第50話回復の兆し

 

 

 

 

 夕方になり、いずみはトトと共にジェラルドの元へ向かう。

 いつもの部屋へ通されると、椅子に座ったままのジェラルドが嬉しそうに目を細めていた。


「待っていたぞ。さあ、早くこちらへ来い」


 ここ最近ジェラルドの機嫌はすこぶる良い。威圧感は変わらずだが、初めて対面した時のような鋭く尖った禍々しいものではなく、間近にいても息苦しさを感じなくなった。


 いずみは言われるままに距離を縮めて跪くと、「失礼します」とジェラルドの手を取り、肌艶を確かめつつ脈を測る。


 まだ血色は悪いが、痩せ細っていた以前に比べると肉付きが良くなっている。わずかずつだが、確実に回復している手応えがあった。


「今日はお体の調子に変わりはありませんでしたか?」


「問題ない。むしろ動かないと落ち着かなくてな、久方ぶりにキリルと手合わせしていたぞ」


 これも最近になって見られるようになった回復の兆しだ。

 治療を始めた直後は歩くことすら辛そうで億劫がって、最低限の動きしかなかったが、今では自分から剣の鍛錬をするまでになっている。さらに調子が良い日は、近くの森へ狩りに出かける時もある。


 ただ、失われた体力や筋力はそうそう簡単には戻らない。少し無理をしてしまい、翌日に体調を崩すこともしばしばあった。

 いずみは微笑みながら、困ったように眉間を寄せる。


「日に日に回復に向かっているお姿を見ることができて、私も嬉しく思います。でも、あまりご無理はされないで下さい」


 チラリとジェラルドの鋭い目がいずみに向く。凄みはあるが、どこか拗ねた視線で怖さを感じさせなかった。


「言われずとも分かっておる。キリルからもしつこく言われているからな……早く思いのままに体を動かしたいものだ」


 小さく息をついてジェラルドは一笑すると、瞳を前に戻し、虚空を見つめる。


「できれば朝から動きたいところだが、昼になるまで頭が朦朧として気だるさが抜けぬ。昼過ぎにならなければ動けぬこの身が歯がゆいな」


 悔しさを滲ませるジェラルドに、いずみは顔を曇らせる。


 一番穏やかにやり取りできるのは夕方。これは診察を始めてからすぐに分かったこと。

 本来なら朝に診察することが望ましかったが、自分を制御できず、その時の気分で切り捨ててしまうかもしれないと、ジェラルドが夕方の診察を希望したのだ。


 改善は見られても、根本はまだ変わっていない。一気に治せないことに、いずみも歯がゆさを感じていた。


 調合した薬を渡し、ジェラルドが飲んだことを確かめてから、いずみは薬箱を片付け始める。


 と、唐突に背後から「陛下」と呼ぶキリルの声がした。

 いずみが振り返ると、近くに控えていたトトの隣で跪き、頭を垂れるキリルの姿があった。


 不意打ちにキリルが現れるのは、もう日常化している。

 横目で様子を伺いながらも、いずみは落ち着いて片付けを続ける。


「顔を上げよ、キリル。どうしたのだ?」


 言われるままにキリルは顔を上げると、ジェラルドを見上げた。


「今しがた密偵から、西側の国境付近にいる貴族たちの中で、不穏な動きがあると報告を受けました。詳細はまだ掴めておりませぬが、近い内に洗い出し――」


「洗い出すなど時間の無駄だ。疑わしきは一族ごと斬り捨てろ。判断はお前たちに任せる」


 無機質で氷よりも冷ややかなジェラルドの低い声に、いずみは体を強ばらせる。


 自分とやり取りする時は態度も柔らかく、時折穏やかに笑うこともある。

 しかし、それは治療を施す自分に対してのみ。他の者には相変わらず冷酷で、相手への慈悲は微塵もない。女子供であろうが容赦しない。


 まだジェラルドの中で、他者の命は軽いままだ。

 心なしか残虐性は弱まっているような気はするが、それでも狂気の沼から抜け出せてはいない。


 人間味を感じさせるのは、自分と直接やり取りをするこの時だけ。

 いずみはわずかに俯き、下唇を噛む。


(もし私が、無闇に人の命を奪わないで欲しいと陛下にお願いすれば、聞き入れてくれるかもしれない。でも……)


 何度もジェラルドに伝えたくて、喉元から言葉が出かかっていた。

 けれど、言いかけると決まってキリルが背後から殺気を放ち、後から「余計なことは言うな」と重圧をかけられてしまう。

 おそらく言ってしまえば、こちらには手を出さないが、その分水月かトトに罰が与えられるだろう。


 水月からも「一日でも早く治療を終わらせた方が、大勢を助けることができる。だから余計なことは言っちゃ駄目だぞ」と言われている。

 およそ納得できるものではなかったが、無力な自分は受け入れざるを得なかった。


 こちらの思いを他所に、ジェラルドとキリルの非情な言葉のやり取りが続く。

 それを耳に入れながら、いずみは泣かないように歯を食いしばり、道具を片付けていく。


 希望の光は見えていても、未だ小さな星一つほどの光。

 バルディグに広がってしまった沈鬱な闇を照らすには、あまりにも頼りなく、今にも呑み込まれて消えてしまいそうだった。

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