第百八十一話 学習塾の話
都内に住む、Sさんという男性から聞いた話だ。
もう三十年以上前のことになる。当時中学生だったSさんは、C県内の、ある学習塾に通っていた。
一口に塾と言っても様々だが、そこは典型的な総合型の塾だった。
名門校への進学を視野に、ハイレベルな受験対策をおこなうクラスがある一方で、純粋に学校の授業を補うのが目的のクラスもある。言わば、「進学クラス」と「補習クラス」という形で分けられているわけだ。
ただもちろん、この分類は、あくまで便宜上のものである。
べつに、生徒が自分の進路に沿ったクラスを選択する、というわけではない。彼らがどのクラスに入るかは、単純に、その生徒自身の学力で決まる。
入会の際におこなうテストの成績を基準に、優秀ならば進学クラスへ、逆に厳しければ補習クラスへ……といった具合に、塾側が判断する。
だから、優秀でも厳しくもない中間層のために、「中間クラス」というのも用意されている。こちらは、「名門校とまでは行かないが、地元では優秀」ぐらいの高校が、受験目標となる。
進学クラス。中間クラス。補習クラス――。この三つのクラスがあったということを踏まえた上で、いよいよSさんの話である。
Sさんがその塾に入会希望の書類を送ったのは、一年生の春――正確には、入学式がおこなわれるよりも少し前――のことだった。ある意味で、素直な時期の入会だった、と言えるだろう。
書類を出してから一週間ほどして、入会テストがおこなわれた。このテストの成績によって、入るクラスが決まるわけだ。
テストの会場には、他にも多くの生徒が集まっていた。
その中に一人、見知った顔がいた。ついこの前まで同じ小学校に通っていた、Y君だ。
Y君は家の方針で、地元の中学ではなく、都心部にある私立中学に進学していた。一方Sさんは、そのまま地元の中学に上がっていたから、すでに他校同士である。
それでも貴重な同窓生だ。テストが終わった後は、自然と互いに話しかけ、地元まで同じ電車で帰ることになった。
車内での会話は、どうしても勉強のことになった。
聞けばY君は、進学クラスを希望しているという。
もちろん、実際にどのクラスに入れるかは、今回のテストの結果で決まる。ただ、あらかじめ提出した書類の希望欄には、そう書いておいたそうだ。
何でも、これも家の方針――らしい。
「もともと、小学校も受験させるつもりだったみたいなんだけどさ。俺が、絶対に友達と一緒の学校がいいって大泣きして、断念させたんだってさ。……俺、もうよく覚えてないけど」
Y君はそう言って、はにかんだように笑った。
……ちなみにSさんは、自分の学力を踏まえて、中間クラスを希望していた。
両親からは、「あくまで希望なんだから、進学と書いとけ」と言われた。しかし、実際に自分が進学クラスに入って、猛勉強しているところを想像すると、「しんどそう……」という思いしか湧いてこない。
だから分相応に、中間クラスにしておいたわけだ。
……二人でそんなことを話しているうちに、やがて電車が地元の駅に着いた。
また塾で会おう――と約束し、その日は別れた。
後日、塾から正式に通知が届いた。
入るクラスも記されていた。Sさんは希望どおり、中間クラスだった。
初めての授業がおこなわれたのは、それから数日後の夜のことだ。
Sさんは、学校から帰った後、簡単に食事を済ませて、電車で塾へ向かった。
駅前の小さな六階建てのビルが、一階を除いて、丸ごと塾になっている。中間クラスは、階段を上っていった先の、四階にある。
授業は、午後七時から始まった。まず一つ目の科目を一時間おこない、少しの休憩を挟んで、さらに別の科目を一時間――。都合二時間で、だいたい午後九時頃に終わった。
中間クラスということもあって、授業内容自体は、それほど難しいものではなかった。せいぜい学校の授業を先取りする程度、と言えば分かりやすいか。喩えるなら、補習クラスならぬ、予習クラスである。
そんなわけで、特に置いていかれるようなこともなく、Sさんはホッとしながら、教室を出た。
……Y君にバッタリ会ったのは、その直後だ。
階段を下り、ちょうど下のフロアへ来たところで、三階の教室から出てきたY君と、不意に目が合った。
途端に――思わず、互いにギョッとした。
「よお……」
Y君が笑顔を作って、Sさんに手を振る。しかし、視線が泳いでいる。
理由は、簡単だった。
……この塾では、上の階に行くほど、クラスのレベルも上がっていく。Sさんのいる中間クラスは四階。さらに上位の進学クラスは五階。
三階は――補習クラスだ。
Y君は、どこか蒼白になりながら、懸命に作り笑顔を見せていた。
Sさんは、どう応えていいのか分からなかった。だから仕方なく、同じように「よお」と返し、その日はすぐに別れた。
何だか――無性に気まずかった。
Y君も、同じだったのだろう。それ以来、塾で顔を合わせても、話しかけてくることはなくなった。
ただ、軽く手を振るだけだ。
