Dance with Midians 14

 

   3

 

「――はい、では皆さんおはようございます」

 手にしたクリップボードに視線を落としたまま、アルカードはそう挨拶した。

 目の前には見知った顔が六人――エレオノーラ・プロニコフ、ジョーディ・シャープ、フリドリッヒ・イシュトヴァーン、アネラス・スカラーのバイト従業員四人。それに彼らが働く外食店の経営者であるチャウシェスク夫妻。

 エレオノーラとアンはベージュ色のブラウスに赤を基調にしたウェイトレス用のエプロンドレスを着ている。季節によって制服が異なるのだが、寒い季節なので色だけでも暖かみを出そうということなのだろう――もともと赤毛のアンよりも、エレオノーラのほうが髪の色に服の色が映えてよく似合っていると、アルカードは思っていた――本人に言うと調子づくので言わないが。

 ジョーディとフリドリッヒはいつもどおり黒のベストとスラックス、清潔感のあるワイシャツに赤いネクタイ。ワイシャツが黒でベストが赤のアルカードと違うのは、両者の立場の違いを表している――彼らはホールスタッフが専門で、状況に応じて接客から調理まであらゆる仕事をこなしたうえで帳簿管理の様な重要な職務まで処理しなければならないアルカードは彼らの上司に当たる。

 アルカードの役職は、ホールスタッフ長兼庶務係ということになっている――必要が生じたら店の車の整備から老夫婦の孫の子守まであらゆる作業を任せられるスタッフなので、庶務係という役職は的を射ているだろう――ワイシャツとネクタイの色が違うのは、ただ単に黒のほうが彼が着慣れているのと、老夫婦が金髪に黒衣が映えて似合うだろうと言い出したからだ。

 闇に紛れるためだけに黒を好んでいた彼としては、そういう考え方もあるかと感心したものだ。黒と赤は好きな色なので特に反駁せず、アルカードはその服装で勤務する様になった。

 もともとこの店には男性スタッフの制服の規定など無かったので――というより、彼が来るまで男性スタッフがいなかったからだが――、アルカードは自分の趣味でこの服装を整えた。最終的には老夫婦の意見も容れて、それをベースに明確な制服の規定が出来たのだ。

 アルカードはそのまま今の立場になり、あとから入ってきた男性スタッフは役職の有無を外見でわかりやすくするためにベストの色を変えることになったのだ。

 ちなみに女性従業員は春秋と夏、冬で制服が違うのだが、男性従業員は季節で制服を変えたりはしない。客もバイト志望者もそうだが、誰もそんなのを目当てに来ないからだ。

 老夫婦はいつもどおり、清潔感のある洗いたての調理服を着ている――若干衛生面から衣服の汚れを気にしすぎるきらいがあり、彼ら夫婦は一日で三着から四着の調理服を使用する。気にしすぎだろうと思わないでもないが、アルカードはそこに関してはなにも言わないことにしていた。

 それが雇い主の意向なら、別に気にすることでもない――し、衛生面に気を遣うのはどんなに気を遣っても過剰ということはない。少なくとも自分の店で扱う食材をおもちゃにしたり、冷蔵庫に入り込んだ写真をネットに晒す様な馬鹿に比べれば幾分かましだ。

 アルカードがここで働くよりも前から、二十年近く続けてきた習慣ならなおのことだ。彼がここに来る前までは彼ら夫婦が直接接客や給仕をこなしていたから――汚れた調理服で客の前には出られない――、そのときの習慣で神経過敏になっているのだろう。

 アルカードは手元のクリップボードに視線を落としつつ、

「では、今日はおじいさんとおばあさんはいつも通り厨房。ノーラ、フリドリッヒ、アン、ジョーディの四人はホール。俺はちょっと留守にしてた間の事務処理と、あと食材やら飲み物やら調味料やらの荷受けのほうに廻ります。といっても両方ひっくるめて午前中だけで目処はつくと思いますので、もし必要だったら呼んでください――皆さん健康状態に問題は?」

 口ぐちに無い、と答えてくる彼らにうなずいて、アルカードは年代物のパソコンのキーボードの上にクリップボードを置いた――ディスプレイはブラウン管、筺体にはWindows 98のステッカーが貼附された、もう何年前のものになるかも疑わしい旧式のパソコンだ。

「はい、では開店準備を――」 始めましょう、と言いかけたアルカードを遮る様に片手を挙げて、アレクサンドル・チャウシェスクが口を開いた。

「おまえさんは、今日は出かける予定は?」

「いえ、特になにも。どうしてですか?」 

 そう返事をするとアレクサンドルは首をかしげつつ、

「警察だよ。おまえさんもアンも、警察に出頭して事情聴取に応じる必要があるんじゃないのか? 出頭要請とか来ないのか」

「まあ、来たとき考えますよ――でもどっちみち、連絡は来ないんじゃないかと思います。たぶん身分証から大使館に身元照会が行って、そこで記録が抹消されるでしょうから」

 

   †

 

