第88話救出開始

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 熱と息苦しさに耐えるみなもに構わず、キリは半ば小走りに廊下を進んでいく。

 体が揺れる度に鈍痛は広がり、胸奥から吐き気も溢れ出てくる。

 文句の一つでも言いたかったが、余計な動きを見せて連中に疑われては困る。


 みなもが唇を硬くして口を閉ざしていると、扉の前で一人だけ立っている見張りの前でキリは立ち止まった。


「どうしたんだよキリ。もう仕込みは終わったのか?」


 ヘラヘラと笑う見張りへ、キリは「まだだ」と首を振る。


「死んででもオレから逃げようとして、毒を飲みやがった。すぐに吐かせて、手持ちの解毒剤を飲ませたから死なねぇだろうが――」


 僅かに俯いてキリがみなもを覗くと、それにつられて見張りも覗き込んでくる。

 人の顔を見て、見張りは一瞬痛ましそうに表情を歪めた。


「スゲェな、首まで真っ赤だ……見ているこっちが苦しくなってくる」


「ああ、興ざめだぜ。もう半刻経てば回復するだろうが、また飲まれたら困る。だから、もっと自分の立場を分かってもらおうと思ってな、クリスタの前でコイツの躾を続けたいんだ」


 上気するみなもの頬を、キリは指でなぞった。


「今度死のうとすればどうなるか……忘れないよう、ずっとコイツの視界にクリスタを入れさせてやる」


 本来ならばおぞましい話だが、あくまで演技。キリは良い役者だ。

 見張りはこちらを疑う素振りすら見せず、「ほら、入れよ」と部屋へ通してくれた。


 日頃から使われていないのか、何とも殺風景な部屋だった。

 家具やガラクタすら見当たらない部屋の隅で、クリスタが小さくうずくまっている。


 青ざめた顔を上げてこちらを見ると、クリスタはハッと息を呑んだ。


「みなも、さん……」


 驚きと恐怖で丸くなった目が、みなもを真っ直ぐに捕らえる。

 次第に大きな瞳が潤み出し、唇を噛み締めて涙を懸命に堪えていた。


 キリはコツ、コツと足音を立てて近づくと、クリスタの目の前へみなもを横倒しにした。


「今からお前たちを躾ける道具を取ってくる。クリスタ、それまでコイツを看病してやれ」


 弾かれたようにクリスタが顔を上げて、キリを睨みつける。

 が、キリはそんな無言の批難に背を向け、部屋を出て行った。


 扉が閉まった後、向こう側からキリと見張りが会話する声が聞こえてくる。

 そしておもむろに二つの足音が遠ざかり、消えていった。


 ジッと扉を凝視していたクリスタだったが、我に返り、心配そうにみなもの顔を覗き込んだ。


「みなもさん、大丈夫? 一体あの男に何をされたの?」  


 部屋の前から人の気配が消えた事を確かめてから、みなもはクリスタへ微笑みかけた。


「大丈夫、これは演技だから安心して――」


 不意にクリスタの白い手が、みなもの額にそっと置かれた。


「強がらないで。こんなに酷い熱、演技で出せる訳がないわ」


「確かに普通ならね。……でも俺は藥師。一時的に体調を変える薬を、俺は持っているんだ」


 みなもは口を動かしながら、襟下から赤い丸薬を取り出して飲み込むと、ゆっくり深呼吸を始める。

 空気を吸うたびに、少しずつ体が楽になっていくのが分かる。


 そこそこ痛みと熱が引いたところで、みなもは上体を起こす。

 まだ体に倦怠感は残っているが、のんびり回復を待つ余裕はなかった。

 

「あの男――キリは今のところ味方だ。うまく言いくるめて、見張りをここから離してくれている。今の内に早く逃げよう」


 立ち上がろうとして、みなもの体がふらつく。

 動けるまで回復しているが、まだ毒は残っている。胸から込み上げてくる悪心がひどい。


 咄嗟にクリスタが立ち上がり、みなもの肩を支えた。


「普通に歩けるの? もし駄目なら私の肩を貸すわ」


「ありがとう、クリスタさん。でも大丈夫、これぐらい平気だから」


 本当は少し動くだけでも気持ち悪いが、クリスタを心配させたくない。

 にこりと笑って悪心をねじ伏せると、みなもは努めて普段の速さで歩き始めた。


「俺の後ろについて来て。裏の出口までクリスタさんを連れて行く」


 クリスタが小走りにこちらへ来たのを見計らい、みなもは腰の短剣を外し、彼女の前に差し出した。


「もしかしたら連中に気づかれて、戦闘になるかもしれない。万が一のことも考えられるから、悪いけど自分の身は自分で守ってもらうよ」


 一瞬、鈍色の輝きに躊躇したが、クリスタは「ええ」と頷き、短剣を手に取る。

 柄をギュッと握り、彼女は瞳に力を込めた。


「絶対に貴方の足手まといにはならないわ」


「そう言ってくれると頼もしいな。……あ、でも刃には触れないように気をつけて。毒が塗ってあるから」


 毒、と聞いた瞬間、クリスタの手から短剣が落ちそうになる。

 咄嗟に彼女は剣を抱え込み、みなもをまじまじと見つめた。


「……みなもさん、いつもこんな恐ろしい物を持っているの?」


「うん。つい最近まで俺にはそれが必要だったから、持っていないと落ち着かなくて。それに――」


 みなもは一呼吸置き、微笑を浮かべて言葉を続けた。


「――守ってもらうだけっていうのは性に合わないんだ。自分のことも、大切な人も、この手で守りたい」


 きっとレオニードに言えば、困った顔をして「俺が守るから、もう以前のような無理はしないでくれ」と言う気がする。

 その顔を想像するだけで胸の中が温かくなった。


 クリスタの瞳がわずかに揺らぐ。

 そして少し寂しそうな、けれど、どこか安堵したような顔で笑った。


「本当にあの人のことが好きなのね。……ちょっと安心したわ。もしかしたらレオニードが貴方に騙されているんじゃないかって、心配していたから」


 この人も、心からレオニードを愛しているんだな。

 無性に嬉しくなると同時に、後ろめたさも滲んだ。


「クリスタさん……俺、レオニードは騙していないけれど、他のみんなを今も騙しているんだ」


「え? どういうこと?」


 小首を傾げたクリスタへ、みなもは軽く肩をすくめた。


「無事にここから逃げて、奪われた物を取り戻したら言わせてもらうよ。レオニードを想う貴女にだけは、言わないと卑怯だと思うから」


「……今すぐ聞きたいけれど、時間がないものね。分かったわ、後でゆっくりお茶しながら聴かせて」


 互いに視線を合わせて頷くと、みなもを先頭に部屋を出る。


 まだ体の倦怠感は残っていたが、泣き言は言っていられない。

 辺りの気配を探りながら、みなもは足音を殺し、部屋を出て左の廊下を慎重に歩いていく。


 薄暗いその先には、ぼんやりと下へ降りる階段が見えた。

 刹那、ギッギッ、と木を軋ませながら階段を上がってくる足音が聞こえてきた。


 相手は一人。

 この体では普段よりも動きは鈍くなっているだろうが、負ける気はしない。


 みなもは素早くしゃがみ込み、靴先に仕込んである毒の刃を取り外す。

 そうして持ち手の穴に指を通し、前を見据えながら刃を構えた。

 

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