと足を踏み入れた――あまり水はけのよくない粘土質の土が昨夜の雨でぬかるんで、ぐちゃぐちゃという音がお世辞にも気分がいいとは言い難い。

 だがそれ以上に気に入らない感覚が肌を焼き始めていたために、アルカードの意識の中にはそんな不快感など残っていなかった。

 最初はぬかるみの中を歩いていく不快感に顰められていた顔は今では鋭く引き締まり、周囲に油断無く視線を配り、右手はいつでも得物を抜き放てる様に意識を集中している。

 さらに五十数メートルほど雑木林に分け入ったところで、アルカードは足を止めた。

「やれやれ、どうやら当たりなのかな――」

 適当に肩をすくめたとき、背後で粘土質の土砂がモコリと盛り上がった。不格好な泥人形の様な形状のヒトガタが、次から次へと盛り上がり、不必要な部分が削げ落ちて、ところどころから彼枝や芝の生えた骸骨の様な姿を形成していく。

「ふん――」 こめかみのあたりを指で小突きながら、アルカードは唇をゆがめた。

「手近な死体が無いからって、今度は土を触媒に出てくるとはな」

 土で出来た骸骨の群れが、アルカードを包囲する様に円陣を作っていく。アルカードが小さく溜め息を吐くと同時、背後にいた骸骨が飛びかかり――

 ひぅ、という軽い風斬り音とともに、骸骨の体が数か所で輪切りにされた。同時に筺体になっていた土が、ただの粘土質の泥に還る。それが背中に降りかかってきたことに舌打ちして、アルカードはそれだけが地面に形を保ったまま残った骸骨のしゃれこうべをブーツの踵で踏み潰した。

 だが残る骸骨には警戒する様子も無い――生身の脳を持たない彼らは、そもそも思考能力を持っていない。

 潰れた土くれの山の中からにじみ出る様にして現れた黒い靄の様なものが靄はやがて中で渦を巻きながら一ヶ所に凝集し、アルカードの周囲を漂い始めた。

「ふん――悪霊ども、『門』の隙間から這いずり出てきたか」

 かすかに聞こえる囁きの様な怨嗟の声に唇をゆがめ、アルカードは周囲を見回した。

 周囲をいくつも漂う黒い靄は、魔力密度の濃い環境で地獄とつながる通り道が開いた際にその隙間から這い出てきた低級の悪霊だ――ほとんどは現生での生に執着を残した人間の霊が妄執から悪霊になったもので、それらが現生との間に開いた通り道を通ってに出てきたのだろう。

 霊体の力の大きさを存在規模といって、存在規模の大きな個体ほど大きな通り道を必要とする。力の大きさがイコール霊体そのものの大きさでもあるからだ。そして存在規模が大きな霊体は位階も高く、したがって高位の霊体が顕現するにはかなり大きな通り道が必要になる。

 対して低級霊のほとんどは存在規模が極めて小さく、そのため狭い通り道でも通り抜けることが出来る――人間が通るには狭い隙間でも、猫ならすんなり通り抜けられるのと同じだ。彼らは精霊が一点に澱んだことで発生した小規模の『門』を通り抜けて、に出てきたのだ。

 そういった存在規模の小さな低級霊は、たいてい存在規模が小さすぎてまともな思考能力を持っていない――そもそも人間の霊体のなれの果てである彼らは、など持っていないからだ。

 肉体にのみ備えた脳が失われた低級霊たちはまともな知能は残っておらず、感情は嫉妬と欲望、魔素の濃い場所でなければ存在を維持することも出来ず、ただただ妄執に衝き動かされて生きている者の肉と霊体を喰らうことしか頭に無い、蟻に等しい存在だ。

 常に飢えているにもかかわらず、みずからこの世界に具現する力も知恵も無い。

 単に『点』――この場所の周囲に澱んだ精霊によって開かれた針の穴の様に小さな『門』の周囲に集まっていた低級霊たちが強大な魔力を持つ者の接近で活性化して自分たちが通れる大きさの『門』が開いた時点でそこを通り抜けて現世に顕現し、手近な土と泥を触媒にして具現化したにすぎない。

