おかしな人 ―― 第五十七話・異聞
ある初夏の日中、特に込み合っていない電車の中で、僕が見かけた出来事だ。
座席は空いていたが、ほんの数駅しか乗らないので、僕は吊り革に手をかけて立っていた。
すぐ近くには女子大生風の人が座っていて、スマートフォンで誰かと話している。
「――じゃあ××さ、後で一緒にそこ行って――」
どうやら、「××さん」という人と会話中らしい。
車内での通話は、あまりマナーがいいとはされないが、小声なので、さほど気になるものでもない。
それよりも――僕は、少し離れた場所に座っている男の方が気になっていた。
髪をボサボサに伸ばした、中年の男である。暖かい日だというのに薄汚れたコートを着て、酔ったような赤い顔で、どっかりと二人分の座席を占めている。
それがさっきから、やはり一人で喋っている。
「――だしさ。ねえ、それで思ったんだけど――」
大声で、誰かと会話をしているように聞こえる。
電話だろうか、と思ったが、特に携帯電話の類は手にしていない。もちろん、耳にイヤホンが入っているわけでもないようだ。
時々いる、
そう思ったのだが、口調が少しおかしいことに気づいた。
「――私だって……じゃん。でさぁ、彼が――」
……お断りしておくが、これはあくまで、汚いコートを着た中年男の声である。
女子大生の方ではない。彼女は僕の近くで、時々しかめっ面で男を睨みながら、静かに話している。
僕は何となく、二人の声を拾い続けた。
そこで――妙なことに気づいた。
彼女と男の会話が、妙に噛み合っているのだ。
「――で、次の休みなんだけど――」
「――それならどこかで――」
「――じゃあ池袋――」
「――あそこはこないだ行ったし――」
まるで二人が、電話越しに会話を弾ませているようにさえ思えてしまう。いや、まさかあの男が「××さん」のはずもないだろうが。
内心苦笑しながら会話を聞いていると、やがて目的の駅に着いた。
電車が停まり、ドアが開く。降りようとすると、不意に例の女子大生が早足で僕を追い抜き、先に降りていった。
同時に中年男がピタッと黙るのを感じながら、彼を尻目に、僕もホームに降りた。
女子大生は相変わらず通話を続けながら、エスカレーターに向かう。僕も、自然と後を追う形になる。
その時だ。彼女のこんな言葉が、僕の耳に飛び込んできた。
「なんか、今乗ってた電車にキモいオヤジがいてさ。ずっと一人でブツブツ言ってるんだけど、それが××の言うこととまったく同じで――。ううん、声が漏れてたんじゃなくて、××の言おうとしてることを、そのオヤジが先に――」
気味悪げに言いながら、彼女はエスカレーターをすたすた上がっていった。
僕は――どうやら、極めて奇妙なものを見てしまったらしい。
去っていく女子大生を見送りながら、僕が内心唖然としたのは、言うまでもない。
* * *
第五十七話の没バージョン。台詞が入り乱れていて読者に伝わりにくいのと、作中のオッサンがどう考えても妖怪丸出しなので、不採用とした。
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