そうなると、Sさんも同じように振る舞うしかなかった。
……それでも一度だけ、授業が早めに終わった日に、三階へ様子を見にいったことがある。
いくつかある補習クラスの教室の一つで、Y君はまだ、机に向かっていた。
ドアのガラス窓越しに、Y君の顔が、チラリと見えた。
土気色の顔に、血走った目が浮かんでいた。
まるで何かに取り憑かれたかのような、鬼気迫る形相で、Y君は一心不乱に、ノートにペンを走らせていた。
以前彼が見せた、はにかんだ笑顔からは想像もつかない表情に、Sさんは思わずゾッとしたそうだ。
しかしこの良くない流れは、幸いにも一箇月で好転したという。
塾では定期的に、テストがおこなわれる。もちろん生徒の学力を見るのが目的だが、この成績次第であり得るのが、クラス替えだ。
Y君は――中間クラスに異動になった。
学力の向上が、認められたわけだ。
Sさんと同じ教室になったY君は、ようやく自信を取り戻してか、だいぶすっきりした顔に戻っていた。
「これからもよろしくな」
そう言って笑うY君は、ただ、こうも付け加えたという。
――すぐに上のクラスに上がってみせるよ。
実際、授業が始まると、Y君の表情は一変した。
あの時の鬼気迫る形相を蘇らせ、血走った目で、ノートにペンを走らせる。先生に当てられた時など、完全に声が上ずっている。
見ていて心配になる――というよりも、それを通り越して、痛ましいほどだった。
しかしそれも、また一箇月で終わった。
定期テストを終えた後、Y君は、本当に進学クラスへ上がっていった。
「これで、やっと親に文句を言われずに済むよ」
そう言って、中間クラスから巣立っていったY君の姿は、まるで、憑き物が落ちた後のようにも見えたという。
……少なくとも、まだこの時は。
Sさんが進学クラスに異動になったのは、それからさらに一箇月後のことだった。
すでに初夏も終わり、本格的な夏が訪れ始めていた頃だ。
進学クラスの初日――。いつものようにSさんは、学校から帰宅した後、簡単に食事を済ませ、電車で塾へと向かった。
ビルの入り口に着くと、ちょうど階段を上がっていくY君の後ろ姿が見えた。
すぐに「Y君!」と声をかけたが、向こうは気づかないのか、すぐに上のフロアへと消えてしまった。
また後で声をかけよう、と思いながら、Sさんも階段を上がった。
ビルは、一階に楽器の販売店が入っていて、二階が塾の事務所。三階から五階が教室になっている。前にも述べたとおり、進学クラスは五階にある。
ただ、進学クラスと一口に言っても、実際は複数の教室に分かれている。
だから――Sさんが自分の教室に入った時、そこにY君の姿がなかったことを、特に不思議には思わなかったそうだ。
そのうちに、授業が始まった。
進学クラスの授業は、中間クラスのそれに比べて、遥かにハイレベルだった。
そもそも扱うテキストからして違う。学校の予習どころか、その予習をすでに終えていることが前提の授業は、Sさんにとっては、相当息切れする代物だった。
――自分は、いるべきでない場所に来ているんじゃないか。
そんな思いに強く駆られながら、どうにか二時間の授業を終えた。
乗り切った、というよりは、為す
ぐったりしながら教室を出て、Y君の姿を探した。
他の進学クラスの教室からも、授業を終えた生徒達が、ぞろぞろと出てくる。
……しかし、Y君の姿がない。
もう帰ったのかな――と思いながらキョロキョロしていると、ふと、顔見知りの先生から声をかけられた。
「S君、Y君と親しかったよね? 今日、Y君が来てないんだけど、何か知らない?」
「……え?」
聞けば、Y君は無断欠席したという。
一応担当の先生から、Y君の自宅にも問い合わせたが、「間違いなくそちらに向かった」と言われたそうだ。
……つまり、家から塾へ来るまでの間に、Y君は消えてしまったことになる。
事故か、それともただのサボりか――。どちらにせよ、塾側も商売としてやっている以上、この辺を
ただ――Sさんにしてみれば、戸惑う以外の何物でもない話だ。
「でも、さっき見たんですけど。Y君のこと」
Sさんがそう言うと、先生は「どこで?」と尋ね返してきた。だから見たまま、「一階の階段を上がっていました」と答え――念のため、「見間違いかもしれません」と付け加えた。
先生は、首を傾げながら、立ち去っていった。
すでに生徒の数もまばらになっていた。Sさんは、Y君のことを気にしながらも、遅くならないうちに帰ろうと、階段へ向かい――。
そこでふと、聞こえた気がした。
……Y君の、上ずった声が。
授業で先生に当てられた時に耳にした、切羽詰まったような、あの独特の声が。
「Y君……?」
Sさんはそう呟いて、顔を上げた。
声は――上のフロアから聞こえたように思う。
しかし、この上は六階である。確か、教材の保管庫になっているとかで、教室は存在しないはずだ。
不思議に思いながら、Sさんはそっと、階段を上がってみた。
踊り場で折り返し、さらに進んだ先に、階段とフロアを隔てる非常用の扉があった。