 同じころ、幹線道路沿いの警察署内、捜査一課――

「――どういうことです?」 暖房が効きすぎているのかしきりに汗を拭っている捜査一課の宇佐美課長に、不破はそう尋ね返した。

 先日閉店直前の郵便局で起きた、強盗未遂事件に関する話だ――散弾銃やライフルで武装した強盗だったが、幸いなことにたまたま客としてきていた外国人の若者が犯人全員を無力化した。その外国人は初動で到着した制服警官のひとりの知己であり、また彼らに名刺を渡していったために連絡先がはっきりしている。

 とりあえず呼び出して話を聞いてみようかと思案していたところに、一課長を務める宇佐美から呼び出しがかかり、出向いたところで言われた言葉に対する返事が先ほどの発言である。

「さっき言ったとおりだ。この件に関しては不要な追及は控えてくれ――昨日犯人を無力化した外国人に関しても、報告書には載せなくていい。私も含めて、報告を受ける者は全員それで納得する」 デスクに両肘を突いて手で口元を隠す様にしながら、宇佐美がそう繰り返した。

「理由を教えてください」 喰い下がる不破に宇佐美は小さく息を吐いて、

「外交上の問題だ」

「外交?」 耳慣れない単語に、鸚鵡返しにそう返す――確かになんの落ち度も無い外国人を逮捕し収監すれば国際的な人権問題になるだろうが、任意の事情聴取を依頼することが外交問題につながるとは思えない。

 まして監視カメラの解析によると、アルカード・ドラゴスが極めて危険な武器を携行していた疑いも持たれている――手の中に隠せるサイズであるにもかかわらず、鋼鉄製の銃身を寸断する様な代物だ。鑑識の結果、切断面はウォーターカッター並みの切れ味を持つ刃物で切断されていることが判明した――必要に応じて隠匿出来るほどの大きさでありながら、鋼鉄製の銃身をやすやすと切断するほどの切れ味を持つ刃物。それが通り魔にでも使われれば、どれほど深刻な事態を招くかは考えるまでもない。

 さらに、彼は強盗犯から奪取した銃で別な強盗犯に銃撃を加えている。これはともすれば、銃刀法にも抵触する。

「ですが課長、今回はたまたま犯罪抑止のために動いたとはいえ、報告書を読んだでしょう、あれはなにか、相当な殺傷能力を持つ武器で武装しています。今のうちにしょっ引いたほうが――」

「馬鹿を言うな、彼は今回迅速に事態を解決した立役者だぞ。それをなにもしないならまだしも検挙などしてみろ、マスコミがどんなふうに書き立てるかわからん。それにさっきも言ったが、これは上からの命令なんだ。アルカード・ドラゴスにはかまうな」

「いったいどういうことです? 署長からの命令でもあったって言うんですか?」

「署長命令じゃない。警察庁だ」

 警察庁? 宇佐美の言葉に眉をひそめる――警察庁長官からの命令だというのか?

「いったいどうして――」

「私も詳しいことは知らん。だがこれは決定事項だ――彼は外交官身分証明持ちだ。イタリアの国籍と一緒にヴァチカン市国の国籍も持っているから、そっちの方面から問い合わせてわかった」

 外交官身分証明? 完全に事態が自分たちの手を離れるのを感じながら、彼は別の事件の書類を作成している風祭を振り返った。

 外交官身分証明、正確には外交官等身分証明票というのだが、これを保持している人間は日本において外務省から認められた正式な外交官だ――つまり、アルカード・ドラゴスはヴァチカン市国とイタリア政府、どちらのかまでは知らないが外交官の身分を持っているということになる。

 現行犯ならともかく任意で同行を求めることも出来ないし、警察庁がアルカード・ドラゴスから手を引く様通告してきているということは日本政府が彼に対してペルソナ・ノン・グラータ、特権剥奪の通告を行う意思も無いということだ。

「明白な証拠は無いし、外交官特権持ちに任意同行は求められない。特権剥奪を行う意思も無いから、彼に対してはこれで終わりだ」

「わかりました。じゃあせめて教えてくれませんか――いったいどこからの圧力なんです?」

「ヴァチカンだ」 溜め息に乗せて吐き出す様な口調でそう答えてきた宇佐美に、不破は眉をひそめた。

「ヴァチカン――赤坂のローマ法王庁大使館ですか? どうしてカトリックが絡んでくるんです?」

「私も長官に同じことを聞いた。なにしろ長官から直接電話がかかってきたからな――その質問に対する長官の返事を教えてやろう。『聞くな』だ」

 そう言って、宇佐美は話は終わりだという様に手を振った。

 

   †

 

「――はい、ではあらためて開店準備をお願いします」 

 アルカードのその言葉に、スタッフたちが控室を出ていく。それを見送って、アルカードは壁際の事務机の前の椅子を引き、着席してからデスクトップパソコンの電源を入れた。

 中身は一応Windows XPだが、もともとは98が入っていたものだ――この店の事務仕事はアルカードが一手に引き受けているので、自分が使うためにOSを無理矢理入れ替えたのだ。

