In the Flames of the Purgatory 40
3
目を醒ましたのは六時半のことだった――壁にもたれかかる様にしてベッドに座って眠っていたアルカードは、小さく欠伸をしてから軽く首を廻した。
座って眠るのは何十年かぶりのことなので、少し姿勢がおかしくなっていたらしい。
脇に置いてあった携帯電話を見遣ると、メールの着信通知が二件あった――メールの内容は二件、一件は発信者はローマ法王庁大使館の神田になっている。
ライル・エルウッドを含む彼の弟子六人とグリーンウッドからなる部隊が、アルマゲストを無事壊滅させたとの連絡だった――現地は日本より六時間遅いから、ちょうど今は深夜の零時半あたりか。任務が終わった直後に携帯電話かなにかを使って、直接大使館に連絡を寄越したのだろう。電気通信装置というのは実に便利なものだ。
おそらくはエルウッドあたりが、神田に直接連絡したのだろう――命令系統的に、本来ほかの聖堂騎士の行動はアルカードのところにいちいち報告されない。
そしてもう一件のメールは、アルカードの知らないアドレスのものだった――メールアドレスのドメインから判断する限り、ローマ法王庁大使館関係者からのものの様だったが。
内容は今度東京に旅行でやってくる甥夫婦のために夕張メロンとハスカップワインをよろしく、とあった――あとで神田に確認しなければならないが、署名から推すに特命全権大使に間違いあるまい。ほんとに、こんなんでいいのだろうか。
とりあえず甥御さんがいつ見えるのか教えてくださいとメールを返してから、アルカードは窓の外に視線を向けた。
昨夜の分厚い雨雲が一滴残らず雨になって降ってしまったかの様に、空は雲ひとつ無く晴れ渡っている。
アルカードはそれまで座っていたベッドから足を降ろすと、立ち上がって大きく伸びをした――さて、どうしたものか。
窓から外を見下ろすと、駐車場に停められた車の塗面を濡らす水滴が陽光を乱反射し、きらきらと輝いているのが見えた。
この学園では、食堂は六時半から食事が出来るはずだ。まずは顔を洗って食事でも摂りに行くとしよう――胸中でつぶやいて、アルカードは洗面所に足を向けた。
初日から不必要に協調性の無い行動を取るのはいかにもよろしくないし、良好な人間関係の構築は様々な局面で役に立つ――仮に一月にもならない様なつきあいだったとしても。
「さて――」
今日は一日使って、学園内の敷地を見て回ることに決めていた。
別にいきなりターゲットが見つかることを期待しているわけではない――ただ、敷地内を回れば儀式の場所として使われそうな場所も特定することが出来るだろう。
遅かれ早かれ『クトゥルク』は必ず儀式を執り行わなければならないし、その日程は決まっている。
儀式が満月の夜に行われるのは、『クトゥルク』が儀式の際に精霊――大気中の無制御魔力を取り込んで、自己強化に利用出来るからだ。
大気魔力は新月の夜にもっとも薄くなり、満月の夜にもっとも高密度になるというサイクルを繰り返している。ゆえに、地脈の魔力を利用して行う大規模な術式は満月、満月以上に魔力密度が高くなる皆既日蝕の日を選んで執り行われることが多い。
どんなに月が満ちて見えても、成果を求める魔術師は必ず満月の日を選んで儀式を行う――満月の夜はその前後と比べると魔力密度が極端に跳ね上がるため、満月の夜に儀式を行うのとその前後に行うのでは取り込める魔力の総量に大きな差が生じるからだ。具体的に数字で言うと満月の夜とその前後の夜では魔力密度に七~八倍、それが起こっている間だけではあるが皆既日蝕の最中は実に十五倍もの差が生じる。
満月とそれ以外では成果に大きな差があるので、ベアトリーチェ・システティアーノ・ロザルタは必ず満月の夜に儀式を行おうとするはずだ。
そしてそのために、最低でも十三人の生贄が必要になる――生贄の儀式は、別に生贄の魔力を取り込むことそのものが目的ではない。大気中に充満した精霊をいったん生贄の体内に取り込ませ、その血を浴びることで莫大な量の魔力を吸収するのだ。
より正確に言うなら、儀式は大気魔力を集めて取り込むための作業であり、十三人の生贄は大気中に満ちた無属性の精霊を『クトゥルク』の魔力に同調させ、『クトゥルク』が吸収出来る様に調整するための道具なのだ――魔力には固有の波長というものがあり、これを無理矢理捻じ曲げると大変な手間と損失を伴う。
しかし、術者の魔力と似た性質の魔力を持つ人間――生贄の肉体と魔力を利用することで、術者はより損失が少なく、かつ自分のそれに近い波長に調整された魔力を取り込むことが出来る。
着色されたフィルムを懐中電燈の燈体にかぶせると、光がその色に変わる様なものだ――おそらく生贄にされた人間は出血多量、それに体内に莫大な魔力が急速に蓄積され、さらにそれが一気に失われる際に肉体と霊体にかかる負荷で死んでしまうだろうが。
最悪、『クトゥルク』が見つからなくてもかまわないのだ――儀式が行われる可能性の高い場所をいくつか絞り込んでそこに罠を張っておけば、敵はいずれ網にかかる。
事前に阻止出来ればそれが理想ではあるのだが、最後の防衛線がその儀式の阻止だった――やろうと思えば、今から五分とかけずに『クトゥルク』の当面の目論見は崩すことが出来る。
