Dance with Midians 2

 

   †

 

 玄関の扉を閉めて共用廊下に出ると、折からの突風に煽られて前髪が揺れた――自動でスイッチの入った共用廊下の照明のひとつが、ちらちらと瞬いている。

 蛍光燈が切れかけているのだ。あとで交換しなければならないだろう――胸中でつぶやいて共用廊下の下から出ると、ちらほらと視界に白いものが舞った。

 頭上を見上げると、空から綿毛の様な雪が降ってきている――寒いわけだ。

 息が白く凍るのに苦笑して、アルカードは右手の指を軽く曲げ伸ばしした――雪が降るほど気温が低く、風も出ている。指がかじかみもするはずだ。

 じきに十六時を回るので、陽は西側に沈みつつある――西日に顔を顰め、彼は歩き始めた。

 彼が向かおうとしている郵便局はこの近隣の本局で、窓口は十九時まで開いている――し、書留の受け取りならゆうゆう窓口で二十四時間可能なので、遅くなっても問題無い。

 日本での行動の拠点にしているアパートの裏手に止めた車を使おうとも思ったが、やめておく――今は特に急ぎの用事は無いので、のんびり歩きたい。それに車に乗ったところで、ヒーターが効き始めるよりも早く目的地に着くだろう。

 右手は住宅街に通じていて、左手には六、七メートルばかり向こう側に交差点がある。

 交差点の手前左側には塀で囲まれた駐車場があって、見慣れたジープ・ラングラーが駐車されている。見慣れているのは当然で――つまるところ、彼の持ち物だからだ。

 駐車場正面の道路を左手に行くと、アルカードが普段職場にしているレストランのオーナーの自宅と、その店の前を通って警察署や消防署の分署、南側の中央公園、それにオーナーの二女が通っていた女子高なんかもそちらにある。

 右手は街の中心部を東西に貫通する高速道路と、その高速道路に沿う様にして北側を走る幹線道路、その幹線道路の周囲に郵便局の本局や警察署、消防署、市役所、総合病院や大型の商業施設等様々な施設が集中した市街の中心部に通じている――途中には友誼のあるここらの有力者の屋敷があるのと、テレビに取り上げられたこともある近隣で有名な歯科医もあった。あとは途中の丁字路を左に行くと友人の自宅と、ああ、あの小汚い触手を振り回すしか芸の無い蜘蛛型疫病神の根城になっていた神社もある。

 アルカードの行き先は郵便局の本局なので、街の中心部が目的地だ――交差点を右折して歩き始め、数分で本条家の屋敷に到達する。

 ここらの大地主でここ十年来の友人でもある人物の屋敷で、ここから百メートルばかり塗り替えたばかりの白漆喰の塀が続いている。邸内は太平洋戦争も生き延びた、赴きある日本家屋だ。

 アルカードは塀に沿って歩道を歩き、硲西という交差点名が掲示された丁字の交差点で足を止めた。

 東側の歩道、本条邸側を歩いているぶんには硲西交差点の信号の切り変わりを気にする必要は無い――本条邸側は丁字路の横棒側で、歩道が分断されていないからだ。

 交差点の向かい側は北側は月極契約メインの機械化された有料駐車場、南側はコンビニになっている。コンビニ側の歩道の角のあたりに近所の警察官夫婦の小学生になったばかりの娘御がいるのに気づいて、アルカードは足を止めた――ダウンジャケットを羽織った少女は予防接種を終えたばかりの小さな白い雑種犬の綱を手に小さなポシェットを襷掛けにして、信号が変わるのを待っている。こちらに気づいて手を振ってきた少女が横断歩道を渡って近づくのを待つために、アルカードはそのまましばらくその場にとどまっていた。

「こんにちは、お兄さん」 横断歩道を渡り終えた女の子が、そう声をかけてくる。

「こんにちは、小雪ちゃん」 夕暮れ時の暗くなり始めた空を見上げてこんにちはと返すべきか、それともこんばんはと返すべきか一瞬迷ってから――結局こんにちはと返す。

「お散歩?」

 かがみこんで少女と目線を合わせてそう問いかけると、にこにこ笑いながら小雪が大きくうなずいた。手を加えていない栗色の髪が、その仕草に合わせて軽く揺れる。

 脛に前肢をかけて尻尾を振っている雑種犬の体を抱き上げると、仔犬が首元に鼻先を近づけて匂いを嗅ぎ始めた。

「いえ。お父さんとお母さんを迎えに行くんです」 にこやかな口調でそう答えてくる少女の頭を撫でてやり、アルカードは仔犬の体を降ろして立ち上がった。彼女は毎日両親の勤務先である深川警察署にふたりを仔犬の散歩がてらに迎えに行くらしく、今もそのために出歩いているらしい。

