第36話困惑の中
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長旅で疲れているだろうからと、まだ日が明るい内にみなもはいずみと別れ、ナウムの屋敷へと連れて行かれた。
与えられた客室は白百合の模様が刻まれた調度品で統一されており、屋敷の主からは想像できない清々しさに満ちていた。
夕食はいらないから休ませてくれとナウムに申し出て、みなもは部屋のベッドで仰向けになる。
飾り棚にある陶器の置き時計の、チッ、チッ、という音が、静かな部屋に規則正しく響き、やけに耳へ入ってきた。
頭はずっと思考が巡り続けて、目眩を感じてしまう。
やおらと手で額を押さえると、熱が手の平に伝わる。
風邪でもひいた時のような火照りに、みなもは息をついた。
(……これが夢なら、今まで生きてきた中で一番の悪夢だ)
ずっと会いたいと思っていた、大好きな姉。
幼くして久遠の花の一員として、人を癒してきた姉。
そんな姉だから、物心ついた頃から尊敬していた。
自分の手を汚してでも姉を守りたいと思ったから、守り葉の道を選んだ。
姉が久遠の花の誇りを持ち、苦しむ人々と向き合い続けるのだと、信じて疑わなかった。
何が起きても、それだけは変わらないものだと信じていたのに。
目頭に熱いものがこみ上げてくる。
どうにか深呼吸して熱を目の奥に押し込むと、みなもは天井をぼんやりと見つめた。
(俺、これからどうすればいいんだろう?)
やっと会えて、今度こそ側を離れず、命をかけて守りたいと思っていた。
毒作りを強要されているなら、使える毒をすべて駆使していずみをバルディグから連れ出し、助けてみせると――。
なのに姉は自ら望んで毒を作っていると断言した。
王妃として、この国を守るために手段を選べなかったと、消え入りそうな声で呟いたいずみの眉間にはシワが寄っていた。
分かっているのだ。自ら作っている毒が、他国の人間を苦しめているということを。
それでもなお作らざるを得なかったいずみに、みなもは何も言うことができなかった。
(守り葉なら、姉さんを止めなくちゃいけないのに……)
一族の秘密を守るために、守り葉は存在する。
もし久遠の花や守り葉が一族の力を使って人を苦しめるならば、どんな手段を使ってでも阻止することが使命だ。
それで仲間を傷つけるとしても。
肉親の縁を断ち切るとしても。
説得して毒作りをやめてくれるなら話は早いが、あの様子では頑なに受け入れてくれなさそうだ。
だとすれば、力づくで止めなくてはいけない。
けれど一国の王妃である以上、容易に近づくことはできないだろう。イヴァン王もナウムもいずみを全力で守ろうとするのは目に見えている。
そして心の片隅に、守り葉の役目を捨てていずみを支えたい自分がいる。
ただ闇雲に人を傷つけるために毒を作っているのではない。
先王のせいで不安定になってしまったこの国を安定させ、この国の人々を生かすために、姉も戦っているのだというのはよく分かった。
優しいだけではいられない。姉がそう覚悟するだけの苦労があったことは想像に難くない。
いずみの力になりたい。姉の代わりになれるなら、その役目を引き受けてしまいたい。
しかしそれを絶対に受け入れられない自分もいる。
こうして悩んでいる間も、戦いは続いている。
姉の作った毒が、自分の大切な人を傷つけ、彼の国を苦しめているのだから。
バルディグの毒を作らせたくない。
姉の側に居続けたい。
この二つが頭の中を目まぐるしく駆けながら、激しくぶつかり合う。
衝突を起こす度に体のあちこちへ痛みが走り、みなもはその都度、奥歯を噛み締めた。
そんな時に、コンコンと誰かが扉を叩いた。
「みなも、入らせてもらうぞ」
ナウムの声だと分かった瞬間、みなもは眉間に力を入れる。
今は相手にしたくない。あの顔を見れば、さらに考えがまとまらなくなる。
しかし、みなもが断るよりも先に、ガチャッと扉の開く音がした。