 だがそもそも自分の魔力だけではその触媒になった泥と土の筺体を維持することさえ出来ない。だから彼らは周囲に存在する無属性の魔力――精霊を使って筺体を維持している。

 だから、彼らは少しでも精霊の密度が弱まれば、その筺体を維持することすら出来ない――彼らはこの場所から離れただけでもその筺体を維持出来ず、残滓も残さず消滅してしまうだろう。

 みずからの活動の触媒を自力で現世に造ることもかなわず、泥人形にすぎないがゆえに弱く脆く、他者を喰らって魔力を得ないと存在を維持することも出来ない。ゆえに、別の魔力供給源を求めて人を襲う。

 今はいいが、満月が近づけば近づくほどに周囲の精霊の密度は高まり、それだけ彼らの行動範囲は広くなる。今回は単純にアルカードが近づいてきた刺激で『門』に群がる悪魔のうちでもっとも弱く小さな悪霊が数体出てきただけだが、いずれ門に大きな隙間が開けば、その隙間をくぐって上位の悪魔デーモンも出てくる様になるだろう。

 だが今の時点ではそこまで高位の霊体が通り抜けられるほどの『門』は開いておらず、悪霊たちの行動範囲も限定されている。すなわち、『点』の中心位置はこのすぐ近くにあるのだ。

「まあそういうわけで――」 すっと目を細めて、アルカードは口を開いた。同時に銀色の閃光が幾条か閃き、骸骨たちか次々と輪切りにされて土に還る。

 単なる泥の塚がいくつか残るだけになったところで、アルカードは鋼線を手元に引き戻して適当に肩をすくめた。

「悪いね、おまえらなんぞの相手を真面目にするほど暇じゃねえんだ」

 羽織ったジャケットの背中に泥がついているのに顔を顰めて、アルカードは舌打ちした。

「まったく、靴も泥だらけなのに今度はジャケットか――割に合わねえな」

 ぼやきながら、歩を進める――さらにしばらく歩いたところで唐突に視界が開け、アルカードは再び足を止めた。

 眼前に姿を現したのは、直径十メートルほどの池だった――あの大雨のあとだというのに驚くほど透明度が高く、底に倒木が沈んで魚が隠れている。

 池の周囲にはところどころに人が訪れた痕跡があり、この池の存在を知る者は少なくないのだろうと思わせた。まあ雰囲気はあるから、人はそれなりにくるのかもしれない――デートスポットなのか、それとも肝試しの舞台なのかは知らないが。

 いずれにしても、地脈の『点』はこの周辺に存在する。大気魔力の密度がまださほど濃くないので、『点』の位置を正確に特定するには至らないが――

 地球と呼ばれるこの天体の内部には、まるで人の体内をめぐる血管の様に霊的な活力の流れが無数に走っている。これを地脈と呼び、地脈はまるでメロンの表面の筋の様に絡まり合い寄っては分かれながら地球全土を駆けめぐっているのだ。

 その地脈のルートがいくつか集合したものを『点』と呼ぶのだが、たとえば二本の支流が正面からぶつかり合ったりして巧く流れていけない場合、その合流地点が地表に近い場所にあると地表に魔力が噴き出すことがあるのだ。地表に放出される大量の無制御魔力が大気中に溶け込んだものを精霊マナとか大気魔力ミスト・ルーンと呼び、悪霊たちはこれを利用する形で現世に顕現している。

 『点』そのものは、さして珍しいものではない――今でこそ霊場を霊的に加工して散らしてしまったがアルカードの住んでいるアパートの近所の神社の境内にも『点』は存在していたし、よく当たると有名な占い師が場所を構えている駅前の道端にも小さな『点』が存在する。