扉は閉ざされていた。ただ、鍵はかかっていなかった。
開けてみると、灯りのない、真っ暗な廊下があった。
どうやら誰もいないようだ。引き返そう、と思い、Sさんは
そこで――また、Y君の声がした。
「…………」
何と言っているのかまでは、聞き取れなかった。しかし、もはや空耳ではあり得ない。
Sさんは非常扉を開け放ち、廊下に光を入れ、懸命に目を凝らした。
……奥に、ドアが見える。他のフロアと同じく、ガラス窓が嵌ったタイプのものだ。
Sさんは息を殺し、そっと近づいてみた。
光こそ乏しいものの、間近から覗けば、中の様子はうっすらと見て取れた。
……そこは、教室だった。
向かいの壁に黒板が掲げられ、ドアの手前まで、整然と机が並ぶ。
そこに――大勢の生徒が、着席していた。
皆こちらに背を向け、じっと黒板を見つめている。
その黒板の前では、先生らしき影が、頻りに
顔は分からない。この暗闇の中では、見えようはずもない。
何にしても――異様な光景だった。
――この教室は、何なのだろう。
――なぜ、真っ暗な中で、授業をしているのだろう。
Sさんが、そう思った時だ。
次第に闇に慣れつつあった目が、ドアのすぐ向こうに座っている生徒の正体を、ようやく認識した。
「……Y君?」
間違いない。Y君の背中だ。
つまり、Y君はここで授業を受けていた、というのか。
いや、そもそも――これは授業なのか?
そんな疑問が、すぐにSさんを突き動かした。
後から思えば、英断だったのだろう。Sさんは急いでドアを開けると、「Y君!」と叫びながら、その背中を叩いた。
Y君が振り返った。土気色の、あの顔で。血走った、あの目で。
思わず怖気づく。しかしすでに、怯えていられる状況ではなかった。
……すでに教室には、Y君以外に、誰の姿もなかった。
先生も、他の生徒達も、一人もいない。
Y君を除く全員が、Sさんがドアを開けた瞬間に、消えてしまっていた。
「Y、出ろっ!」
思わず呼び捨てで叫び、SさんはY君の腕を取って、教室から引きずり出した。
突然引っ張ったせいか、相当暴れられたものの、とにかく夢中で廊下を突き進み、そのまま二階の事務所までY君を連れていった。
その頃には、Y君は糸が切れたように、グッタリしていたという。
とにかく、何を聞いてもまともに答えられず、ただ「もっと上に行く……」という言葉を、頻りに繰り返すばかりだったそうだ。
その後――Sさんは、顔見知りの先生から内々で、こんな話を聞かされた。
……この塾にはもともと、進学クラスよりもさらにレベルの高い、「特級クラス」が存在していた。
生徒の中でも選りすぐりの秀才を集めたエリートクラスで、都内トップレベルの学校のみを目的とした厳しい受験対策に、日々取り組んでいた。
教室は、六階にあったという。
……その特級クラスに所属していた一人の生徒が、突然自殺したのは、かれこれ十年以上も前のことだ。
原因は、受験ノイローゼだったそうだ。
『――もう無理です。特級の授業に全然ついていけません』
そんな遺書を残し、このビルの屋上から飛び降りたという。
以来、同じ特級クラスの生徒達から、次々と苦痛を訴える声が上がり出した。
生徒の自殺をきっかけとした集団ヒステリー――という見方が濃厚だった。ただいずれにしても、こんな状態では、クラスを維持することはできない。
特級クラスは、その年で廃止になったという。
六階の教室も、それ以来ずっと、使われていないそうだ。
果たして、Sさんが見た、あの暗闇の中の授業風景は、何だったのか。
それにY君は、なぜあの教室にいたのか。
……意識を取り戻したY君は、自分でも詳しいことは、何一つ覚えていなかったそうだ。
ただあの日――塾に着いた途端、誰かに「上がってきて」と言われた気がしたのだ、という。
だから六階まで上がり、特級の授業を受けていた……というのだろうか。
ちなみに、Sさんが「どんな授業だった?」と聞くと、Y君は力の抜けた顔で笑い、こう答えた。
「……さっぱり分からなかった」
結局は、分不相応な授業など受けるべきではない、ということだったのかもしれない。
この事件の後、Y君は塾を辞めた。その後Sさんとは、数年ほど年賀状をやり取りするに留まり、三十年以上経った現在は、すっかり音信不通だという。
それにしても――と、この話をしてくれたSさんは、当時を振り返り、こう続けた。
「もしあのままY君が『特級』にいたら、どうなってたんだろうって……。今思うと、ゾッとしますよ」
あの時Y君は、「もっと上に行く」と言っていた。
確かにあの塾は、上のフロアに行くほど、クラスのレベルも高くなっていく。
しかし――六階の上には、もう屋上しかない。
……その屋上は、かつて特級の生徒が飛び降りた場所だ。
もしかしたら、Y君はもう少しで、取り返しのつかないところへ行こうとしていた――のかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます