The Evil Castle 7

「つまり、仕込みをするのは単なる目晦ましだってことか」

「そういうことだ。今の弱体化した『クトゥルク』がそれをする意味はあまり無いと思うが、日本の歓楽街という絶好の狩り場を放棄するつもりになれば、別に日本国内にとどまる意味も無い――今は奴の魔力がさほど回復していないから、そっちを優先して日本国内にいる可能性のほうが高そうだが」

 手の中に残った齧りかけのカステラを口の中に放り込み、コーヒーの残りを飲み下して、アルカードは背もたれに体重を預けた。

 『クトゥルク』は吸血による自己強化能力を持っていない――下僕サーヴァント噛まれ者ダンパイアの様に、吸血を行わないと死んでしまう様なことも無い。そのため単体で行動しているぶんには、狩り場など必要無い。

 とはいえ休眠状態に陥った自分を守らせるために、配下の下僕サーヴァントは必要だ――下僕サーヴァントは普通の噛まれ者ダンパイア同様吸血を必要とするので、『クトゥルク』本人は不要でも彼らのための狩り場は必要になる。それに結局のところ、彼らに力をつけさせることは『クトゥルク』自身の自衛にもつながる。

「国外にも捜索の手を広げるべきだとは思う。思うが――が、極東アジア近辺で日本以上に理想的な狩り場はちょっと思いつかん。観光客が多かったり移動が容易だったりといった条件はともかく、街の安全度が高いから歓楽街を夜中にうろついてる人間が多いという意味では日本に勝るところはそうそう無い」

 舌先で唇を湿らせて、アルカードは続けた。

「ほかに狩り場に使える場所といえば香港と台湾、それに朝鮮半島――台湾は日本とそう変わらないくらい治安がいいが、香港はまあ微妙なところだし、韓国は言うに及ばずだ」

 その言葉に、エルウッドが小さくうなずいてみせる。

 吸血鬼が狩り場として選ぶのは治安が良く外国人旅行者が大量に流入している先進国が大半で、かつある程度領土が広い場所を選ぶ。単身住まいの若者が歓楽街を気楽にうろついていられる様な土地がもっとも理想的で、極東地域でその理想の順に上から並べると日本、台湾、香港、韓国というところか。

 日本と台湾は治安はそこそこ、香港もまあ悪くない。韓国は治安などという概念がそもそも存在していないだろうが、一周廻って治安が悪すぎて一般人がひとりやふたり拉致されて姿を消しても誰も気にしないだろう。

 朝鮮半島は極東でもっとも治安の悪い地域のひとつだ――北朝鮮は言うに及ばず、先進国気取りの韓国でさえ犯罪率が突出して高いし、性犯罪の発生率に至っては人口比で日本の五十倍という有様で、到底異邦人にとって居心地のいい環境ではない。特に悪質な性犯罪発生率は高く、アメリカ政府が韓国への渡航に関して公式に警告を発しているほどだ。

 日本人は現実から目をそむけてマスコミの作ったブームに乗せられているから危険性を承知しないままホイホイ出かけていくが、実際のところお世辞にも安全に歩ける土地ではない――ことに日本人にとっては、朝鮮半島併合の諸事情や慰安婦問題といった根拠も胡散臭い逆恨みのせいで。

 韓国の歓楽街を夜中に出歩くなど、カモがネギどころか豆腐と大根と人参と白菜と生姜と割下と鍋、カセットコンロに予備のボンベとミネラルウォーターのペットボトルと米と炊飯器、ついでに雑炊用の玉子まで全部しょって歩いている様なものだ――襲われに行くも同然だと言い替えてもいい。性犯罪率は特に高いので、逆に言えばそれを返り討ちにして血を吸いたい女の吸血鬼にとっては御誂え向きの環境であると言えなくもないが。

 安全度からくる獲物の油断と、狩り場の多さという点において、日本に勝る土地は無い――台湾も獲物は油断しやすいだろうが、土地が狭いので絶対的に獲物も少ないし、行方不明者が出れば噂になりやすい。