 東京の都心から離れたこの街は、さほど犯罪発生率は高くない――だがそれでも日の落ちるのが早い冬に、じきに暗くなり始める時間帯に幼い女の子をひとりで出かけさせるというのはなかなか勇気がいるだろう。

 彼女の両親は犬を飼いたいという娘のために最近官舎を出て家を買ったのだが、これなら官舎のほうがまだましではないだろうか――幾分批判的なものの混じった感想をいだきつつ、アルカードは立ち上がった。どのみちアルカードが口を出す権利のあることでもない。

「じゃあ、途中まで一緒に行こうか?」

 はい、と屈託の無い笑顔を返す小雪から仔犬の綱を受け取ってミトン型の可愛らしい手袋を嵌めた手を軽く握り、アルカードは歩調を落として歩みを再開した。

 小雪が差し出したサイコロ型の飴玉を一個もらって他愛も無い雑談をしながら、手をつないでゆっくりと歩いていく――郵便局が見えてきたところで、見知った姿を目にしてアルカードは足を止めた。

 向こうもこちらに気づいたらしい――小雪にも気づいたのか、微笑んで小さく手を振る。

「あ、おねえさんです」 小雪が声をあげて、近づいてくる相手に大きく手を振った。

 近づいてきたのは、白を基調にしたスーツを着た白人の女性だった――英国系には珍しい燃える様な赤毛が、白い衣装によく映えている。

「ハイ、小雪ちゃん。元気?」 近づいてきた少女に目線を合わせてかがみこみ、彼女は小さく微笑んでみせた。

 アルカードが引き綱を放した仔犬がその足元に駆け寄っていくと、彼女は仔犬の頭を撫でてからアルカードに視線を向けた。

「お帰り、アルカード。早かったのね」

「ああ、向こうでの仕事が、あまりかんばしくなくてな――あとは日本でやることになりそうだ」 そう答えて、アルカードは小さく息を吐いた。

「アンおねえさんは、学校はもう終わったんですか?」

 アンと呼ばれた赤毛の女性が、小雪の言葉に小さく笑みを浮かべてみせる。彼女はかがみこんで小雪と目線を合わせ、

「ええ、今日はもうおしまい。小雪ちゃんは今日もパパとママのお迎え? えらいのね」

 はい、とうなずく小雪の頭を撫でてやり、アンはこちらに視線を向けてきた。

「アルカードは?」

「コンビニ近くで一緒になっただけだよ。俺はそこに用があるんだ」すぐそこに見える 郵便局を視線で示すと、アンは納得した様にうなずいてみせた。

「こないだ言ってた免許証の更新?」

「ああ」 アルカードの誕生日は――名目だけだが――二月上旬になっている。なにしろ五百年以上前の話なので、アルカードは正確な自分の誕生日を知らない――当時の暦などたいしてあてにならないし、日付も不正確だ。夏だということだけは、母親から聞いて知っているが。

 アルカードの免許証に書かれた誕生日はヴァチカンの手配でイタリア国籍を得た八十年ほど前、適当にでっちあげたものだ――正確に言うとヴァチカン聖堂騎士団の職員とイタリア国籍の取得に関して相談をした、その日の日付をそのまま使ったのだが。

 近隣に試験場が無いため、更新の葉書が届いてすぐに警察署で更新と郵送の手続きを済ませたのだが――生憎香港行きの日程が重なったために受け取ることが出来ず、更新時期を迎えたクレジットカードともども不在票が入っていたので受け取りに出向くことにしたのだ。

