第89話ボリスの想い
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――時は少し前にさかのぼる。
レオニードとボリスは市場から全力で走り続け、夕日が山へ沈み切る前に裏町の入り口へ辿り着いた。
どちらともなく立ち止まると、各々に大きく吸い込んで息を整える。
心臓が絶え間なく胸を震わせ、耳元でやかましい音を響かせ続ける。鼓動に合わせて、耳先も熱く脈打っていた。
まだ整わない息のまま、ボリスが口を開いた。
「退役してから少し日が経ってるけど、全然体が鈍っていないね。頼もしいな」
今の生活を始めてからも、朝夕の鍛錬は欠かしていない。
それに雨が振らなければ、半日は森の中を歩き回って薬草を採取している。足腰の良い鍛錬になっていた。
レオニードは額に滲んだ汗を拭い、ボリスの目を見た。
「俺はまだ走れるが……ボリスは大丈夫なのか?」
少なくとも一ヶ月以上、ボリスは毒に倒れて身動きが取れなくなっていた。
みなもと今の生活を送るためにここを離れる直前、ボリスは普段の生活ができるほどに回復した。
だが、毒にやられる前の体を取り戻すには、まだ時間が必要だろうとみなもは言っていた。
実際、今も一緒に走ってみて、動きが鈍っているように感じられる。
無理をしているのは目に見えて明らかだった。
ボリスはかすかに口端を上げ、苦笑を浮かべた。
「かなりキツいけれど、まだ走れるよ。二人を早く助けに行かなくちゃ――」
そう言うなり、ボリスがおもむろに走り出す。
レオニードの足もそれにつられ、ボリスの隣に並んで走った。
隣を見やると、ボリスが眉間に深くシワを寄せ、苦しげに目を細めている。
しかし、その眼差しは力強く、いつもの朗らかで人を和ませる穏やかな空気は消えていた。
ぽつり、とボリスが呟いた。
「前にクリスタと約束したんだ。何があっても必ず守るって……」
レオニードの脳裏に、昔の懐かしい記憶が甦る。
父が退役する前まで住んでいた家が近所ということもあり、クリスタとはよく顔を合わせていた。
そして毎日のように家に来ていたボリスと三人で遊ぶ機会が多かった。
自分とボリスが兵士になり、住処をゾーヤの家の隣に移してから会う回数は減ったものの、クリスタはこまめに夕飯などを差し入れてくれていた。
いつも家に来てくれた時は彼女と一緒に夕食を口にし、楽しく談笑していた。
――クリスタとボリスが喋り、自分は聞き役に回ることがほとんどだったが。
そんなある日、バルディグとの戦争が始まった。
当初、自分たちは城の守りを固める要員として招集され、戦地に飛ばされはしなかった。
だが、いつ戦いの最前線へ行くことになるか分からない。
しかもバルディグの毒は解毒できず、次々と仲間は倒れていった。
共に暮らしていた身内も、戦場で命を落とした。
このままバルディグに城まで攻め入られ、すべて奪われるかもしれない。
犠牲者が増えるにつれ、街の人間から笑顔が消えていった。
それはクリスタも例外ではなかった。
先の見えないこれからに怯えるような、どんよりと曇った顔。
今までこんなに弱々しい彼女を見たことはなかった。
少しでもクリスタを安心させたい、そう思っていたのだろう。
ボリスは少しでも時間が取れれば、クリスタと顔を合わせて励ましていた。会いに行く時は、いつも彼女の好きな花を手土産にして。
家へ戻って来る度に、ボリスは「僕よりもレオニードが顔見せたほうが、クリスタも喜ぶよ」と言ってきた。
そう急かされても、自分から積極的には会いに行かなかった。
ボリスの態度を見れば、クリスタに惚れているのはよく分かったから。
(恐らくその時にクリスタと約束したんだろう。ボリスらしいというか……)
大切な相手が危機に晒されている、という不安と焦りは、嫌というほど分かる。
今もそうだが――二ヶ月ほど前に味わい続けた焦燥感に、どれだけ胸を握り潰されたことか。
まさかあの時の焦燥感を、再び抱え込むことになるとは思いもしなかった。
(必ず助けてみせる。みなもも、クリスタも)
レオニードは前に意識を戻し、一刻でも早く先へ進むことに専念する。
しばらく二人は、無言で込み入った小路を走り続けた。
疎らに響く足音と、互いの息を切らす音。そしてさらに早まっていく己の鼓動の音が、耳に集まってくる。
奥へ進むにつれて人気は完全になくなり、空気は湿り気を帯びて重たくなっていく。
夕日に照らされて色濃くなった建物の影は、路上へと重なり合い、黒い絨毯を敷き始めていた。
間もなくゴルバフ商会へ到着という時に、目前の角地から人影が現れた。
影で相手の顔はよく分からないが、中背のがっしりした体躯は男性のものだった。
おもむろにレオニードとボリスは左に寄り、ぶつからないよう注意を払う。
が、男はフラフラと二人に吸い寄せられるよう、近づいてきた。
ドンッ!
避けきれず、男の肩がレオニードにぶつかる。
その時、腰のベルトへ何かを引っ掛ける感触がした。
思わず立ち止まって後ろを振り向くと、男は文句の一つも言わず、無言で去って行った。
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