「なら、とりあえずは国内を主眼に探していくか。国外に関しても柳田を通じて指示は出しておくよ」

 エルウッドが話をそう締めて、立ち上がる。

「なんだ、もう帰るのか?」

「ああ、ちょっと用事があってな。教会のシスターから米を三十キロばかり買って、晩飯の支度する前に帰ってこいって言われてるんだよ」

「なに? おまえ、お遣い命じられるところまで敷かれてるの?」

 エルウッドはしばらく黙っていたが、やがて顔色に変化が生じた――どんどん血色が悪くなり、蒼白を通り越して紙の様に真っ白になっていく。それと同時にどこからともなく震えが生じ、それが次第に全身へと広がってゆく。その震えがテーブルの上のティーカップを揺らしてソーサーがかちゃかちゃ音を立てるほどに大きくなったころ、エルウッドは歯の根を鳴らしながら蚊の鳴く様な声でつぶやいた。

「言うこと聞かないと、晩飯抜きにされるんだよ……」

 うわぁ……

 胸中でだけ声をあげ、アルカードは立ち上がってエルウッドを入り口まで送り出した。

「じゃあまあ、気をつけてな。寄り道せずに米買って帰れよ」

「ああ……」

 どことなく悄然と立ち去ったエルウッドを見送って、アルカードは溜め息をついた。

 さて――しばらくはおとなしく仕事しとくしかないか。

 胸中でつぶやいて、店の中へと取って返す。シスターの話が出た途端にいきなりテンションの落ちたエルウッドが気の毒すぎて代金を請求する気になれなかったので、まあ自分が払っておこうと思いつつ、アルカードは食器を片づけるために歩き出した。

 

   *

 

 全身が濡れて手足が重く、喉が冷えきって呼吸がしづらい――雪が体温で溶けて出来た冷たい水が沁み込んだ服がべったりと素肌に張りつき、ひどく動きづらい。ただ衣服が重いだけでなく肌にへばりついた雪が、濡れて冷たくなった服が、肺に入り込んだ冷たい空気が、なけなしの体温を容赦無く奪っていく。

 妹の手を引いて、ナタリーは雑木林の中を死に物狂いで駆けていた。枯れ草に覆われた地面を真っ白に塗り潰している分厚く堆積した雪に足を取られ、その下に埋もれた木の根や大人の頭ほどの石に躓きそうになりながら、妹の手を引っ張って走り続ける。

 なにかが背後から迫ってきている――見えるわけでもないし背後を窺う余裕があるわけでもなかったが、それだけは確信出来た。

 見覚えのある大岩が見えてきて、ナタリーは歯を喰いしばって足を速めた。もう少しで道に出る。メアリを励ましてやろうにも、ナタリーにもしゃべる様な余裕は無かった。

 道に出れば、少しは走り易くなるだろう――村まで走って帰り着くのはまだ先だが、それでもいくらか楽になる。

 とはいえ彼女は幼い子供だったので、自分たちが走りやすくなれば当然追跡者も走り易くなるのだということには気づいていなかった。

 暗闇の向こうに小さなオレンジ色の光を見つけて、ナタリーは一瞬息を止めた。

 だが――

 誰かが火を焚いている?

 距離からすると、街道沿いに誰かが野営して火を焚いているのだろう。

 自分と妹だけじゃなくなれば、追手もいなくなるかもしれない――そんなわずかな希望を胸に叩きつける様な雨と向かい風にあらがいながら、ナタリーはその焚火までの短い距離を必死に駆けた。

 近づいてみると、やはりオレンジ色の光は焚火なのだと知れた――街道を挟んで向こう側の林縁、街道から少し森に入ったところで数本の立ち木に支索を結わえつけて巨大な屋根の様に大きな天幕を張られており、その下で煌々と燃え盛る炎が周囲にゆらゆらと揺れる光を投げかけている。

 その火のそばで暖を取っているのか、人影が蹲っているのが見えた――こちらの気配に気づいたのか、蹲っていた人影がその場でゆらりと立ち上がる。

「たすけ、たすけて――」 呼吸が乱れて、まともに発声するのもままならない。救援を求めて喘ぐ様な声をあげたところで背後からいきなり手を引っ張られて、ナタリーは足を縺れさせて転倒した。

 身を起こして背後を振り返ると、手を引いて走っていたメアリが転んだのだと知れた。

 そしてメアリの向こうに、爛々と輝く瞳をいくつか見つけて戦慄する。

「お願い、助けて!」 逆光になって詳細の窺えない人影に向かって声をあげたとき、人影が軽く首をかしげた。

 視界の端をかすめて、無数の黒い影がふたりを追い抜いてゆく。

 人影の顔に一瞬だけ金色の光が燈った様に見え――人影はまるで猿の様に周囲の木々にへばりついている追跡者の群れを一巡する様に視線をめぐらせてから、

Chimeraキメラ?」 人影が耳慣れない言葉を口にするのが、強風に乗って横殴りに叩きつける様にして降ってくる湿り気のある雪の中で妙にはっきりと聞こえてきた――キメラ?