「じゃあ小雪ちゃん、お姉ちゃんと一緒に警察署に行こっか?」

「はい!」

「じゃあごめんね、先に郵便局に寄ってもいいかな?」

 うれしそうにうなずく小雪の手を引いて、アンは郵便局のほうに歩いていった。それについて郵便局に向かって歩を進めながら、

「君も郵便局に用事があるのか、アン」

「わたしはお金下ろさないといけないのよ」

「そうか」 そんな言葉を交わしながら仔犬を抱き上げ、アルカードはアンと小雪に続いて郵便局に入っていった。

 そういえばこの犬の名前なんて言うんだろ、と思いつつ、小雪と一緒にATMの前に並ぶアンを見送って、郵便物の窓口に歩み寄る――ふたつあるカウンターの一方には誰もいなかったので、暇そうにしていた局員がすぐに近づいてきた。

 不在連絡票と身分証を差し出して預かりになっていた郵便物を出してもらう様に頼んだところで周囲の微妙な空気の変化を感じ取り、アルカードは背後を振り返った――同時に耳を聾する銃声が郵便局内に響き渡り、腕の中の仔犬が身を固くする。

 ショットガン――今のはショットガンの銃声だ。ポンプアクションの動作音が聞こえず、代わりにガス圧排莢機構の動作音が聞こえた。セミオートショットガンか?

 SPASの音じゃないな――ベネリか?

 狩猟が趣味で現在は兼業で猟師をしている神城忠信の話だと、日本国内で購入出来るショットガンであれば二発までしか装填出来ないはずだ――薬室にあらかじめ装填してあれば、三発ということになる。

 コンバットロード――薬室にあらかじめ一発装填されていると仮定して、先ほど一発発砲したから、とりあえずひとりの散弾銃は最大でも現在二発。どうせすぐに継ぎ足して装填するだろうが。

 ようやく目当ての封筒を見つけてこちらに歩き出しかけていた初老の女性が、銃声にすくみあがってその場で固まっている――カウンター越しに何人かの局員が、驚きと恐怖の入り混じった表情でこちらの背後を凝視していた。

「おらあ、動くんじゃねえ!」

「へい、ほーるどあっぷ!」 くぐもった怒鳴り声がふたつ――明らかに発音のおかしな英語も混じっている。せめてカタカナで表記してもらえる様になれ。

 それを聞き流しながら、周囲に視線を走らせる――列の真ん中あたりにいたアンと小雪は人の列と誘導用の可動柵に阻まれて身動きが取れないらしい。アンはイギリス人だし、父親が狩猟を趣味にしていると言っていたから、そこまで動揺はしていない様だが――小雪はもろにおびえてしまっている。

 泣きそうな顔をした小雪が、アンのスカートの裾を掴んでいるのが見えた――可哀想に。

 胸中でつぶやきながら、さらに周囲に注意を向ける――この郵便局は本局でそれなりの規模があり、出入り口がふたつある。今銃をぶっ放した連中がアルカードの背後にある入り口から入ってきたなら、反対側から逃げればいい。単純な答えだ。

 実際、それを実行した者もいるらしい。銃声など映画でしか聞いたことが無いであろう日本人たちの何人かがそれでも危険を察したのか、金切り声をあげながら反対側の出入り口に向かって走り出し――やかましい悲鳴だと彼は思った――、しかしそちら側の入り口から聞こえてきた銃声と怒声に押し戻されて局内に戻ってきた。

 そのときになってようやく、振り返る――相手を刺激するわけにはいかない。発砲されたらアルカード自身が回避するのは容易だが、周囲の局員や客が巻き込まれる。

 そのときの視線の移動の中で、反対側の入り口から入ってきた相手を確認する――ふたり。ひとりはポンプアクション式のショットガン。モスバーグ製の様だが、追い立てられて戻ってきた女が邪魔でよくわからない。

 もうひとりはボルトアクション式のライフルを持っていた――レミントン製の狩猟用ボルトアクション・ライフルで、確か装弾数は五発。コンバットロードしていると考えると、薬室含めて六発か。

 最後に、背後で最初に発砲した連中に視線を向ける――ふたりとも強姦魔みたいな目出し帽をかぶっていて、ひとりは眼鏡を、もうひとりはサングラスを、それぞれ目出し帽の下にかけていた。

 ひとりはレミントンのショットガンを持っている。もうひとりはベネリM3スーパー90――特殊部隊用途向けの軍用ショットガンを供給するイタリアのメーカーが生産した、セミオートショットガンを持っていた。実際に特殊部隊向けに供給されたのと同じモデルで、狩猟の用途に適しているかどうかはともかく室内制圧戦C Q B用としては出来がいい――旧タイプのものだが、日本でも手に入るらしい。