生贄の儀式には理論上最低でも十三人が必要だが、数自体は多ければ多いほどいい――そして最低限十三人がいないと、儀式を行えない。よって雪村早苗――あの少女を殺せば、とりあえず『クトゥルク』は残りふたりになった生贄をさらにもうひとり見繕わなければならない。
今までに昏倒した学生を皆殺しにしてしまえば、『クトゥルク』が次の満月に儀式を行う芽は断てるだろう。
だが――
殺す――その単語は馬鹿馬鹿しい。
自分の思考があまりにもくだらない方向に脱線したことに苦笑して、アルカードはかぶりを振った。
流し台の水道の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う――柔らかいタオルで顔と髪の水気を拭き取ったところで、アルカードは鏡に視線を向けた。鏡の中の深紅の瞳が、こちらの視線を捉えている。それを見据えて、アルカードはゆっくりと嗤った。
狩り場はこの手の中に入っている。獲物も狩り場の内にいる。ならばあとは互いの手の内を読み合いながら獲物を追い詰め、狩り出すだけだ。
*
三体の
最初に進入した部屋よりも二階層下、無意味にだだっ広い部屋に格子状の門で仕切られた出入り口がふたつ設けられている――おそらく本来は実験体同士を戦わせて戦闘能力を計測するとか、そういう目的の部屋なのだろう。
だが――
「まあこの程度のものしか造れないのなら、研究するだけ無駄だな」
率直な感想を口にして、アルカードは向かい合う様にして設置されたふたつの鉄格子とは別の壁に設けられた扉から外に出た。実験体が破れない様にだろう、偏執狂的なまでに頑丈に造られている――のだが、どうもこの工房を造った魔術師は、蝶番が扉でもっとも脆い部品だということには考えが至らなかったらしい。
簡単に破ることの出来た扉に視線を向けて適当に肩をすくめ、アルカードは歩き始めた。
これでこの階層はあらかた調べたはずだ。魔術師とも遭遇せず、先客の姿も見ていない。破壊された調製槽を見遣ってから、隅のほうにある階段に向かって歩を進め――わずかに漂ってきた血の臭いに、足を止める。
短剣の柄を握り直し、アルカードは床を蹴った。素早く階段に走り寄り、階段を駆け降りる――甲冑を着ている以上足音を消すことに関しては考えるだけ無駄なので、忍び足などというのは考えもしなかった。
一階層下に素早く降りると、フロアの隅の調製槽のそばに黒いローブを着た男が倒れているのが見えた。おそらくは彼自身のものなのだろう、床に出来た赤黒い血溜まりの中にうつぶせに倒れ込んでいる。
アルカードは周囲に視線を配りながらわざと足音を響かせて男のそばに近づくと、脚甲の爪先をひっかけて男の体を仰向けにひっくり返した――長年の不摂生が祟ってでっぷり肥ったその男は、全身をずたずたに斬り刻まれている。飛び散った血糊はまだ乾いていない――天候からくる高湿度を考慮に入れても、まだ半刻と経っていない。
背後で物音を聞きつけて、アルカードは素早く振り返った。片足を軸に転身して身構えたその視線の先で、黒い外套を羽織った長身の男がこちらに背を向けて立っている。彼は机の上に山積みにされた資料をぱらぱらとめくって斜め読みにしていたが、やがて飽きたのか適当に放り出した。
馬鹿な――自分が気配に気づかなかった。その事実に慄然としながら、そちらに向き直る。
「これをやったのはおまえか?」
詰問の声に、男は余裕のある仕草で振り返った。整った面差しをした、黒髪黒瞳のまだ若い男だ。
「そうだ。ファイヤースパウンの長として、裏切り者を処分した」
「裏切り者?」
「おまえには関係の無いことだ――おまえの狙いもその魔術師か?」
「そんなところだが――どうやら、先を越されたらしいな」
その言葉に、男はこちらに向き直った。
「それは残念だな――だが、吸血鬼風情がなぜその男を狙ってくる?」
「吸血鬼風情、か――まあ好き好んでなったわけでなし、礼賛されても困るがな」
「質問に答えろ」
「そこの肉団子が俺の敵に手を貸してるから、始末しに来ただけだ――出来れば奴につながる情報もほしいところだが」 アルカードはそう答えて、男のほうに歩いていった。彼のかたわらを通り抜けて机の上に数百枚も重ねて置かれた資料に手を伸ばそうとしたとき、視界を長剣の刃が水平に引き裂いた。
眼前に水平に突き出された長剣の刃を見遣って、アルカードは足を止めた。
「なんのつもりだ?」 アルカードの問いに、男は複雑な曲線を描く長剣を下ろさぬまま、
「残念ながら、ここにあるものを余人に見せるわけにはいかない――ここにあるのはすべて、我々ファイヤースパウンの魔術の秘儀だ。無関係な者に見せるわけにはいかない」 どうせ見たところで理解は出来ないだろうがな――そう付け加えてくる男に、アルカードはわずかに目を細めた。
「おまえの一族の魔術の秘儀になんぞ興味は無いが――」 次の瞬間鞘に納めたまま繰り出した
「――邪魔立てするなら、人間が相手だろうと容赦はしねえぞ?」
「――いいだろう」 ごきりと指を鳴らして、男は少しだけ目を細めた。
「ファイヤースパウンの精霊魔術師グリーンウッドの一族の長、セイルディア・エルディナントウッド・グリーンウッドが相手を務めよう。さあ来るがいい、吸血鬼」
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