第百三十四話 つかまれた

 都内在住のKさんという女性が、もう二十年以上も前に体験した話だ。

 当時、Kさんの家の近所の公園では、定期的にフリーマーケットが開催されていた。

 Kさんもよく足を運んだが、だいたい冷やかすばかりで、実際に買い物をした回数は、それほど多くはなかった。

 一番最後に買ったのは、秋物のコートだ。

 ライトブラウンのすっきりとしたデザインで、流行に関係なく着回せそうなのが気に入って、買い求めた。値段も、相場より安かった。おそらく、時季外れだったからだろう。

 その時は、初夏の盛りだった。

 もちろん買ったところで、到底コートなど着て歩けるような気温ではない。

 だからKさんは、これをクローゼットの片隅に吊るして、しばらくそのままにしておいた。


 ……ところが、それ以来、奇妙なことが起こり始めた。

 時々部屋のどこからか、コツ、コツ……と、音が聞こえてくるのだ。

 耳を澄ましてみると、どうやら、クローゼットの中かららしい。

 しかし、扉を開けてみても、特に異変はない。

 それに、決して頻繁に聞こえるわけでもない。せいぜい数日に一度のことなので、Kさんは次第に、気にしなくなっていった。


 やがて、秋が巡ってきた。

 Kさんは、ようやく例のコートを羽織って、表に出た。

 道を歩きながら、何となくポケットに、両手を挿し入れた。

 その途端――

 ……ポケットの中で。

 ……自分ではない、に。

 ……まるで握手でもするかのように、ぎゅぅっ、と。

「きゃっ!」

 思わず悲鳴を上げ、慌ててポケットから、自分の手を引き抜いた。

 それから急いでコートを脱ぎ、その場でバタバタとはたいた。恐る恐るポケットの中も覗いてみた。

 中は、当たり前のように空っぽだった。

 ……ただ、乾いた赤黒い染みのようなものが、ポケットの奥に付着しているのは、微かに見て取れた。

 もはや、改めてこれを羽織る勇気はなかった。

 Kさんは、コートを丸めて抱え、急いで家に戻った。

 そして、クローゼットに仕舞い込んだところで――ふと気づいた。

 ……クローゼットの内側から時々聞こえていた、あの音。

 ……あれはもしかしたら、ノックの音だったのかもしれない。


 Kさんは、それからすぐに、コートをゴミに出したという。

 もともと安値で買ったものなので、躊躇ちゅうちょはなかった。

 ただ――その翌日、近所の小うるさい住人から、奇妙な苦情が来た。

 何でも、Kさんの出したゴミ袋に、大きな穴が開いていたらしい。

 穴はまるで、何かが内側から突き破ったような形だったそうだ。

 ……果たして、いったい何が、袋を破ったのか。

 ……破った後、のか。

 いずれにしても――以来Kさんは、古着には手を出さないようにしている。

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