七章:決着
第58話異変
みなもがナウムの屋敷に戻ったのは、山際がほんのり白ばみ始めた頃。
自室へ戻った後、少しでも眠らなければとベッドへ潜り込んだ。
目を閉じてすぐ意識は遠のき、眠りの底へと落ちていく。
が、それはほんの一瞬だけ。あっと言う間に意識が浮上した。
うまく寝付けないと心で唸り、みなもはうっすらと目を開ける。
あまり時間は経っていないだろうと思っていたが、部屋は明るくなっており、窓から眩しい光が入り込んでいた。
(思ったよりも眠れたのか。……あんまり寝た気がしない)
みなもは気だるい体を起こすと、横目で時計を見やる。
いつも目覚める時間よりも、針は少し遅い時間を指していた。
……やばい。
まだ半分眠っていた頭が、完全に目覚める。
朝食を終えたらナウムの執務を手伝うことが日課なのだが、ほんの少し寝過ごしただけで、「お仕置きだ」と言って人の体にイタズラしてくる。
今日、ナウムから離れることができるのに、最後の最後まで弄ばれるのは嫌だった。
みなもはベッドから抜け出すと、慌ただしく着替えを始める。
男物に着替えるなら楽なのだが、ナウムからはドレスを着るよう命じられている。
まだ意思を取り戻したことを悟られる訳にはいかない。
不本意ながらも、みなもは衣装棚を開けてドレスを手に取った。
慣れない手つきで下着を身につけ、ドレスに袖を通す。
それから背中のボタンをとめにかかっていると――。
――バンッ! 荒々しく扉を開ける音がした。
この屋敷で、人の部屋へノックもせず勝手に入ってくる人間は一人しかいない。
みなもは一瞬顔をしかめるが、すぐに平然とした表情で待ち構える。
コツ、コツ、と鋭い足音を鳴らしながら、ナウムが姿を現した。
その顔にいつものような軽薄さはなく、苛立ちを隠さない鋭い眼光をこちらに向けていた。
「おはようナウム。どうしたの? そんな怖い顔して」
二人きりの時は敬語を使わず、今まで通りに接しろと命令されている。
しかしナウムからの返事はなく、その場に立ち尽くして睨みつけてきた。
しばらくして大きな舌打ちをすると、ナウムは「今のコイツにできる訳がないか」と呟き、みなもとの間を詰めてきた。
「……今、城内が大変なことになっているらしい」
「大変なこと?」
「オレもついさっき、城から駆け込んできた部下から聞いたばかりで、詳しい状況までは分からねぇ。ただ、城内の人間が次々に倒れて、街のほうにも被害が出始めているようだ」
乏しい表情を演じたまま、みなもは小さく息を引き、驚いてみせる。
しかし頭の中は、冷静かつ俊敏に働き出す。
これはきっと浪司の仕業だ。
少しやりすぎの感もあるが、目的を果たして生き延びるには必要だと判断したのだろう。
巻き添えを食らった市民や、城で働く人々のことを思うと気が重たくなる。だが、恐らく人が死ぬような代物は使っていないだろう。
それなら腹をくくって、一刻も早く事を終わらせたほうが良いように思えた。
みなもはナウムの目を真っ直ぐに見据える。
「もし毒が使われていても、俺ならどんな毒でも耐性がある。原因を突き止めるために、俺を城へ連れて行って欲しい」
「元からそのつもりだ。今すぐ準備して――ああ、そうだ。可能な限り、耐毒の薬を用意しろ。オレの部下たちは多少の耐性はあるが、念のために飲ませたい」
手短にみなもが「分かった」と返事をすると、ナウムは踵を返して足早に部屋を出て行く。
ナウムの足音が遠ざかるのを確かめてから、みなもは着替え途中のドレスを脱ぎ捨て、着慣れた男物の服を身にまとう。
そして素早く荷袋を開けると、中からいくつかの小瓶と、粉末入りの包み紙を取り出した。
(さて、と。じゃあ作るとするか……毒の耐性を消す薬を)
すうっ、と目を細めてみなもは手元を見つめる。
久しぶりに扱う毒と薬。自然と集中力が高まり、心の焦りと緊張が薄れていった。
半刻ですべてを準備すると、みなもはナウムや集まった部下たち十余名と共に、馬を走らせて城へと向かう。
近づくにつれ、道の脇に倒れた者を何人も見かけるようになった。
みなもはそんな人々を横目で見やり、顔をしかめる。
(ひどい状況だ……これを浪司がやったのか)
あくまで体を痺れさせる程度の毒。
しかしこの状況から言えることは、毒性の強い物を使えば、多くの人命を奪うこともできてしまうという事実。
頭では分かっていたことだが、実際に目の当たりにすると肝が冷えてくる。
毒を容易に使えば、取り返しのつかないことになるかもしれない。
ふと、浪司がそう釘を刺しているような気がした。
城の門まであと少しという所で、どの馬の足も止まっていく。
ナウムや部下たちがどうにか前へ進ませようと足で腹を蹴っても、馬たちは頭を振るばかりで、言うことを聞いてくれなかった。
真っ先にみなもは馬から降りると、ナウムの元へ駆け寄った。
「もうここまで毒が流れていますから、これ以上は馬で進めません」
「そうか、分かったぜ。……全員馬から降りて、こっちに集まれ!」
馬を降りながらナウムが大声を張り上げると、部下たちは一秒を争うように機敏な動きで集まってきた。
ナウムに目配せされ、みなもは腰に下げた小さな袋の中から、準備してきた丸薬を取り出した。
「みなさん、これは耐毒の薬です。まったく毒が効かなくなる訳ではありませんが、濃い毒が充満する中でも長く動くことができます」
みなもは一人一人に丸薬を配った後、ナウムにも「どうぞ」と差し出す。
だがナウムは小さく首を横に振った。
「オレはいつも飲んでいる物があるから大丈夫だ。もし城の中で動ける人間がいたら、そいつに渡してくれ」
飲んでくれれば、こっちも楽に動けるのに。
心の中で舌打ちをしてから、みなもは「分かりました」と素直に引き下がる。
部下たちが丸薬を飲み込んだことを見計らい、ナウムは口を開いた。
「今から二手に分かれて行動する。みなも、お前に部下を五人ほど貸してやるから、城の西側を調べてくれ。もし不審者を見つけたら即座に始末しろ」
ナウムの目から離れられるのはありがたい。この好機、逃す訳にはいかない。
無言で頷いたみなもの目へ、わずかに力が入る。
その刹那、ナウムが訝しそうな表情を浮かべる。
しかしそれは一瞬だけで、すぐにみなもから部下たちへと視線を移した。
視線を外されて、みなもは密かに胸を撫で下ろす。
(……本当にコイツは目ざといから、油断ならないよ)
あともう少しの辛抱だと自分に言い聞かせ、ナウムの指示を待つ。
部下とのやり取りを終えた直後、ナウムが「行くぞ」と駆け出す。
それに合わせて、みなもと部下たちは彼の後ろをついていった。
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