 『点』そのものは珍しくもないのだが、ひとつ重要なことがあった――『点』、それも比較的大きな『点』の周辺は放出された精霊のために魔力密度が極めて高くなるので、高位神霊や悪魔といった超存在の召喚の現場になったり、儀式の現場として使われやすいのだ。

 精霊の密度が濃い空間は、その影響で異界とつながりやすくなる――特に戦場跡や殺人現場など、恨みや未練といった感情の影響が強い場所に蓄積した大気魔力は堕性を帯びて地獄につながりやすくなり、逆に寺院や教会などに蓄積した精霊は聖性を帯びて天界と接続しやすくなるのだ。

 小さな『点』はなにか起こっても心霊写真が撮れる程度だが、大規模なものになるとそんな可愛げのあるものではなくなってくる。

 地獄に堕ちて消えることなく現世に残っていた本来はそよ風ひとつ起こすことも出来ない様な悪霊どもが『門』からあふれ出してきた魔素を取り込んで力を得、手近な死体や土などを触媒にして動き出したり、意志の弱い人間であれば取り憑かれて殺されることもある。

 ライル・エルウッドから届いたメールによれば、アルマゲストが居を構えていた山城はかなり大規模な『点』の真上にあり、魔術装置を用いてその魔力を井戸のポンプの様に吸い上げることでアモンが降臨可能な規模の『門』を強制的に作り出していたという。

 もう少し日数が経ってみないと正確な規模はわからないが、満月でもないこの時期ですでにさっきの様な悪霊が湧いて出るということは、かなり大規模な『点』である可能性が高い。

 ベアトリーチェ・システティアーノ・ロザルタは魔術師だから、当然魔術による探索でここに『点』があることを知ることも出来るはずだ。となると、『クトゥルク』が承知の上でここを潜伏場所に選んだ可能性は俄然高くなってくる。

 奴がすでに『点』を見つけ出して、なにかしら手を加えている可能性もあるか――

 そんなことを考えながら周囲を見回し、アルカードはややあって目的のものを見つけ出した――まあこの手のものにはたいがい定石があるので、自分だったらどこに仕掛けるかと考えながら探せば案外あっさりと見つかるものだ。

 池の周囲の木々のうち数本の幹に、魔術文字が彫り込まれている――おそらく生贄に魔力が流れ込むのを助けるのと、『点』から噴き出してきた魔力の散逸を防いで精霊の密度を高めるのが目的だ。ということは、さっきの骸骨が湧いてきたのは『点』の規模もあるだろうが、こちらが主因なのかもしれない。

 アルカードは手近な木に彫り込まれた魔術文字に指先で触れると、少しだけ眉をひそめた。

 術式そのものの容量は知れているのだが、改竄を防ぐためのファイアーウォールの複雑さが尋常ではない。術式改竄クラッキングに対する防御性能だけなら、魔術装置並みの堅牢さだ。

 術式改竄クラッキング技能『だけ』はグリーンウッドを凌いで地上最高の技量を誇るアルカードではあるが、さすがにこれだけ複雑に組まれたファイアーウォールを解析して改竄可能な状態にするのには数日かかる――し、簡単に解析した限りではこの場にあるすべての『式』が通信回線で接続されており、互いに相手のバックアップを兼ねている。どれかひとつを破壊しても、ほかの『式』からバックアップの術式を転写されて復元されてしまうだろう。魔術式は互いの状態を常に監視しているが、互いの状態を確認するための通信は数分間隔のパルス通信で行われており、またすべての『式』が同時に接続されるわけではないために、通信回線を通じてすべての『式』を同時に破壊することも出来ない――バックアップから復元される前にすべての術式を破壊するのも、いささか難しそうではあった。

 今この場で魔術式を破壊して『クトゥルク』の企てに茶々を入れるのは、いささか難しそうだ――この結界の術式を破壊するのには、少々下準備が必要になる。

 見つけても出来ることが無いので手出しはさしあたりあきらめて、アルカードは踵を返した。とりあえずは『点』の位置を掴めただけで良しとしておこう。

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