 それが彼らの威嚇なのか、木にへばりついてぎゃるるるる、とうなり声をあげている追跡者どもを見上げて、人影が一歩前に出る。

 それと同時に床に撒いた水の様に広がった凄絶な気配に、ナタリーは背筋に氷を突っ込まれたかの様な悪寒を感じて動きを止めた。

 針で突き刺される様な感触を伴う殺気とともに、男が嗤う――否、明かりを背負って逆光になっている相手の表情など窺い知れようはずもない。正確にはその影の気配が、笑いの形をとったのである――なぜだかわからないが、それだけははっきりと理解出来た。

Aaaaaalieeeeeeeeee――アァァァァァァラァィィィィィィィィィィィ――」 背筋の凍りつきそうな笑みの気配を身に纏い、人影が低い声を漏らす。

 ――ギャァァァァッ!

 ――ヒィィィィッ!

 ――ガァァァァァッ!

 それと同時に――身の毛も弥立つ様な凄絶な絶叫が周囲に響き渡る。あわてて耳を手でふさいでも、なぜだかその叫び声はそのままの声量で耳に届いていた。

 自分たちは殺そうと思えばいつでも殺せるということなのか、メアリと自分を追い抜いていった追跡者たちがここからでは表情も窺い知れぬ人影に向かって次々と襲いかかる。

 次の瞬間なにが起こったのかは、ナタリーにはよくわからなかった。人影に向かって一斉に襲いかかっていった黒い影が片端からばらばらに引き裂かれ、悲痛な絶叫をあげる。

 どん!という地響きに似た轟音とともに、男が地面に鋼鉄製の鞘を突き立てる。いったいいつの間に抜き放ったのか、男は長大な曲刀を手にしていた。

 刃が黒い――黒い。べっとりとこびりついた赤黒い返り血で染まった刀身が、焚火の光で橙色に照らし出されている。

 手元近くに巨大な目をモチーフにした装飾が施されたその曲刀の刃には、波うつ様な独特の模様が浮かび上がっている――否、それは模様なのだろうか。気のせいかもしれないが、焚火の明かりで照らし出されながらもまったく照りの無い刀身に浮かび上がったその模様が、ナタリーにはたゆたう波の様に常に動いている様に見えた。

 男が左手で外套のフードを払いのける――焚火の明かりに半分だけが照らし出された、オレンジ色に染まった整った面差し。獣の尾を思わせる暗い色合いの金色の髪。劫火の様な苛烈さと凍土の様な冷徹さが同居した、血の様に紅い紅い瞳。

 若い――だがその燎原の様な瞳は、苛烈さや冷たさと同時に年齢にそぐわない落着きと老獪さも感じさせた。

 そこから先のことは、ナタリーの人知を超えていた。

 ひぅ、という軽い風斬り音。振り払われて飛び散る雪の溶けた雫と、足を踏まれた犬の様な悲鳴。土嚢を地面に投げ落としたときの様な、どさりという重い音。

 飛びかかっていった黒い追跡者たちがまるで子供が放り投げた頭陀袋の様に次々と吹き飛ばされ、木の幹や地面に叩きつけられる。あとに残っているのは、バラバラに斬り刻まれた異形の怪物の体の切れ端だけだった。

 瞬く間に追ってきた怪物たちを虐殺したその人影が手にした身の丈ほどもある曲刀をヴンという重い風斬り音とともに振り抜いて、刃にこびりついた血糊を振り払う。

 装甲板がこすれあうかすかな音とともに、焚火の光を背後に背負ったその人影が一瞬だけこちらに視線を向けた。その瞳が暗がりの中で紅く紅く輝いている様に見えたのは、気のせいだろうか。

 森の、悪魔……?

 村の語り部に聞かせられた言い伝えをなぜか思い出しながら、ナタリーは茫然とその姿を見上げていた。

 怪物たちを殲滅しても警戒を解いてはいないのか、人影は右手に長剣を保持したままナタリーのそばにかがみこんで、彼女の顔を覗き込み――それを最後に、彼女は意識を失った。

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