第47話譲れない信念
いずみの足元から背筋へ、虫が這うような寒気が上っていく。
自分に刃が向けられている訳ではないのに、イヴァンを貫いてこちらへキリルの殺気が向けられているような気がした。
しかし、命の危機に晒されているのに、イヴァンの口元が笑っていた。
「キリル……俺に剣を向けるとはいい度胸だ。国の行く末よりも、王位を継ぐ俺の命よりも、そんなに親父の不老不死が大切なのか?」
イヴァンの静かな怒気混じりの声に、キリルは微塵の動揺も見せなかった。
「陛下のお心に沿うことが我が使命……その邪魔をするというなら、王子であろうが神であろうが例外なく始末する」
脅しではなく、キリルなら言葉通りのことを容赦なく実行する。
隠れ里での惨劇が脳裏によみがえり、いずみの歯が小刻みに震える。
このままではイヴァンやルカが殺されてしまう。
もし彼らが勝つとしても、キリルだけでなく、刃を向けた水月も殺されてしまうかもしれない。
互いの出方を伺い、誰もが押し黙る。
沈黙が続くほどに場の空気は張り詰め、今にも弾けて彼らの剣を動かしてしまいそうだった。
何か言わなければ。
剣を交えず、誰一人傷つかない道は――。
(――あっ)
いずみはハッと息を引く。
水月と話し合わずに、これを伝えるのは勇気がいることだ。
言ったところで取り合ってくれないかもしれない。自分たちの命を危険に晒すことになるかもしれない。
絶対に大丈夫だという自信など微塵もない。けれど、今ここで言わなければ、惨劇を止められない気がした。
「あの、キリルさん! 今温室にいるのは私たちだけですか?」
いずみの唐突な声に、男たちが一斉に振り向く。
口を開くと思っていなかったのか、水月もイヴァンたちも驚きの色を隠していない。
だが、キリルだけは表情を変えず、凍てついた瞳だけをこちらに向ける。
「娘、それは今知る必要があるのか?」
いずみは怖気づきそうになる心を押し殺し、目に力を込めてキリルと視線を合わせた。
「はい。ここにいる人以外には聞かせられない、大切なお話があります」
こちらの意図を探るように、キリルが視線を投げかけ続ける。
しばらくして、小さく唸ってから「そうか」と呟いた。
「今この場にいるのは、ここにいる五人だけだ。外にも数名いるが、大声を出さなければ聞かれる心配はない」
こう言いながらも、もしかしたら部下を忍ばせているかもしれない。
ただ、安易に信用できない相手であったとしても、今は信じるしかなかった。
いずみは「分かりました」とキリルに返事をしてから、水月に目配せする。
どうやら何を言おうとしているのか察しがついたらしく、水月は神妙な面持ちで小さく頷いてくれた。
大きく息をついて覚悟を決めると、いずみはイヴァンへ一歩近づき、真っ直ぐに彼の目を見据えた。
「イヴァン様、今ここで陛下の治療を止めることはできません。誰かに脅されているからではなく、私は自分の意思でここに残りたいと望んでいます」
一瞬イヴァンは目を丸くしてからスッと細め、苛立ちを隠さぬ鋭い目つきになる。
「家族や仲間の仇を不老不死にすることが、お前の望みなのか? ……理解に苦しむな」
厳しい目で見下され、軽蔑されている気配をひしひしと感じる。
悲しくて胸は詰まったが、いずみは怯むことなく口を動かし続ける。
「いいえ。私の望みは、昔のお優しかった陛下を取り戻すことです。きっと本来の姿へお戻りになれば、不老不死を思い直して頂けるはずです」
ピクリ、とイヴァンのこめかみが動いた。
「昔の親父に戻す? 勝手にトチ狂って堕落した性根を、薬で治せるというのか? だとしたら、とっくの昔にトトたちが治している。あれは病気じゃない、生まれ持った本性だ」
「確かに陛下の現状はご病気が原因ではありません。でも、今の陛下が本来のお姿という訳でもありません」
いずみは瞳を揺るがすことなく、断言してみせる。
これに気づいた時はまだ半信半疑だったが、治療を続け、少しずつジェラルドの正気が戻りつつある手応えを得て、今は確信している。
ただ、本当は原因を突き止めてから、間違いなく信頼できる人に伝えるつもりだった。
ジェラルドを狂わせた原因を作っている人間に話を漏らさない、自分たちの命を預けられる人に――。
