In the Flames of the Purgatory 22

 

   *

 

 船首楼で舷側にもたれかかる様にして腰を下ろしていたアルカードは、閉じた瞼の上からなお視界を明るく照らす陽光が遮られたのに気づいて目を開けた。

「――またこんなところにいる」

 そう声をかけてきたのは、アマリアだった。燦々と降り注ぐ昼過ぎの陽光を背に、あきれた様な表情でこちらを見下ろしている。

「もう三日だよ。よく飽きないね」

「部屋に閉じこもっているよりはな。こんな船の上じゃ鍛錬もままならん、し――それならこうして感覚を研ぎ澄ましているだけでも、やらないよりはましなんでな」

「目をつぶってるだけでなにがわかるのさ」 断りも無しにこちらの隣に腰を下ろしながら、アマリアはそう言ってきた――単に操帆もなにも無くて暇なのか、それとも客人の話し相手をしていろとでも言われたのか。いずれにせよ、アルカードはかぶりを振った。

「おまえがさっき、左足から階段を昇り始めたこととかな――足を踏み出す前に、左手で耳を掻いただろう」

「ぅえっ!?」 明らかに視界外にいたはずの自分の行動を言い当てられたのに驚いたのか、アマリアが声をあげる――アルカードはさして気に留めず、頭上を飛び去ってゆく渡り鳥の群れを見送った。

「それより、なにかやることは無いのか? 客のところで油売ってる暇があるなら、この間索の切れた帆の補修なりなんなり、やることはいろいろあるだろうに」

「あれならもう終わったよ。これでも繕い物は得意なんだ」 薄い胸を張りつつ、アマリアはそう言ってきた。

「交換用の予備の帆は十分に備えがあるからね――今すぐに急いで仕立てなくちゃならないものは無い」 仕入れた布は暇潰しで全部服と帆に仕立てちゃったからね、そう続けてくる。

「そうか」

 うなずいて、アルカードは小さく息を吐いた。自分が気に入ったのか、客船ではないこの船では乗員以外の人間が珍しいからか、それとも本当に閨をともにして小金でも稼ごうとしているのかは知らないが、先日主艢の大三角帆ラティーンセイルの索が切れたときに海に落ちかけたのを助けて以来、この娘は時々自分に話しかけてくる。

 それが嫌なわけではないが――こういうふうにゆっくり誰かと話をするのは、実は数十年ぶりのことだ。

 少しだけ口元を緩め、アルカードは眼前の艢を見上げた。前檣に張られた大三角帆ラティーンセイルの向こうで、主檣に掲示された旗が艫側に向かってたなびいているのが見える。

「ところで、ひとつ質問があるんだが」

「なに?」 問い返してくるアマリアに、アルカードは頭上の前艢の上部を指差した。

 大三角帆ラティーンの上には上端が檣の先端まで届く大きな三角形の補助帆が張られており、三角帆ラティーンともども強風を孕んでぱんぱんに膨らんでいた。

 どの檣もそうなのだが、船体に対して直角に取りつけられた四角形の帆――横帆を一切備えていない。ほかの帆船だと第一斜檣に横帆を一枚か二枚備えている船も多いのだが、この船にはそれも無く、代わりに前檣と第一斜檣をつないで支える索具に三角形の帆が数枚張られていた。横帆を張るための帆桁を檣に備えていないところをみると、横帆を使っていないのではなく最初から横帆を使う設計になっていないのだ(※)。

「どうして横帆を備えていないんだ? 横帆も装備して使ったほうが、船足が速くなるだろうに」

 ああ、と声をあげて、アマリアは説明してきた。

「横帆は追い風のときの速力は出るけど、風上に切り上がるときには弱いんだよね。この船は機動性を重視した設計になってて、最初から横帆は装備してないの」

「すまんが、言ってる意味がわからん」

 だろうね、とうなずいて、アマリアは少しだけ苦笑した。

「あたしもよくわかんない。学があるわけじゃないからさ、どうしてそうなるのか説明しろって言われても無理」

 でも――そう前置いて、アマリアが主艢上部の船旗を指差した。船旗は風向きを示す様に、船の右舷後方に向かってたなびいている。

「今、斜め前から風が吹いてるでしょ? 帆船はやろうと思えばある程度の角度までは向かい風に向かって進めるけど、横帆船はある程度まで風に船首を立てると帆が裏をうっちゃうからさ」

 帆が裏をうつ、という表現は今ひとつよくわからなかったが――確かに風は右舷前方から入って左舷後方に抜けている。

 帆が裏をうつ――たしか時々、船長が号令を出していた。帆に前から風を受けることで抵抗にし、船足を落としたり急旋回をしたり出来るらしい。おそらくはただ単にいざというときのための操船の練習としてなのだろうが、この船の船長はそういう無意味に凝った機動をやりたがる傾向があるらしい。

