The Season of Fresh Green(中編)第2話

「……くっっそぉぉ~~~~……」


 岡崎は、自室の机に突っ伏し、思わず唸った。


 最近、仕事を終えて帰宅すると、決まってこの症状が出た。

 年度始めの忙しさに加え——とんでもなく重たい塊が胸の中にずしっと居座り、重苦しくてたまらない。



 あの夜、吉野から熱烈な告白を受け。

 翌朝、それを綺麗になかったことにされ。

 おまけに、電話であんな風に最悪な言い合いになり。


 吉野の行動をいくら繋げようとしても、ひとつに繋がらない。

 岡崎には、吉野の気持ちが、いくら考えてもさっぱり理解できずにいた。



 あの時、告白を覚えていることをちゃんと吉野に言えなかった俺が悪い。

 それは分かっている。


 けど……

 覚えていないからといって、告白なんていう大切なものを全くの白紙に戻して平然としているあいつの心を、図らずも知ってしまった……それが、どうにも痛いのだ。

 吉野を疑い、責めたい気持ちが、どうしても拭えない。



 ここまで、悩みに悩んで……こなすべき自分の任務も何もかも、手放した。

 これでいいと思った。


 それは多分——あいつがいたから。



 もしも、あいつとの関係が一切なければ——

 自分の選んだ道は、もしかしたら……どこかで、今とは違っていたかもしれない。


 そうやって、苦しみぬいた末に選んだ道……だったのに。



 やっぱり、俺が相手でも、それ以外でも……あいつにとっては、割とどうでもいいことだったんじゃないか。

 一時は惹かれたはずの女の子を、あいつは現にあっさり次々取り替えてきたじゃないか。


 俺を手放したことを、あいつは悔やみ、苦しんだ——そうマスターは言っていた。

 けれど——

 熱しやすく、冷めやすい——そういう表現も、世の中には存在するのだ。

 しかも、しばしばありがちな現象として。


 そう考えれば考えるほど、吉野はやはりただの無神経でチャラいプレイボーイとしか思えない。



「あ~~~~~~~~!!!!!

 くそぉっ最悪だ!! ふざけるなバカ吉野っ!!!

 てめえ俺の人生までチャラチャラ弄ぶつもりかっっ!!?」


 そう叫ぶと、岡崎は机からがっと立ち上がった。

 ここでこうして俯いていては、自分自身が情けなくなる一方だ。


 岡崎は、スーツを着替えもせずそのままバタンと部屋を出ていった。





✳︎





「いらっしゃいませ」


 ドアを開けてぱらぱらと入店してくる客に、マスターはいつものように穏やかに声を掛ける。

 週末は混み合うカクテルバーも、平日は比較的静かだ。


 再びドアの開く気配に、マスターは入り口に顔を向ける。

 相変わらず品良くスーツを着こなす端正な横顔が、店の柔らかい照明に照らされた。


「……ん?」


 今日は水曜だ。

 これまで、金曜以外はこの店に来たことがなかったのに。

 彼はいつになく沈んだ顔で押し黙ったまま、静かにカウンターの席に座ると、華奢な指でメガネを押し上げた。


 ——その隣に、連れが座る気配はないようだ。



 彼が決まって最初にオーダーするウイスキーのロックを用意し、彼の目の前に置いた。



「……おひとりですか?」


 彼は、ふと視線を上げ——淡く綺麗な微笑を浮かべた。


「ええ。

 こんなウィークデイにここへくるとは、自分でも予想外なんですけどね」


 若葉の季節だというのに寒さで冷え切ったような指先が、グラスに伸びる。

 そのまま静かに口に運ぶと、彼は手の中の琥珀色の液体をじっと見つめた。



「マスター。

 俺——あいつに、振られたのかもしれません」





✳︎





 疲れた様子の岡崎の話を、マスターは静かに受け止めた。

 半月ほど前……3月の末に彼がここで散々酒を呷り、悩み、些かふらつきつつ店を出てから……今日、ここに来るまでのことを。



「——ほんとに、何が何だかさっぱりわからなくなって。

 こんなにもわからないこと、今までたった一つもなかったのに……」


 肩を落とし、岡崎は落胆を隠さない。



 ……本当に手のかかる、かわいい子たちだ。

 思わずそんな本音と微笑みが漏れそうになるのを、マスターはぐっと堪える。



「……私には、よくわかりますよ。彼の気持ち。


 彼が、その告白を取り下げた理由は……翌日、彼に何も答えられなかったあなたのリアクションが、そのまま物語っているのではありませんか?」



「…………」


 なんということもなくさらりと返ってきた答えに、岡崎は意表を突かれたようにマスターを見つめた。


「いきなりそのような告白を突きつけても、きっとあなたは受け止めきれない。むしろ、引かれてしまうかもしれない。——彼は、そう思ったのでは?