軽く唇を湿らせてから、いずみは引き返せない言葉を形にした。
「陛下は何者かによって毒を与えられて、意図的に精神を狂わされています」
イヴァンとルカから、息を引く音が聞こえてくる。
流石のキリルも驚いたのか、わずかに目を見張り「まさか」と声を漏らしていた。
「俺の手の者がいつも毒見をして、問題のない物を陛下にお出ししている。身に付ける品物に毒が付着していないか、部屋に毒が流れていないかも確かめている。もし毒が使われているなら、何かしらの異常が俺たちに出ているはずだが?」
「ごめんなさい、どんな物が使われているかまでは分かっていません。けれど、今までの治療で陛下は変わりつつあります。……生まれ持った性格のせいだとしたら、改善の兆しは見られませんから」
傍から見ていても、ジェラルドの変化は目に見えて分かる。
特にキリルやイヴァンなら、その狂気が弱まり始めていることを肌で感じているはず。彼らが即座に反論せず困惑していることが、その証拠だった。
あともうひと押しすれば分かってくれるかもしれない。
ふと気が抜けそうになり、いずみの意識が飛びそうになる。
昨日と今日の出来事が心を押し潰してくるが、自分たちの命がかかっている以上、気持ちで負ける訳にはいかなかった。
いずみは手を強く握り込み、手の平へ爪を食い込ませ、痛みで意識を繋ぎ止めた。
「お願いします、イヴァン様! どうか私に陛下の治療を続けることをお許し下さい。数年お時間を頂きますが、必ず陛下のお体を蝕む毒を取り除いてみせます」
言い切った途端にいずみの鼓動が速まり、耳の中で騒ぎ出す。
どうか首を縦に振ってくれますように、と祈っていたが――。
――イヴァンは険しい表情でいずみを睨むだけだった。
「今までの話が真実なら、お前は憎き仇を治療することになる。今は私心を捨てて治療していても、多くを失った恨みは消えぬだろう……いつ気が変わって親父へ復讐し、この国をより混乱に陥れるか分からんお前の言葉を、信じる訳にはいかない」
悲しいけれど、イヴァンの言うことはもっともだった。
治療を施してジェラルドを昔の賢王に戻したとしても、自分たちの家族や仲間の命を奪った事実は消えない。そして、失った命は戻ってこない。
日常を壊されたあの日の悲しみと、理不尽な運命を憎む気持ちがないと言えば嘘になる。
しかし、だからこそ絶対に譲れないものがあった。
いずみは背筋を正し、イヴァンの視線から逃げるどころか、挑むように目を合わせて視線をぶつけた。
「私は幼い頃から、どんな悪人であったとしても、病んだ者や傷ついた者を全力で治すことが久遠の花の使命だと教わりました。……この信念を曲げるということは、亡くなった一族の志を殺すことと同じです。それだけは絶対にできません」
次第に全身が熱くなり、息が途切れそうになる。
一旦言葉を止めて息継ぎをしてから、いずみは深々と頭を下げた。
「イヴァン様、お願いします。私に一族の信念を守らせて下さい!」
もうこれ以上は言葉が見つからない。
いずみは硬く目を閉じ、イヴァンの審判を待つ。
……ぽん、ぽん、と。
大きな手がいずみの頭を優しく叩いた。
「そうやってお前はずっと戦っていたのか。なるほど、他の者とは目が違う訳だ……エレーナ、顔を上げてくれ」
言われるままにいずみが上体を起こすと、イヴァンは薄く微笑みながらこちらを見つめていた。
「親父がまともになって昔のような政をしてくれるなら、バルディグにとっては一番望ましいことだ。それが叶うというなら俺も力を貸そう……キリル、それでいいか?」
振り向かずに話しかけるイヴァンへ、キリルは小さく頷き、剣を鞘に収めた。
チン、と音がなると同時に、張り詰めていた場の空気が軽くなる。
(良かった……誰も傷つかずに済んで……)
思わずいずみの口から、安堵の息が溢れる。
と、急に視界が白み、全身から力が抜けて前へ倒れそうになる。
「エレーナ?!」
イヴァンの慌てた声と、咄嗟に抱き止めてくれた腕の感触を最後に、いずみの意識は途絶えた。
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