 まあ有事に備えた演習というのはえてしてそういうものだ――それが民間船の海賊対策であれ軍隊の緊急呼集であれ、突然やるからこそ価値がある。

「だが、風が吹いてくる方向にまっすぐ進めるわけではないんだろう?」 アルカードが尋ねると、アマリアはうんとうなずいて、

「うん、そうだよ。それは無理。裏をうつからというより、ちゃんと風を受けられなくなるから。でも、縦帆だけで走る船は横帆を使ってる船よりも高い角度で向かい風に向かって進める様になる。だから風上に目的地があるときは、こう――」 アマリアはそう言いながら虚空にじぐざぐの線を引いて、

「じぐざぐに進んでいくの。ただ、縦帆船と横帆船だとその角度の限界が違うんだよね――もちろん横帆船でも横帆を全部たためばいいんだけど、それやると後檣の三角帆ラティーンしか残らない船も多いから(※2)」

 なるほど、とアルカードはうなずいた。

「最初から縦帆が主体の船ではどうということはないが、横帆が主体の船が横帆をすべてたたんで縦帆だけで走ろうとすると帆の面積が足りなくなって速力に差が出るということか?」

「そう」

「ふむ――理屈はわからんが納得はした」 その言葉にアマリアがあははと笑う。

「ところでさあ、お客さん、あんな島に渡ってなにするの?」

 アマリアはそう言って、こちらの脇に置いた曲刀を指差した。柄頭から刀身の先端まで一体になった漆黒の剣は、今は絶叫をあげること無く沈黙している。

 彼女は鞘に納まったままの曲刀に手を伸ばし――柄に触れようとして結局やめてから、

「お客さん、武装してるし普段から甲冑着てるんだから、傭兵かなにかだよね? でも、あの島にはなんか胡散臭そうな建物が建ってるだけだよ。調査依頼でもされたの? スペインの王様が調査隊を差し向けたらしいけど、ひとりも戻ってこなかったんだってさ」

 ひとりで行くのって危なくない? 三角座りをしてその膝に顔を埋め、その体勢でこちらに顔を向けながら、アマリアはそう言ってきた。

「俺は傭兵じゃない」

「じゃああれ? 遊歴の騎士ってやつ?」

「否、それも違う」

「それじゃあなに? 普通じゃそんなに傷出来ないよ」 食事のときに手甲をはずしているのを見たことがあるからだろう、こちらの腕を指差してアマリアはそう言ってきた。

 甲冑に隠れて見えないだけで、彼の体には山ほど傷がある――生身のときにイェニチェリにやられた傷もあれば、そうでないものも。腕にはイェニチェリの剣や矢で受けた傷がいくつか残っているし、人間ではなくなってから負った傷もある――魔物に噛まれた痕は霊体にも損傷を負ったため、治癒はしたものの傷跡は残ったままになっている。

 それを見れば、アルカードを傭兵か遊歴の騎士だと思っても仕方が無い。

「俺の職か――どういったものかな? そうだな、強いて言うなら――」 甲板上に寝かせてあった曲刀を手に取り、アルカードはゆっくりと嗤った。

「――狩人、かな」

「なに? そのでっかい剣で鹿でも獲るの?」

 剣に視線を向けて、アマリアがそう尋ねてくる――アルカードは少しだけ笑いながら、小さくかぶりを振った。

「否――もっと手強い奴だ」

 その言葉をどう受け取ったのか、ふうんと生返事を返して、アマリアは両足を投げ出した。

「それで、その獲物があの島にいるわけ?」

「否――どうだろうな。獲物はいないかもしれない」 手にした塵灰滅の剣Asher Dustを半ばまで抜き放ちながら、アルカードはそんな返事を返した。同時に唇をゆがめて浮かべた凶暴な形相に、アマリアが表情を引き攣らせる。

「だが、その獲物に手を貸してる奴なら――」

 そう言ったところで、アルカードはふと風上に視線を向けた。まだ先ほど兇相におびえているのか、アマリアが恐ろしげな表情で声を掛けてくる。

「どうかした?」

「この近くに人の住んでいる島はあるか?」

「もうしばらくしたら陸が見えるよ――陸まで二、三海里くらいじゃないかな。なんで?」

 その言葉に、アルカードはその場で立ち上がった。彼はまっすぐ風上に視線を向けたまま、

「おまえは船長のところに行け――見張りを上げる様に伝えろ。少しきな臭いことになるかもしれんぞ」

 有無を言わせぬ口調のその言葉に、アマリアが小走りに船首楼から駆け降りていく。それを横目で見送って、アルカードは再び風上に視線を戻した。その視線の先で、まだ豆粒の様にしか見えない帆影が揺れる。