 私だって、いくら深く愛している相手に対してでも、いきなりそこまで情熱に満ちた告白をするのはちょっと怖い。万一相手に『重い!』と逃げ腰になられてはキツいですしね。

 あなたを手放したことを、彼はあれだけ悔やまれていましたから……あなたの顔を見て、募っていた想いが勢い余って一気に溢れてしまったのでしょう。

 それにしても……あの彼に、そういう告白をさせるなんて。どれだけ深く愛されてるんです?」


「————」


 岡崎は、俄かに照れた顔をひどく赤面させてぐっと俯く。

 微笑ましいものを見るように、マスターは優しくそれを見つめた。


「彼も、感情の高ぶりで思わず告白してしまって、後からそのことに思い至った……だから、一旦あの言葉を取り下げざるを得ないと、判断したんじゃないかな。

 あなたが覚えていないと聞いて、『じゃあ、まあいいか』ってなってしまうところが、いかにも彼らしいですけどね。

 ——私なら、愛するひとにもう一度伝えたくなるかもしれない。せっかく言葉になった自分の本心ですから」


 マスターは、そんなことを言うと楽しそうにクスッと笑う。


「何にしても——

 その言葉は、疑うよりも、まず信じるべき言葉だと思いますよ。

 あなたとの関係を壊したくないからこそ、彼はそういう行動を選んだ。私には、そう思えます」



「…………昔から全然変わらないあいつの適当そうな顔を見てると、どうしてもそう思えなくて」


 そんな岡崎のぼやきのような呟きに、マスターはおかしそうにくすくすと笑う。

「それに、あなたも。

 そんなそぶりを見せたくないと必死にクールに振る舞いつつ、実は彼に愛されたくてたまらない。——本当に可愛い方だ」


「————!!!」

 その言葉に、岡崎はギクリと反応してぶわっと赤面し、マスターの顔をまじまじと見つめる。



「ふふ、ごめんなさい。冗談です。

 でも……あなたが彼の告白をちゃんと覚えていることを、彼に伝えられれば……きっと、この状況は変わる。

 彼の気持ちに、何と答えるか……それは、もう決まりましたか?」


「…………」


「あ、言わなくていいんです。そんなことを聞くほど野暮じゃない。

 でも……彼の告白が、あなたには何より嬉しかったこと。あなたがその言葉を大切に思っていることは、ちゃんと伝えなければ。

 そうでなければ、きっと後悔する。……私は、そう思います」



「…………

 そうかもしれませんね……」


 岡崎はどこか照れ臭そうに目の前のグラスを見つめ、ぼそりと呟く。

「……恋とか、こういうことに関しては、本当にさっぱりわからなくて……

 まるで俺、マスターに手を引っ張ってもらってる幼稚園児みたいですね……」

 

 その言葉に、マスターは柔らかく微笑んだ。

「そういう初々しいあなたたちだから、私もこうしてお節介なくらい手を引っ張りたくなるのかもしれません。

 なんなら喜んでお引き受けしますよ、幼稚園の先生」


「幼稚園の先生……

 マスター、時々言葉がいきなりチクチクしますよね?」

「ん、そうかな? ごめんなさい。ふふっ」



 手に取ったグラスをしばらく見つめ、ふっと小さな息をついて岡崎は呟く。


「……これからも、教えてください。

 やっぱり俺には、恋は甘く浮き立つものというより、苦味ばかりの手に負えない難問です。


 でも——

 店に来た時はただの苦い水だった酒が——今はこんなに甘く、幸せな味の液体に変わってる。

 人間の心って、複雑なようでいて、とても単純ですね」


 マスターにそう明るく微笑むと、岡崎は静かにそのグラスを傾けた。



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