 スペックが追いついていないために、負荷のかかる動作は非常に時間がかかる。ノートパソコンでもいいから、近いうちに新しいものに買い替えてみようと、彼は思っていた――どのみち必要なものは、好きに買っていいと言われている。

 老夫婦はコンピュータのことも詳しくないしこういった電子的な作業全般の知識が乏しいので、ほぼアルカードに丸投げの状態なのだ――といっても、無駄遣いする気も無かったが。

 Domn batrin si vechi femeie――ルーマニア語でおじいさんとおばあさん、そういった意味合いになる。ニコライ・チャウシェスク――社会主義独裁政権を布いたかつてのルーマニア大統領の圧政から逃れてルーマニアから日本に渡ってきた老夫婦が開いた、多分この街の外食産業では最古の部類に属する小さなルーマニア郷土料理店だ。

 アルカードは九年近く前から、この店で働いている――もともとは済し崩しだったのだが、拠点が必要だったことと存外居心地がよかったので、そのままとどまることになった。

 窓の外に視線を向ける――空はよく晴れている。

 それを見上げながら、アルカードは手を伸ばして手探りで筺体の上面にあるパソコンの電源ボタンを押した――性能が低いので、なにをするにも時間のかかる代物だ。ぶっちゃけ自分の部屋に帰って、私物のパソコンで作業したほうが早い――ファイル共有ソフトには一片の興味も無いので、ファイル流出の恐れがあるわけでもない。

 最近流行りのWinnyやWinMXといったファイル共有ソフトにはまったく興味が無いし、ウイルスがいる可能性もまず無い、が――それでも職場のデータは職場で扱うのがルールというものだろう。たとえ自分の住んでいるアパートが店の裏手にあって、塀に設けた扉をくぐれば二十秒とかからない場所にあるとしてもだ。

 いっそ自分で自作してみてもいいのかもしれないが、その選択肢はだいぶ前に放棄していた。出来合いではなく自分でパソコンを一台組み始めたら、必要十分を思いきり通り越して必要過十分なまでに凝ってしまうのが目に見えている――今のパソコンだってDELLをベースに凝りに凝っていじっていたら、気がついたら六十万円を費やしていたといういわくつきの代物だ。それでさえも、三年が経過した今となっては十万円で買えるノートパソコンとなんとかタメを張れる程度の代物でしかない。

 ようやくWindowsが立ち上がったので、アルカードは椅子に腰を下ろした。ほかの従業員たちは今頃店のテーブルを拭いたり開店準備を進めているはずだが、実際の開店にはまだかなり時間の余裕がある――アルカードが手伝いに行く必要は無い。むしろ開店するまでの間は、彼のほうが忙しい。

 保安上の観点から、このパソコンはアルカードしか使わない――ここまで低スペックのパソコンを騙し騙し使うほどの忍耐の持ち合わせがあるのが、アルカードだけなのだと言い換えてもいい。

 エレオノーラはああ見えてたいていのことは小器用にこなすのだが、デジタルものには疎いらしい――アンはパソコンの使い道を課題用と割り切っており、レポートなどを書くのに重宝しているものの、エクセルにはてんで興味が無いらしい。フリドリッヒは――彼になにかやらせようと思ったら、まず電源の入れ方から教えなければならない。頼れるのはジョーディくらいなのだが、彼は一度過去半年分の売り上げデータを削除してしまった前歴があり、本人が嫌がってやりたがらないのだ――普段は冷静沈着なくせにコンピュータが絡むとわけがわからないままいらいらして、結局投げ出してしまう部分もある。

 結局何事も、この手で為さねばならない――そんなことを胸中でだけつぶやいて、アルカードは鍵のかかった机の抽斗からUSBフラッシュメモリを取り出した。

 以前店に泥棒が入って――金目当ての犯行ではなく、女性従業員の制服目的の変質者だったのだが――、それ以降用心のために重要な情報はすべてそちらに移してある。ついでにセコムの契約をしたのもこのときからだが。

 むしろこのパソコンを盗んでくれると処分の手間が省けるのだが、Windows 98のステッカーが貼られたパソコンなんか誰も盗まないだろう。

 唇をゆがめて、USBフラッシュメモリの中からエクセルのデータを呼び出す。

 『2006.1売上データ.xls』という名前のファイルを指定すると、ファイルを扱うためのフリーソフトが立ち上がった――呼び出したファイルに、保管されていたレシートの内容を入力していく。

 二十分ほどその作業を続けたとき、扉を開けてアンが顔を出した。

「アルカード、業者さんが来たわ。荷受けお願い」

 はいよ、と返事をして、アルカードはデータを保存してからUSBフラッシュメモリを引き抜いた。シャットダウン処理をし、フラッシュメモリを鍵つきの抽斗に放り込んで立ち上がる。

 さっさと引っ込んだアンを追う様にして、アルカードは扉を開けて廊下に出た。

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