 やがて前艢の見張り台に誰かが登ったのだろう、頭上から声が降ってきた。

「左舷前方一点、帆影――」 聞き覚えのある声は、どうやらアマリアがみずから登ったものらしい。こちらのほうが風上側にいるせいで、いささか聞き取り辛かったが。

「船籍旗は無い――海賊船だよ」

 それを聞きながら――アルカードは火薬の臭いに顔を顰めた。普通の人間には到底嗅ぎ取れないだろうが、黒色火薬ブラックパウダーの燃え滓の臭いが風上から漂ってきている。

 アルカードは漆黒の曲刀を手に船首楼を降りると、そのまま中央凹甲板と後甲板を突っ切って船尾楼に昇り、左舷前方――『一点』?――の方向を単眼鏡で覗いている船長の背中へと歩み寄った。

「ああ、客人――悪いが、少々悶着がありそうだ」

 脚甲の装甲板が擦れる足音でこちらに気づいたのか、船長が振り向かないまま声をかけてくる。

「そうらしいな。向こうはこっちに気づいているかな?」

 その言葉に、船長は髭に覆われた口元をゆがめて笑った。

「どうかね。ま、そのまま放置していけるなら楽でいいんだが。そういうわけにもいかなさそうだ」 そう言って、それまで覗き込んでいた伸縮式の単眼鏡を放って寄越す。

「ふむ」 距離があるし位置が低いのでわかりづらかったが、どうやら海賊船はばっちりこちらを捕捉しているらしく、こちらに舳先を向けている。

 艢の数はわからないが、かなりの大型船なのはたしかだ――前艢と主艢にそれぞれ四枚の横帆を張っている。主檣の向こうの檣の数や帆装はここからではわからない。だが前檣と主檣の横帆はかなり大型のもので、追い風に乗るぶんにはかなり速そうだ。

 追い風に乗ってこちらに向かって走下してくる不審船を見遣り、アルカードは溜め息をついて単眼鏡を船長に返した。


※……

 現代で言うところのジブに相当します。

 当時の帆船はまだジブを備えておらず、船首の第一斜檣バウスプリット斜桁帆スプリット・スルと呼ばれる横帆を張った船がほとんどでした。

 横帆を完全に排除するという造船所の設計コンセプト上、斜桁帆スプリット・スルを撤去する代わりに空いた第一斜檣バウスプリットになにか補助帆を張ろうという趣旨で用意された、ステイスルと同じ補助帆の一種です。


※2……

 帆船やヨット等が風上に向かって上っていくことを、切り上がりとか詰め開きビーティングといいます。

 風上に向かって進むときは帆船は帆を風下側に向けて、帆の裏側に風を受けています。そうすることで帆の表側に負圧を生じさせ、いわば押されて進むのではなく帆に引っ張られて進んでいるのです。

 縦帆船と横帆船の機動性の違いは帆の張り方に起因するもので、縦帆は切り上がり時に帆に風を受けやすく、より高い角度で風に向かって進むことが出来るのです。

 横帆の場合は索具が邪魔をして縦帆ほどの回転角度を得られないので、純縦帆船ほどの切り上がり角度は得られません。

 代わりに縦帆船の場合はどんなに頑張ってもマストとマストの間隔以上のサイズの縦帆を用意することが出来ません。マスト同士の間隔×マストの高さ、これが縦帆のサイズの物理的な限界です。横帆船が追い風に強いのは、横帆桁ヤード竜骨線キールラインに対して直角に配置されており追い風を受けるのに特化した構造であることのほか、横帆桁ヤードの長さを船体の幅よりも長くすることが出来、帆の大型化が可能になったからです。

 そのため風を受ける面積が大きく追い風を受けて走るのには向いており、安定した推力が得られます。また帆を細かく分割し風速に応じて数を変えることで安全に航行出来ることも横帆の利点のひとつですね。新型日本丸・海王丸はフォア・メイン・ミズンの三本のマストに六枚の横帆を備えています。

 いずれの艤装でも風に向かって正面から進むことは出来ないため、たとえ目的地がまっすぐに風上にあったとしても、船は変針を繰り返しながら斜め方向にジグザグに進んでいきます。縦帆船と横帆船の機動性の違いは斜めに進む角度に表れ、縦帆船はより高い角度で風に向かって進むことが出来ます。また風上に向かって行う変針、上手廻しタッキングの成功率にも影響します。

 上手廻しタッキングはくの字型の航跡を描いて一度完全に風に向かって船首を立てて行う変針方法で、正面から風を入れる瞬間があり、切り上がり角度が浅いぶんより大きく回頭しなければならないために、特に横帆船では失敗の確率が高いです。風を正面から受けるのは船足を殺すブレーキになるからで、特に横帆船の場合は十分な速度が無いと成功しません。

 海王丸の航海記録によると、操帆作業を迅速に行うために帆の一部をいったん絞ったりもしています。特に現代の縦帆船の場合は、ブームを風下に向かって振り回すだけなので、純縦帆船の場合は失敗の確率は低くなります。

 風に船首を立てることをせずに逆方向に回頭し、αの字の様な航跡を描いて変針を行うことを下手廻しウェアリングといい、横帆船でも無理の無い変針方法です。


参考文献……

 主に中村庸夫氏の写真集

 およびそれらを含む各種帆船関連著作

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