 レミントンを持った男とベネリを持った男、どちらが発砲したのかはすでに銃口から立ち昇る硝煙が消えてしまっていたのでわからない。だがベネリを持った男が、レシーヴァー下部の給弾口から赤い樹脂製の弾薬ショットシェルを押し込んでいる。先ほどの銃声は、セミオート式のショットガンのものだった――射撃後に、排莢と再装填のためのポンプの動作音が聞こえなかった――し、発砲したのはこの男だろう。

 反対側の出入り口から入ってきた連中も、同様に目出し帽をかぶっている。ただしこちらのふたりは、眼鏡やサングラスの代わりに草刈りに使う様なゴーグルをかけていた。

 強盗? 銀行じゃなく郵便局に?

 否、銀行は十五時の時点で窓口業務は終了しているか――銀行が閉まっているからこっちに来た? それとも、日勤の警官が退勤したあとの時間帯を狙うために、あえて十九時まで営業している郵便局を選んだのだろうか?

 全員判で捺した様に、ぶかぶかのオーヴァーオールを着ている――おそらく、内側に着ている服の特徴を覚えられないためだろう。よくある小説なんかだと、こういった状況において犯人グループが覆面をかぶっているのを見て『ああ、こっちを殺すつもりは無いんだ』と安心する描写があるが、実際はそうではない――彼らが覆面をするのは人間相手ではなく、監視カメラ対策だ。

 監視カメラの無い金融機関など無い――何十年か前、まだ防犯カメラが一般的でなかった時代、イギリスに顔にテープ一枚貼っただけの銀行強盗がいた。

 普通に考えればすぐに捕まりそうな話だが、少なくともそのときは、犯人は見事逃げ遂せた――そのあとは彼も知らないが。

 鼻の頭に原住民の模様みたいにテープを貼った銀行強盗を目にしたとき、テープの印象が強すぎて、誰ひとりとして犯人の顔を覚えていなかったのだ。

 この様に人間の記憶など到底あてに出来ないものだが、防犯用の監視カメラは違う――なんの感情も持たないがゆえに、印象に影響など受けないし物事の表も裏も斟酌せずただ視界に映る事実のみを記録する。記録より記録、ドライブレコーダーのコマーシャルメッセージのキャッチコピーにそんなのがあるが、要するにそういうことだ。

 逆に言えば、現代における犯罪は人間と機械を同時にごまかさなければならないのだ。そしてアルカードの経験上、大抵の場合人間のほうが機械よりも騙し易い。

 したがって監視カメラの脅威が無い状況であればともかく、監視カメラのある状況では犯人が覆面をするのはごく自然なことだ――さらに深読みをするなら、局員や警備員に彼らの仲間がいる可能性はさほど高くない。

 ほかの局員に素顔を見られているし、監視カメラにも素顔が映っている。偽名を名乗っていても、履歴書に顔写真、免許証のコピー、社会保険、その他もろもろの特徴が把握出来る証拠が残る。

 仮に犯人グループの仲間がいたとしても、その役目は主に侵入の手引きや警報装置の無力化で、強盗犯のグループに表立って参加することは無いだろう――怯え狂う客たちの前で正体を明かせば、ひとりだけ素顔を目撃されるリスクを負うことになる。怯えるほかの局員と一緒におびえたふりをし、彼らが逃げたあとはなにも知らない様に振る舞えばいい。

 問題は、そう簡単に逐電出来ないことくらいか――強盗犯の実行班はそのままさっさととんずらすればいいが、局員のひとりとして勤務しながら強盗犯として参加しているなら、強盗事件のあとは辞表を出し、業務を引き継いで、円満退職を行わなければならない。そうでないと怪しまれる。

 そんなことを考えながら、アルカードは四人の強盗犯たちを見遣った――ショットガンの銃口を向けて威嚇しながら、彼らは局員たちにカウンターから出てくる様に命じている。

 彼らが出入り口を塞いでいるから、客たちは出ていくことが出来ない。郵便局員たちもそうだが、実際にはさっきの銃声で逃げ出した人間も多いとアルカードは見当をつけた。

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