疲労で重くなった体を動かすのは辛かったが、みなもは腹部に力を入れて素早く身を起こしてベッドから離れた。
部屋へ入って来たナウムの手には、銀の器に盛られた様々な果物があった。
「だいぶ参ってるようだが、何か腹に入れておけ。弱ったお前を相手にしても面白くねぇからな」
言いながらナウムは長椅子に座り、テーブルの上に器を置く。それから、こっちへ来いと無言で顎をしゃくった。
やっぱりナウムの顔を見ると、腹立たしさが湧き上がる。
けれど彼の素性を知った今、以前よりも抵抗感はなくなった。
みなもはナウムの向かい側の椅子に座ると、明るい橙色の葡萄を一粒摘んだ。
「……ありがとう、食べさせてもらう」
ここで強がっても意味はない。不本意ながら礼を言うと、みなもは口の中に葡萄を放り込む。
歯を立てると瑞々しく冷たい果汁が広がる。火照っていた体には心地良かった。
人の悪い笑みを浮かべて、ナウムがこちらを見つめてくる。
「いつもそれだけ素直なら、オレも嬉しいんだけどな」
「俺はいつも素直だよ。お前のことが嫌いだからね」
湧き出る不快さを真っ直ぐにぶつけるが、ナウムは嫌な顔どころか、さらに楽しげな表情を浮かべた。
「ククッ、確かにそうだな。……あーあ、八年前の俺に、ここまでみなもに嫌われたって言っても信じないだろうなあ」
いずみが認めた以上、幼い頃にナウムと遊んでいたのは事実なのだろう。
一番の悪夢は姉のことだが、二番目の悪夢はこの事実だった。
「昔は昔だ。今の俺も、お前も、あの村にいた頃とは違う。姉さんだって……まさか王妃になるなんて、想像すらしなかった」
みなものうめくような声にナウムが「同感だ」と苦笑すると、身を前に乗り出し、こちらを覗き込んできた。
「オレやいずみに何があったか、もう少し詳しく話してやろうか?」
条件反射で「嫌だ」と言いそうになり、みなもは言葉を呑み込む。
今この男と長く話をするのは苦痛だが、姉たちに何があったのかを知りたい。
みなもが無言で頷いてみせると、ナウムはニッと口端を上げた。
「分かった……ああ、でも普通に話すだけじゃあ面白くねぇな。ゲームでもやりながら話してやるよ」
「ゲームって、一体何をするつもりなんだ?」
「チュリックはどうだ? ちょうどこの部屋にあることだしな」
チュリックは幅広い地域で親しまれている、木製の盤の上で赤色と黒色の駒を戦わせ、相手の領地を奪い合うゲーム。
みなもにとっては馴染みのあるゲームだった。
住処にしている村に住む前。行く先々の街で大人たちを相手に、お金を賭けて色々なゲームをしていた時期があった。その中でもチュリックは得意なゲームだ。
ゲームをしながらのほうが、気が紛れてナウムとの会話の苦痛が和らぎそうな気がする。
それにゲームでナウムを徹底的に叩きのめせば、少し気分が晴れそうだ。
みなもの素っ気ない「いいよ」という声を合図に、ナウムは立ち上がり、飾り棚からチュリックを持ち出してくる。
テーブルに置かれた遊技盤と駒は少し色が剥げており、かなり使い込まれているのが見て取れた。
椅子に座りなおしたナウムは、両腕を膝につけ、前で手を組んだ。
「せっかくのゲームだ。負けたヤツは勝ったヤツの言うことを一つ、何でも聞くっていうのはどうだ?」
きっとこいつが勝てば、俺を自分のものにしたいと言い出すんだろうな。
みなもは目を細め、冷ややかな視線を送る。
こちらの思いに気づいたのか、ナウムは軽く肩をすくめた。
「安心しろ、いきなり押し倒す真似はしねぇよ。だからお前も、オレを殺すっていうのは無しにしてくれ」
「そういうことなら話に乗るよ」
内心、助かったと安堵しながら、みなもは無表情に頷く。
殺さなければいいのだ。
その顔を一発、派手に殴りつけるぐらいなら良いだろう。
今までチュリックで負けたことはない。
油断しなければ勝てるとタカをくくって、みなもはチュリックの駒を見つめた。
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