第百六十六話 傘

 女性会社員のHさんが体験した話だ。

 どんよりとした曇り空が続く、ある秋の日の夕暮れのことである。

 陽もほぼ落ちかけた時刻。ちょうど仕事の一段落したHさんが、休憩がてら、オフィスの六階の窓から外を見やると、ふと視界の隅で、何かが目を引いた。

 ――傘だ。

 窓の真下に当たる、塀と塀に挟まれた、小さな路地――。そこに、いつからだろうか、大小色とりどりの傘が、いくつもひしめいている。

 ――ああ、雨が降ってるんだ。

 Hさんはぼんやりと、そう思った。

 八角形。十二角形。十六角形――。真上から見下ろす傘の姿は、無機質な人工模様でありながら、まるで、生きて咲き誇る大輪のようにも見える。

 そんな大輪が、連なって路地を埋め尽くし、緩やかに行き交う――。

 Hさんは束の間、傘が織り成すこの幻想的な景色に、ぼぉっと見とれていた。

 ……変だ、と気づいたのは、かれこれ一分も過ぎた頃だ。

「何でこんなに、人がいるの……?」

 よく考えてみれば――傘の数が、尋常ではない。

 所詮、オフィスの裏の狭い路地である。いくら帰宅ラッシュの時間とはいえ、表通りならいざ知らず、こんな路地に、これほど多くの人間がひしめいているのは、明らかに不自然だ。

 それに――見れば窓ガラスには、雨粒一つ付いていない。

 いったいどうなっているんだろう、とHさんが眉をひそめかけた、その時だ。

 びゅぅっ、と一陣の風が、ビル街を吹き抜けた。

 途端に、バタバタバタバタッ、と傘がはためいた。

 路地を埋め尽くしていた無数の傘が、風に煽られて、いっせいに空へと舞い上がった。

 あるものは骨を反らせ、あるものはよじれ、あるものは絡み合いながら――。それはまるで、驚いた鳥の群れが飛び立つようでもあった。

 ……傘の群れは、瞬く間に彼方へ消えていった。

 Hさんは呆然としながら、もう一度、真下の路地に目を向けた。

 そこには、誰の姿もなかった。

 ただ、乾いた無人の路地が、窓明かりに静かに照らされているだけだった。

 ――あのたくさんの傘は、いったい誰が差していたんだろう。

 きょとんとするHさんの目の前で、ようやく雨粒が一つ、パタッ、と窓ガラスに当たって弾けた。

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